仮面
10
そうしてその場にたたずんでいてどれだけの時間が経っただろうか。
医療室のドアがようやく開かれた。
「アスラン・ザラは、いるな?」
中から出てきた白衣の軍医が開口一番こう言った。
「……自分、ですが?」
キラに何かあったのだろうか。そう思いながら、アスランは彼の前に進み出る。
「彼が会いたがっている」
着いてきたまえ、と彼はきびすを返そうとした。だが、その動きを止めてアスランへと視線を戻す。
「ただ、完全に暗示が解けたわけではない。言動には十分気をつけるように」
暗示が深層心理まで及んでいるのだ、と彼は言外に付け加える。それだけ執拗にかけられた暗示が、キラにどのような影響を与えていたのか、考えただけでもアスランは怒りが湧き上がってくる。だが、それをキラに悟らせるわけにはいかないだろう。
「わかりました」
大きく息を吐き出すことで、アスランは気持ちを落ち着かせる。
「では、中へ」
そんなアスランの態度に軍医はかすかに表情を和らげると再び足を動かし始めた。その後をアスランが焦りを隠せない様子で着いていく。
「……俺たちはお呼びじゃないってことか……」
ドアの向こうに消えていく彼らの後ろ姿を見ながらディアッカが呟いた。
「しかたがないのでは? あの様子では余計な刺激を与えることはマイナスにしかならないのでしょうし」
それでキラに万が一のことがあれば、アスランも無事ではすまないのではないか。彼の様子を見ているとそんな気持ちになるとニコルは呟く。
「つまり、俺たちがここにいてもしかたがないと言うことだな」
それは最初からわかっていたことだと言っていい。しかし、この場に来てしまったのは、キラに対する好奇心が押さえきれなかったからなのだろう。
「なら、これ以上ここにいても無駄か」
言葉と共にイザークはその場を後にする。
「待てよ!」
ディアッカが慌ててその後を追った。
ニコルは一瞬、再び閉ざされてしまった医療室のドアへと複雑な視線を向ける。だが、すぐに他の二人を追いかけるように移動を始めた。
医療室の奧、カーテンで仕切られたベッドの上にキラはいた。
その瞳が不安で揺れているような気がしたのは、アスランの気のせいではないだろう。
「……キラ……」
キラをできるだけ刺激しないように……とアスランは声を潜めて彼の名を呼んだ。その瞬間、はじかれたようにキラが視線を向けてくる。
「……ご、めん……」
震える唇が、不意にこう呟いた。
いったい、彼は何を謝っているのだろう。アスランはすぐに理解することができなかった。
「……ごめん、アスラン……」
その沈黙をどう受け止めたのか。
キラはまたこう口にする。同時に、彼の大きなすみれ色の瞳が涙で潤む。
「キラが……謝ることなんて、何もないだろう?」
彼のその表情がアスランの心を突き動かす。刺激をしないようにという軍医の言葉すら、脳裏から失われていた。
言葉と共に、アスランはキラの体を抱きしめる。
「だって……」
素直にアスランの肩に頭を預けながら、キラはさらに何かを口にしようとした。しかし、すぐには言葉が見つからないようだ。アスランはそれを感じて、キラの言葉を封じるように先に口を開く。
「こうして俺--------僕の側に戻ってきてくれただろう? だから、いいんだ。後のことはこれから考えていけばいい」
今はだからいいのだ……と付け加えれば、小さくしゃくり上げる声が聞こえる。
「……ごめん……」
それに紛れるようにキラがまた同じ言葉を呟く。その後ろに『君だけを選べなくて』と続けられたように聞こえたのは、アスランの気のせいだったろうか。いや、自分が覚えているキラなら、そう言ってもおかしくないだろう。
「キラのそう言うところも大好きだよ」
囁きと共にアスランは彼の髪へと指を滑らせる。さらさらと指の間からこぼれ落ちる感触はアスランの記憶の中と少しも変わっていない。すぐに涙ぐむところも、自分のことよりも先に他人を心配するところも、記憶の中の彼のままだ。
「だから、今は何も考えなくていいから……僕の側にいてくれ」
もう二度と離れないで欲しい。アスランは自分の感情を素直に口にする。例えそれがキラを苦しめることになってもかまわないとすら思ってしまう自分に、一瞬だけ嫌悪を覚えた。だが、それも腕の中のぬくもりにかき消されてしまう。
「……ごめん……」
今までとは微妙に違うニュアンスでキラが言葉を口にする。そして、おずおずといった様子でアスランの背に彼の腕がからんできた。
「キラ」
ようやく、無理矢理かぶせられていた仮面を外されたキラが自分の元に戻ってきてくれた。背中から伝わってくるその感触に、アスランはようやく手の中のぬくもりが現実になったような気がする。あまりにいろいろとありすぎて、どこか夢の中のようにも感じられていたのだ。
まだ、完全にキラの暗示は解かれたわけではない。
それ以外にも、厄介なことはたくさんあるだろう。
だが、今感じているぬくもりを手放さないためには、どんなことでもできる。アスランは心の中でそう呟いていた。