アスランが病室に辿り着いたとき、そこにいたのはラクスだけだった。
「キラは?」
 いるべき相手の姿がないことに不信を覚えつつ、アスランは問いかける。
「ドクターの所ですわ。ラミアスさんとご一緒に」
 私はお留守番ですの……と口元に微笑みを浮かべる彼女の瞳は、まったく笑っていない。その表情はニコルが何か考えているときのそれとよく似ている。
「それは、俺に用があったから……と判断してよろしいのですね?」
 アスランはラクスのその表情にため息をつきながら問いかけた。
「えぇ。不甲斐ない貴方に是非とも言わせて頂きたいことがありますの」
 そう言った彼女の微笑みが非常に怖いような気がするのはアスランの気のせいだろうか。
「不甲斐ない、ですか?」
 一体自分のどこが不甲斐ないというのだろうか、と思いつつ、アスランはラクスに聞き返す。
「えぇ。私からすればそう見えますわ。いえ、私だけではありませんわね。ラミアスさんも同じ考えですわ」
 ふっと微笑みを消すと、ラクスがまっすぐにアスランを見つめてくる。
「アスラン。キラ様に肝心なことをおっしゃっていませんわね、貴方」
 きっぱりとラクスは言い切った。それが何のことか、アスランにはわからない。そんなアスランの内心を読みとったかのように、ラクスはさらに言葉を続ける。
「それがキラ様の心の中から『迷い』を消せない理由のようです。それを消せるのは、貴方だけですのに。それをなさらないから『不甲斐ない』と申しております」
 ご理解頂けましたか? とラクスはアスランを睨み付けた。
「……俺に何をしろとおっしゃるわけですか?」
 キラのことに関しては細心の注意を払っているつもりのアスランにしてみれば、彼女の指摘は今ひとつ納得できない。だが、こうまで厳しい表情でラクスが言葉を口にしているのであれば、自分が見逃している何かがあるのではないか。そう思ってのことだ。
「……本当にわかっておられませんの?」
「貴方にそう言われるのは不本意ですが」
 キラの不安を解消できるというのであれば、聞かざるを得ないだろうとアスランは付け加える。
「アスラン……貴方、キラ様が女性になられた後、どうなさるおつもりでしたの?」
 ラクスのこの言葉に、アスランはかすかに目を眇めた。
「どうって……ずっと側にいるつもりですが?」
「それは友人として、ですの? それとも別の関係としてですか?」
「……キラが認めてくれるなら……あいつと結婚したいとは思っていますが?」
 本当は無理にでも……という気がないわけではない。そうすれば、何があろうと二度と《キラ》を手放すなんて言うことはないだろう。そして、キラが側にいてくれれば自分はなんでもできる、とアスランは心の中で付け加える。
「それをキラ様にお伝えしました?」
「……伝えたつもりですが?」
 あれだけ側にいて欲しい、キラがキラであればいいと、ことあるごとに言ってきたのだから、キラが自分の気持ちに気づいていないとはアスランは思っていない。だが、ラクスはそんな彼の言葉にため息をついて見せた。
「でも、いくらアスランが伝えた……とおっしゃっても、肝心のキラ様がそう思っていなければ意味がありませんわよね」
 そして、こう口にする。
「キラに……伝わっていない?」
 まさか、と言いかけてアスランは思い直す。今のキラなら十分考えられるのでないかと判断したのだ。
「あいつは、本当に……」
 鈍いにもほどがあるだろうとアスランはため息をついてしまう。
「どうやら、私たちが申し上げたいことをご理解頂けたようですわね」
 それをあなたが言うのか、と言うような視線をラクスはアスランへと向ける。
「キラ様の時間は16歳で止まっておられたことを忘れないでくださいませ」
 自分たちなら雰囲気で感じ取れることも、キラには無理だという可能性がある、とラクスは言外に付け加えた。
「そうでしたね。戻ってきてくれたことと俺たちを選んでくれたことだけで満足して、その点を失念していました」
 失われた時間が自分たちの間にそれだけの違いを生み出したとしても仕方がないのか……とアスランは思う。
「3年間というのは、本当に大きいですわね……もっとも、それがわからない大馬鹿者の方々もまだいらっしゃるようですけど」
 その言葉が誰のことを指しているものか、はっきりとわかってしまった。
「そいつらからキラを守らなければなりません。もちろん、ご協力頂けますよね?」
「当たり前ですわ」
 そのために、仕事も休むことをしたのだ……と口にする彼女にアスランは苦笑を禁じ得ない。
「でも、その前にキラ様とじっくり話し合ってくださいませね。キラ様が戻られましたら、私たちは失礼させて頂きますから」
 その言葉の裏に、これ以上キラを不安にさせたら許さないという声が聞こえたのはアスランの気のせいだろうか。
「わかっています」
 それは自分が希望することではない。そして、今まではキラと二人だけでゆっくり話す時間が取れなかったのも事実。
 その時間が取れるなら、とアスランはきっぱりと言い切った。

「アスラン?」
 来ていたの、とキラは彼の姿を認めた瞬間、目を丸くする。
「来ない方がよかったか?」
 アスランの問いかけに、キラは直ぐ首を横に振って否定した。
「忙しいんじゃないかと思っただけなんだけど……」
 アスランはザフトでも偉いんでしょう、とキラは付け加える。
「それなら代わりにしてくれるものがいるし……キラのことだって重要だろう? 俺は他の奴にキラのことを任せる気は全くないしね」
 護衛や話し相手ぐらいなら妥協するけど、と微笑みながら、アスランはキラの頬を自分の掌で包み込んだ。そのまま顔を覗き込んでくる。
「顔色が少し悪いね。やっぱりちょっと無理をさせちゃったかな?」
 少し眉を寄せるとアスランはこう口にした。
「そんなことないと思うけど」
 口ではこう言いながらもキラの視線は周囲をさまよってしまう。それは自分でも自覚をしているときの癖だ……とキラ自身は気づいていない。だが、幼なじみは伊達ではなかった。
「というのはキラだけだよ」
 ともかく、ベッドに戻る……と半ば強引にキラはアスランにベッドに押し込められる。
「では、アスラン。後をお願いしますね。キラ様。また、明日まいりますから」
「欲しい物があったら教えてね。明日持ってきてあげるわ」
 そんな二人をほほえましいと思っているのか――それとも別の意図があるのか――ラクス達は笑みを浮かべると病室を出て行こうとする。
「ラクス? マリューさん?」
 どうして、とキラはその背中に向かって問いかけの言葉を発した。
「アスランがキラ様にお話しがあるとおっしゃっていましたし……私たちがお聞きしない方がいいこともありますでしょう?」
 特に、軍のことに関わるようなことは……とラクスは微笑みながら口にする。
「……そうなの?」
 視線をアスランに移して、キラは確認を求めるように言葉を口にした。
「まぁ……ね。さっきのことも含めてあれこれ聞きたいこともあるし」
 機密事項が混じる可能性がある……とアスランは苦笑を浮かべる。普段、フラガ達と行動を共にすることが多いから気にしなかったが、確かにそれならば二人はいない方がいいかもしれない……とキラも判断をした。
「じゃ、仕方がないよね」
 それでも、どこか渋々といった様子でキラは頷く。
「キラ様。明日またまいりますから。そうですわね。ババロアかムースをおもちしますわ。みんなでお茶にしましょう」
 甘いものならお食べにられるようですからと言うラクスの言葉に、キラは微笑みにかすかに苦いものを含ませる。
「そうだ。あのさ……ハロ、いたら連れてきてくれる?」
 久々に会いたいんだけど……と告げるキラに、アスラン達は思わず顔を見合わせた。
「そう言えば……トリィちゃんはどうなさいましたの?」
「……確か……トール君かミリアリアさんが連れて行ったかと……後で確認してみましょう。まだ無事かどうか」
「そうですね。ボディが残っていれば、少々壊れていても直せますし」
 キラも、トリィが側にいた方がいいだろう? そう言われて、反射的に頷く。
「じゃ、それも明日までに……ついでに、みんなと話が出来るかどうか、カガリさんと相談しておくわ。あちらが集まれる時間がわかれば、キラ君の予定も立てられるでしょう?」
 実際会うのはまだ難しいだろうが、通信ならいくらでも便宜を図れる、とラミアスが口にする。
「……でも、みんなも……」
「気にしないの。会いたがっているのは彼らも一緒」
 あくまでも他の者のことを優先させようとするキラに、苦笑を浮かべつつラミアスが言い切った。
「そちらの方はお願いしてかまいませんか?」
 これ以上キラに口を挟ませないように、と思ってのことか。アスランがラミアスに声をかける。
「えぇ。ラクスさんの家にはカガリさんとのプライベート回線がありますし、今日も連絡を取ることになっていますから」
「キラ様のことを毎日ご報告しないと、カガリさん、こちらに今すぐおいでになりそうなんですもの」
 それではオーブが大混乱になってしまいますでしょう? と微笑むラクスに、キラは目を丸くしている。その隣でアスランは盛大にため息をついていた。その意味がなんなのか、キラが聞くのが怖いと思ったのは正しいだろう。
「そう言うことだから。心配しなくていいのよ」
 にっこりと微笑むと、ラミアスはラクスを促してドアをくぐる。キラが我に返ったときにはもう、室内には自分とアスランしかいなかった。
 それに気づいた瞬間、キラは何か息苦しさを感じてしまう。
 まっすぐに自分を見つめている翡翠の瞳のせいだろうか……と思いながら、どうしたらいいのかキラにはわからない。
 視線をそらすことも、口を開くことも、してはいけないような感覚に襲われていたのだ。
 人形のように固まってしまったキラを、アスランはただ黙って見つめている。
 沈黙が室内に広がっていく。
 それにそろそろ耐えられない、とキラが思ったときだった。
「キラ」
 アスランが口を開く。
「何?」
 珍しく言いよどむ彼に、キラは不安を感じてしまう。そんなキラの表情に気づかないのか、アスランは二三度唇を開きかけて閉じる。だが、最後には意を決したかのようにキラの瞳を覗き込んできた。
「……この一件が片づいたら……俺と結婚してくれる?」
 そうして彼の唇から飛び出したのはこんなセリフ。
「アスラン?」
 その言葉の意味を、キラはしばらく理解することができなかった。
「……アスラン……今、なんて……」
 聞き間違いだよね……とキラは笑おうとした。
「結婚しようって言ったんだよ、キラ。いやか?」
「……いやかって聞かれても……そんなこと、言われると思っていなかったから……」
 わからない、とキラは素直に言葉を口にする。
「それに、僕……」
 明らかに戸惑っているとわかるキラに、アスランはそうっと手を伸ばす。そしてそのまま自分の胸へと抱き寄せた。
「何回も言っているだろう? 俺はキラがキラであればいいんだって……さすがに『男』のキラと結婚はできなかったけどね。でも、いつだってこうやって抱きしめたかった」
 その行為をキラは拒まない。
 逆にアスランの胸に自分の頬を押し当てると、安堵するかのように小さくため息をつく。
「許されるなら……この先もしたいんだけどね、俺は」
 そう言いながら、アスランはそうっとキラの背を撫でる。その動きが持つ意図にキラも気づいたのだろうか。かすかに体を震えさせた。
 キラの反応を感じ取って、アスランはその体を離そうとする。しかし、キラは何かを決めようとするかのようにアスランから離れない。
「キラ?」
 離れてくれないと困るんだけど……とアスランは苦笑混じりに告げる。
「……僕は……」
 そんなアスランに向かってキラが何かを口にしようとした。だが、上手く自分の心を言い表す言葉が見つからないのだろうか。直ぐに言いよどんでしまう。
「僕は……何?」
 キラの気持ちが固まるまで待つつもりなのだろうか。アスランは小さく吐息をつくとそうっとその髪をなで始めた。
「僕は、君に側にいて欲しいけど……守られるのはいやだ……」
 ようやくキラが口にしたのはこんな主張。それはキラがいつも口にしていることだ。だが、その意味が微妙に異なっていることにアスランは気づいたらしい。
「わかっているよ、キラ」
 口元に穏やかな笑みを浮かべるとアスランはキラに囁く。
「俺はお前を守りたいけど……それはラクス達に対する気持ちとは違う。俺が助けて欲しいときはそう言うよ」
 その思いは多分一生変わらない、とアスランが告げた。
 ならいいか、とキラは思う。
 怖いのはアスランの気持ちが今までと変わってしまうことだけ。自分を『無条件で庇護する』対象と彼が思うことだけなのだ。
 実際、彼に触れられても嫌悪感を感じることはない。
 これ以上のことをされたとしても、アスランなら我慢できるのではないか……とキラは思う。
「……アスラン……多分、好きだよ……そう言う対象としても……」
 だから、完全にためらいを消せないまでもキラはこう口にする。次の瞬間、キラの唇はアスランのそれに塞がれていた。




ようやくアスランが言って欲しいセリフを口にしてくれました。これで後は事件の集束に向かうだけです、はい(^_^;