三蔵は、寺院までの道をもどかしい思いを胸に抱きながら歩いていた。
 なにやら、胸がざわめいている。
 それはかつて『悟空』の声が聞こえていたときのものに似ているような気もするが、まったく違うようにも思えた。いや、あの時と違って悪い意味でのざわめきと受け取れた。
「……猿に何かあったのか?」
 やはり、僧正に何を言われても連れて行くべきだったか……と三蔵は付け加える。
 自分がそばにいて守りきれなかった、というのはもちろん気にくわない。だが、それ以上に自分がいなかったせいで万が一の事態になってしまったというのはしゃくに障るなんて言うものではないのだ。
 実際、僧正が悟空から目を離さずにいられるわけがないことはわかっていた。そして、悟空にかにかをしようとしている連中が多少の根回しであきらめるつもりもないことも……それでも出かけていったのは、僧正に対する三蔵なりの敬意の表れだったと言っていい。
 だからといって手をこまねくつもりはなかった。
 すべての接待を辞退して、早々に戻ってきたのもその理由からだった。
 しかし、その三蔵の努力も無駄だったというのだろうか。
 歩みを早めながら、三蔵は心の中で小さく舌打ちをする。
「ったく……」
 やっぱり、最初に話を聞いたときに遠慮せずにしめておくべきだったか……などと、腹立ち紛れに考えつつ、三蔵はさらに歩みを早めていく。それはもう『歩く』と言うよりは『走る』と表現するのがしっくりと来るような早さだった。
 それでも、なかなか寺院が見えてこない。
「……どこからか馬を手に入れてくるべきだったな……」
 そうすれば、もう少し早く寺院にたどり着けるだろうに……と三蔵は口の中だけで付け加える。それだけ三蔵は焦っていた。
 頭の中に響いてくる悟空の声の様子がいきなり変化したのだ。
 間違いなく自分を呼んでいるはずなのに、違う誰かの名を呼ばれているような気がする。だが、それも間違いなく自分自身の名前なのだという声が、三蔵の心の奥から響いてきた。
「あの馬鹿猿は……どこまで俺に迷惑をかければ気が済むんだ……」
 だが、悟空にその名を呼ばせては行けないと同じ声が告げている。
 急がなければいけない……と思ってみても、ただの人間でしかない自分はこれ以上早く進むことはできないのだ。
 もどかしい思いが、やがて怒りへとすり替えられる。
「ぜってぇ、ぶん殴ってやる!」
 それもこれも、悟空が全部悪いのだ……というのは八つ当たりだとはわかっていても、三蔵はこの決意を変えるつもりはなかった。
 やがて、周囲の風景が変化する。
 おそらく、後少しで寺院にたどり着くであろう。
 その事実に、三蔵はほんの少しだけほっとしたような表情を作った。だがそれはすぐに別のものへと変化をする。
「……血のにおい?」
 寺院方面から漂ってくる風の中に、ほんのわずかだが、さびた鉄のようなにおいを三蔵はかぎ取った。しかし、不浄を嫌う寺院からそんなにおいがするわけはない。もしするとすれば、それは何か異常事態が起こっている証拠であろう。
「悟空!」
 そして、それに悟空が関わっているのは間違いなさそうだ。
 三蔵はいっそうの不安を抱いたまま道を進んでいく。
 そのまま、寺院の門をくぐった。
 次の瞬間、それまで止まることのなかった三蔵の足が地面に縫い止められてしまう。
 目の前に広がっている光景から目が離せない。
 それは、恐怖のためではなかった。
(……俺は……)
 壁や地面の至る所に飛び散っている血痕。それは三蔵の思い出したくない記憶を連想させる。
 そして、その中心にいるのは間違いなく『悟空』であるはずだ。
「……あれは、マジで悟空なのか?」
 三蔵はそれから視線を離すことができないままこうつぶやく。
 その声が聞こえたのだろうか。
 それは唇をゆがめた……

「……申し訳ありません、三蔵様……」
 三蔵の背にこう声をかけてきた者がいる。確認しなくても、それが僧正だと言うことはわかっていた。
「どうしたんだ、あれは……」
 目の前の存在から視線を離すことなく三蔵が問いかける。
「目を離した隙に、あの子の金鈷をはずした馬鹿がおるのですよ……その結果、五〇〇年近く押さえ込まれていた妖気が暴走してしまったのだろうと……」
 そう言いながら、近づいてきた僧正の体からかすかに血のにおいを感じて三蔵は視線を向けた。すると、僧衣の下から真新しい包帯が覗いているのが見える。
「止めに行ったのか?」
「お引き受けした以上、責任を持たねばと思ったのですが……近づくことすら許してくれませんでしたよ、あの子は」
 金鈷を額に戻すことができれば、元の悟空に戻るらしいのですが……と僧正は付け加えた。おそらく、この状況になってすぐ斜陽殿に確認したのだろう。
「で、馬鹿猿の金鈷は?」
 可能性があるのであれば、何とかしなければならない。それが悟空を引き取って面倒を見てきた自分の責任ではないだろうか。
「ここにあります」
 僧正がこう言いながら、三蔵の目の前へと金色に鈍く輝く輪をさしだした。その手にもしっかりと包帯が巻かれている。それを見た瞬間、三蔵は申し訳ないという思いを抱いた。
「これを外した馬鹿は?」
 三蔵が思いきり不機嫌だとわかる――と言うよりは、今すぐにでもその相手を殺しそうな――口調で問いかける。
「そこいらに転がっておるはずですよ」
 それに対する僧正の答えがこれだった。普段温厚で慈悲深いと言われている彼にしては珍しいセリフである。いや、それだけ彼も怒り心頭だと言うことなのだろうか。
「……生きてんのか?」
 三蔵はさらに剣呑な口調でこう問いかける。
「えぇ……ただし、それ相応の報いは受けておりますよ。それに、殺さないでいてくれてありがたいとも言えますし」
「どういうことだ?」
 僧正の物言いになにやら含むものを感じ取って、三蔵は視線を向ける。
「いくら不慮の事故で、しかもあの者たちの行動故の行為とは言え、『人間』を殺してしまってはそれ相応の罰を与えねばみなが納得しないでしょう。ですが、こうして息をしておれば、正当防衛だと言えなくもありませんからね」
 それに、後々それそうおいの罰をくれてやれますし……と言うのを聞いて、三蔵はかすかに目を見開いた。
「……やっぱ、あんたは食えねぇ奴だな……」
 ほんの少しだけ肩から力が抜けたような気がする。そんなことを考えながら、三蔵は視線をそれへと移した。
 元々、悟空はそれなりに自分の身を守れる――と言うよりは、かなりの腕前だと言っていいだろう――実力を持っていた。しかし、どこか理性が働いているのか、人間相手の時にはかなりセーブされていたように思う。
 しかし、目の前のそれからはその『理性』がまったく感じられない。感じられるのは破壊に対する純然たる喜びだけである。
(だからこそ、強いのか……)
 果たして自分に勝てるだろうか……三蔵は心の中でこっそりとつぶやく。
 だが、同時に意地でも悟空を取り返してやるという思いも彼の中には存在していた。
 そのためにはどうしたらいいのか……
 三蔵がそう考えた瞬間である。
「何っ!」
 目の前からそれの姿が消えた。三蔵がそう認識した次の瞬間、彼の体は大きく跳ね飛ばされていた。どうやら、三蔵の目がとらえられないほどのスピードでなぎ払われたらしい。そう認識したときには次の攻撃が襲ってきた。
「ちっ!」
 間一髪ででそれを避けると、三蔵は即座に体制を整え、さらなる攻撃に備える。
(ともかく、動きを止めることが先決だな)
 相手の動きに三蔵は避けるのが精一杯だ。
 これでは、金鈷を嵌めることもできない。
(ったく……足でも撃つか)
 それなら間違いなく相手の動きを止めることができるだろう。しかし、その後で自分が『悟空』の看病をしなければならないというオプションがつくのは自明の理だ。そして、三蔵がそんなことをしたくないと思っているのもまた事実である。
 三蔵の肩で、魔天経文がはためく。
(……使うか……)
 しかし、自分にこれの真実の力を引き出せるか……と問われると三蔵は即答できない。
 以前、一度だけ光明三蔵が魔天経文を使うのを見たことがある。しかし、これを受け継いでから今までの間に、自分がそれと同じことをしようと思ってもできなかった。
 だが、目の前の相手を傷つけずに止めるためにはそれしか方法がない。
 三蔵は意を決すると足を止めた。
 そして、経文を口にしながら『気』を高めていく。
「三蔵様!」
 三蔵が動きを止めたことで、それは迷わずに攻撃を仕掛けようとした。しかし、三蔵の周囲に漂う『気』の高まりを感じたのだろう。不意に動きを止める。
 彼の縦長の瞳孔が怒りのためか――それとも恐怖のためなのか――丸くなった。
 だが、三蔵にはそれに気づかない。
 瞳を閉じ、ひたすら『気』を高めていく。
 不意に、眉間の奧で何かがはじけたような感覚に三蔵は襲われた。
 次の瞬間、
「魔戒天浄!」
 三蔵の肩にかけられていた魔天経文が一気にそれを包み込む。
 それは避けようと大きく後ろに飛ぼうとする。だが、それよりも早く魔戒天浄が彼の体を包み込んだ。


INDEXBACKNEXT