天秤の右腕
44
退官願いを出すと同時に、ムウは自室の整理を始める。
「最悪、とんずらだろうなぁ」
鞄一つに収まった私物を抱えながらそうつぶやく。
「そうならなきゃいいんだが」
なりそうな予感がひしひしとしている。それだけ連中にとって《ムウ・ラ・フラガ》と言う存在は手放しがたいのだ。
だが、こちらにも最後の一手がある。それを使わざるを得ないのか。
「本当、厄介だねぇ」
宮仕えというやつは、とムウはため息を付く。
「あちらがうまく根回しをしていてくれるといいんだが」
そのあたりは彼らのことだ。うまくやってくれていると信じたい。だが、どこに穴があるかわからない以上、力業で逃げ出すことも考えておかなければいけないのだ。
「ともかく行ってくるか」
絶対に『やめるな』と言われるんだろうな、とムウはため息を付く。
そのあたりはあの人の身分を明かして許可を取るしかない。それでもとれないときのことも考えておかないといけないかなぁ。そんなことまで考える。
「あぁ……キラの所に行きたい。行って顔を見て、ついでに癒やされたい」
そんなことをつぶやくと手にしていた荷物からいったん手を放す。そしてそのまま部屋を出た。
珍しくも今日はレイと二人だけだ。
「久々にレイのピアノを聞かせてよ」
だから、とこうねだってみる。
「はい、キラさん。喜んで」
即座にレイはこう言い返してきた。
「今からにしますか?」
「そうだね。レイがいやでなければお願いするよ」
キラがそう口にすればレイが立ち上がる。
「今、準備をしてくるので、少し待っていてください」
そしてこう言い残すと部屋を出て行く。
「なんか大事になったような気がする」
その背中を見送りながらキラはこうつぶやいた。自分は本の二、三曲弾いてもらえれば十分だったのに。この様子ではそれだけではすまないような雰囲気だ。
「でも、それだけレイの曲が聴けるからいいのかな?」
幸いと言っていいのか。今日の予定はすべて終わらせてある。後はギルバートが帰ってきてからの相談になるだろう。
ギナに関して言えば、いつ戻ってくるのかわからないから……とそんなことを考える。もっとも、それが彼の場合普通だからかまわないが、と続けた。
ただ、ここはギルバートの屋敷だからある程度自重してほしいところだ。だが今回はギルバートも関わっている以上、見て見ぬ振りをするのが一番だろう。
「キラさん、準備できました」
などと考えていればレイが息を弾ませながら戻ってくる。
「そんなに急がなくてよかったのに」
「キラさんが聞いてくれるって言ってくれたのがうれしかったので」
キラの言葉にレイは頬を赤らめながらこう答えた。
「僕も君のピアノを聞くのが楽しみだよ」
そう告げればレイはさらに頬を赤らめる。だが、とてもうれしそうだ。
「そんなにうれしい?」
思わずこう問いかける。
「はい。俺がキラさんにしてあげられる数少ないことですから」
それに、ピアノを弾いていれば心が落ち着く。レイはそう言葉を返してくる。
「だから、レイのピアノは気持ちいいのかな?」
安心できるし、とキラは続けた。
「そう思ってくださればうれしいです」
移動しましょうか、とレイは車いすの後ろに向かう。自分で動かせるが、ここは彼に任せるべきだろう。キラはそう判断する。
「お願いね」
「はい」
そう言うとレイはうれしそうに車いすを押した。
気がつけばキラは車いすに座ったままうたた寝をしている。
それだけ気を許してくれていると言うことか、とレイは思う。
しかし、このままでは風邪を引く。しかし、ピアノを止めたら彼は目を覚ますのではないか。そう考えればピアノを引く手を止めるわけにはいかない。
いったいどうすればいいのか。
そう考えながらも鍵盤をたたき続けていたときだ。
「キラは眠ってしまったか」
こう言いながらギナが入ってくる。
「はい」
「ならば部屋に連れて行こう。起こせばあれこれ働きたがるからの」
「起きませんか?」
「本気で寝入っているから大丈夫よ。あぁ、すまぬが車いすを頼む」
そう言うとギナは壊れ物を扱うような手つきでキラを抱き上げた。その動きに少しだけ嫉妬心がわき上がってくる。
「おぬしでは今しばらく無理よな。後二年待つがよい」
レイのその気持ちに気づいたのか。ギナはこう言ってきた。
「そうすればもっとしっかりとした体躯になる。キラを抱き上げるくらい簡単よ」
何、すぐだ。ギナはそう言って微笑む。
「……はい」
本当にそうであればいい。レイはうなずくと立ち上がった。