58
裏から戦争を煽る者がいなくなったからだろうか。
連邦軍とザフトとの戦争は程なく終結を向かえた。その裏にはオーブ代表首長であるウズミの働きがあったことは言うまでもないであろう。
もちろん何の混乱もなく……というわけではない。
地球ではブルーコスモスたちが相変わらずコーディネーター排斥を叫び、テロを繰り返しているし、プラントではプラントで、パトリックが押さえていた強硬派が自分たちの意見を通そうと騒ぎ立てている。しかし、それらは今までの戦いに比べれば、かなり気が楽だと言ってよかった。
しかし、あの日からキラは一度も目を覚ますことはなかった。
白い部屋の中、ベッドの上で眠り続けている。
「……キラ……」
その首筋にそっと指先を触れさせ、鼓動があることを確認して、アスランはようやく安心できた。
目を閉じたまま横たわっている彼の肌は、最近、日を浴びることがなかったせいか透けるような白さだ。しかも、目を閉じていると彼の容姿と相まって肌が陶磁器のようにすら思えてならない。
「早く目覚めてくれ……」
そうすれば、間違いなくキラが生きていると実感できるから……とアスランは呟く。
「俺に残されたものは、キラだけなんだ……」
キラがこのセリフを耳にすればきっと『違う』というだろう。まだ他にもたくさんアスランに残されたものはあるだろうと……だが、アスランにしてみれば、キラの存在を超える物など何もないと言い切れるのだ。
「……キラ……」
そのまま、キラが眠るベッドの脇にアスランは膝をつく。
「昔読んだ古い童話みたいに、これでお前の目が覚めてくれればいいのに……」
ゆっくりと顔を寄せるとアスランはこう囁いた。同時に、自分の唇をキラのそれへと重ねていく。うっすらと開かれた唇の隙間から舌を差し入れるが、キラから反応が返ってくることはない。
それを悲しく思いながら、アスランは唇を離す。
「愛してる」
耳元で囁くと、アスランはそのまま頭を彼の枕元へと伏せた。そして、そのまま目を閉じる。
自覚はしていなかったが、疲れていたのだろうか。
周囲の音がなくなれば、キラの吐息が辛うじて耳に届く。それを感じながらアスランの意識は眠りの中にへと落ちていった。
そのままどれだけの時間が過ぎたのだろう。
アスランは幼い頃のキラの穏やかな歌声を耳にしていた。それは自分の記憶の中にあるものと変わらず、自分の心をいやしてくれる。
そんなことを考えながら、彼の意識は急速に覚醒へと向かう。
「……キラ……?」
彼のぬくもりを感じていたから、そんな夢を見たのだろうか……と思いながら、アスランはその頬へ触れようと手を伸ばす。だが、いつまで経っても彼の手にぬくもりは伝わってこない。
「キラ!」
その事実にアスランは一気に目が覚めた。
はねるようにして体を起こせば、彼の肩からいつの間にか掛けられていた毛布が滑り落ちる。しかし、その事実すら気がつかないというように、アスランは周囲を見回す。
僕の心に残る懐かしい面影
それを抱いて 明日に向かおう
過ぎし日の想い
優しさを忘れないから
全ての人に、安らかな眠りを
それは、葬送の歌だろうか。
でも、誰が誰に対する?
「……まさか……」
キラのための……と考えた瞬間、アスランは全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
そのまま、彼は声がする方向へと駆け出す。
声はベランダの方から聞こえてきた。
開け放たれたドアまでは本の数歩で辿り着く。
その瞬間、アスランの瞳に映ったその姿は……
「……キ、ラ……」
アスランの声が届いたのだろう。キラがゆっくりと菫色の瞳を彼へと向けてきた。次の瞬間、彼の口元に穏やかな微笑みが広がっていく。
「アスラン、おはよう」
キラの唇が言葉をつづる。
「キラ!」
アスランの全身を歓喜が包み込んだ。同時に、これは自分が見ている都合がいい夢ではないかという想いもある。
震える指がキラへ向かって差し伸べられた。
柔らかな感触が指先から伝わってくる。そのぬくもりが、これが夢でないとアスランに伝えてきた。同時に、アスランは力一杯、その華奢な体を抱きしめる。
「痛いよ、アスラン」
そんなアスランの耳に、キラの苦笑を滲ませた声が届く。だが、彼はそれでも腕の中の存在が逃げ出してしまわないように腕の力を抜くことが出来なかった。
キラが目覚めたことを知った者たちが、大挙して訪れたのはそれからすぐのこと。
「……アスランだけ、ずるいですわ」
「そうですよ。一人だけキラさんの歌を聴くなんて!」
まだ体の調子が本当ではないから……と柔らかなソファーの上でクッションに埋もれていたキラの目の前で、アスランが二人に詰め寄られている。
「……まったく……戦争が終わったからってやらなきゃないことは山積みだっていうのに……平和なことだ」
目の前で繰り広げられている、ある意味彼らの信者が見たら目を剥くような光景を、イザークがいつものようにあきれた表情で見つめていた。
「何言っているんだ。お前だって興味津々だったくせに」
しかし、そんな彼にディアッカが笑いを含んだ声で言葉をかける。
「知っているぞ、俺は……ニコルからしっかりとコピーを巻き上げたんだって? キラの幼年時代の歌の」
さらに続けられた言葉に、言われた当人だけではなくキラまで頬を染めた。
「……僕の歌なんて……そんな価値ないと思うんだけどな……」
ラクスの歌やニコルのピアノ、それにみんなの強さほどには……とキラは付け加える。
「……知らないっていうのはある意味すごいことかもしれんな……」
「というより、この鈍さがキラらしいとも言えるんだが……」
二人はあえてキラには聞こえないように囁きあう。
「でも、俺は好きだな、お前の歌」
「ディアッカ!」
さらりと告げられた彼の言葉に、キラは思わず叫び声を上げ、イザークは遠慮なくその後頭部へ拳を入れた。
「どうしたの、キラ!」
「……キラ様に何をなさいましたの、ディアッカ様」
「セクハラをしたわけじゃないですよね?」
それまでいがみ合っていた三人が、今度は矛先をディアッカに向ける。
「……これは、当分収まらないな……」
イザークがこう呟いた。
「イザーク」
どうしよう、とキラが彼を見上げてくる。その瞳には不安が揺れていた。それに気づいて、イザークはため息をつく。
「……歌ってやれ」
「えっ?」
「少なくとも、ラクス嬢とニコルはそれで満足するはずだし……俺も聞いてみたいからな、お前の歌」
イザークのこの言葉にキラはどうしようかというように小首をかしげた。だが、すぐに何かを考え込むような表情を作る。
しばらくして、キラは大きく息を吸い込んだ。
今、あなたがここにいること
今、あなたが微笑んでいること
今、僕がそれを見ていること
それだけで世界は優しくなります……
だから、このときを奪わないで
もう二度と、僕の手から……
柔らかな声に、アスラン達が動きを止める。
キラの歌は、彼の願い。同時に、この戦争で傷ついたすべて者たちの願いでもあった。そして、それを守ることがこれからの自分たちの役目なのだろう。アスラン達はそう思う。
そんな彼らの耳に、キラの声がいつまでも優しい歌を届けていた。
『キラ……キラの望みって何なの?』
『んっとね……僕は、あそこに行ってみたい』
『あそこ?』
『うん。まだ誰も行ったことがない星に』
「すごいね」
目の前にある宇宙船を見た瞬間、キラは思わずこんなセリフを口にしてしまった。
「キラの願いを叶えるにはあのくらいの大きさが必要だったんだよね」
そのキラの体を抱き寄せながら、アスランが笑う。
「僕が言いたいことはそんな事じゃないんだけど……」
素直にその腕の中にいながら、キラは言葉をつづった。
「まだあれから何年も経っていないのに、あれだけの船を協力して作り上げられるなんてすごいねって思ったんだよ」
そして、あの船に乗り組むことになっているものは二つの種族から選ばれた者たち。その中には二人がよく知っている者たちが多数含まれていた。
「新しい希望が必要だったからね。失ったものが多すぎる」
言葉とともにアスランの腕に力がこもる。
「……この腕の中に残るものは、ただ一つだけでいいのにね……何にも代え難い大切な存在。それだけで、こんなに幸せになれるのに……」
そう言いながら、アスランはキラの髪に口付けた。
「相変わらずだね、アスランは……あんなにいろいろな人と知り合ったのに、まだ撲に固執するの?」
「キラがいないと、僕が幸せになれないんだから仕方ないだろう?」
だから、ずっと側にいてくれ……と囁きながらアスランはキラの唇に自分のそれを寄せていく。
「……どこにも行かないよ。ずっと側にいるって約束したろう?」
吐息が絡まる距離でキラがこう囁き返す。
「そうだね」
重なった唇から伝わるぬくもりをもう二度と離さない。
お互いがそう望むのであれば叶わない願いなんてないのだから。
アスランは心の中でこう呟いていた。
終