しかし、いつまでも悟空を部屋の中に押し込めていることは不可能だし、三蔵が出かけなければならない用事というのも当然ある。
「……行きたくねぇな……」
 三蔵はため息とともにこう口にした。
「三蔵様、そうおっしゃらずに……」
 理由がわかっているだけに、僧正は苦笑を浮かべるしかできない。
「あちらは、『玄奘三蔵』様をお呼びするのを楽しみにしておるのですよ。あの寺院を預かっている住職が無事に喜寿を迎えたことですし、行っていただけるとありがたいのですが……」
 もちろん、無理にとは申しません……といいつつ、僧正は明らかに三蔵を行かせたいようだった。どうやら、その依頼をしてきた住職と知己らしいということは、三蔵にも伝わってくる。ということは、ひょっとすると光明三蔵とも知り合いだったのかもしれない。そうであるなら、むげにもできないのではないだろうか。
「……猿を連れて行っていいんなら、考えるが……」
 おそらく、それは無理だろうとわかっていながらも、三蔵はこう口にする。
「悟空のことは、私が責任を持って面倒を見ますから……今回は置いて行っていただけませんか?」
 僧正が本気で申し訳ないというようにこう告げた。
「……猿はおとなしくしてねぇぞ、たぶん……」
 面倒見切れるのか……と三蔵は言外に付け加える。
 彼の監視がなくなれば、無条件で悟空は外に飛び出していくだろう。そこで連中に出会ったらどうするかという問題が三蔵の中にあることは言うまでもない。
「何があっても、私がこの身に変えてでもあの子のことは守りますから……」
 こうまで言われては、三蔵もOKするしかないだろう。
「ったく……あんたがそこまで言うとは……相手はいったいどういう奴なんだよ」
 こう口にすることで、三蔵はその意を僧正に伝える。
「同門のものですよ。二人で、先々代の三蔵様にご指示願った仲です」
 ですので、どうしてもといわれると断り切れなかったのだ……と僧正は白状をした。
「……ったく……ウゼェもんだな」
 いったいどんな悪さをして弱みを握られているのか……と三蔵は口にしながら、たばこをくわえる。
「三蔵様ほどではないと思いますよ」
 お茶を淹れさせようと言うのか、小坊主を呼ぶための鈴を鳴らしながら僧正はそんな三蔵に言い返した。
「光明様からお聞きしているだけでも、いくつかありますけど……」
 悟空に教えておいてもよろしいでしょうか……と付け加えられて、三蔵は思わずたばこにむせてしまう。
「……このくそジジィ……」
 激しく咳をしながら、三蔵は思わずこうつぶやく。
「年の功といっていただきましょうか」
 しれっとした口調で言い返す僧正に向かって三蔵は心の中でありとあらゆる罵詈雑言をぶつけていた。

 三蔵は二日で帰ってくる……と言い置いて出かけていった。
 しかし、僧正の話からするとそれは難しいらしい。
「……つまんねぇの……」
 悟空はこういうと、まだひも高いのにベッドの中へと潜り込んでしまう。
 こうして寝ていれば、三蔵が帰ってくるまで待っている時間が減るだろうという判断からだ。
 監視されていたときは三蔵の視線がうざったく思えたのに、それがなくなるとどうしてこう寂しく思えてしまうのだろう。
 その理由が悟空にはわからない。
「いいや、寝ちゃえ……」
 明日、朝ご飯に起こされるまで寝ていれば、一日分減るんだ……と自分に言い聞かせると悟空は目を閉じる。
 なかなか降りてこない眠気も、必死に羊を数えていたらあきらめて悟空の上へと来てくれたらしい。
 ようやく悟空の口から寝息がこぼれ始めた。
 それからしばらくして、三蔵たちの寝室の扉がそうっと開かれる。
「悟空?」
 密やかな声でこう呼びかけたのは僧正だった。どうやら、仕事か終わったので様子を見に来たらしい。
「おやおや……眠っていても元気なようですね」
 彼の視線の前には、ベッドから半分落ちかけた状態で眠っている悟空の姿があった。優しい視線を向けると、僧正は彼を起こさないように気をつけながら歩み寄っていく。
「風邪を引かせたり、おなかを壊されたりすると、三蔵様に殺されかねませんからね」
 僧正はこういうとともに、悟空の体を優しくベッドの上へと戻してやる。そして、その体をきちんと布団で包み込んでやった。
「このまま、この子が平穏な日々を送れればいいのですが……」
 それは無理だろうと僧正は考えている。
「何故、神々から託されたこの子をどうしてあれほどまでに嫌うのか」
 困ったものです……とつぶやくと、僧正はきびすを返した。そして、そのまま足音をたてることなく部屋を出て行く。
 扉が閉められた瞬間、悟空がベッドの上からまた落ちてしまった……

「……三蔵は部屋ん中から出るなって言ってたけど……」
 こんなに天気はいいし……誰にも見られなければいいんだよな……と悟空は口の中でつぶやく。
 しかも、幸か不幸か周囲には誰もいない。昨日おとといと時間を見つけてはのぞきに来ていた僧正も、今日はなにやら厄介事が起きたらしく、朝から一度も顔を見ていなかった。
「いいや、行っちゃえ」
 悟空はこういうと同時に、窓枠に足をかける。そして、そのまま部屋を出ようとした。
 その時だった。
「えっ?」
 何かが近づいてくる……
 そう思ったところで、悟空の意識は別の何かに乗っ取られてしまった。

「何事ですか!」
 寺院の庭から聞こえてくる人々のざわめきを耳にした僧正が執務室から飛び出しながらこう問いかける。
「わかりません……ただ、何者かが寺院の庭で暴れているとしか……」
 困惑の表情を浮かべながら、補佐役の僧侶がこう告げた。
「ただ、真っ先に倒されたのが、あの武芸者殿なのですよ……」
 このセリフを耳にした瞬間、僧正の表情が険しいものへと変化した。彼のこんな表情は珍しいと言っていいだろう。
「……今、なんと言いました?」
 そして、さらに険しい口調でこう問いかける。
「ですから、僧正様が注意するようにとおっしゃられた武芸者殿が、真っ先に……」
「……まさか……」
 僧正は嫌な予感におそわれてしまった。
 同時に、あるいはこの状況は計画されたものなのではないかと思ってしまう。
 考えてみれば、今日は詰まらぬ事で忙しかったと言っていい。しかも、持ってきたのは悟空を追い出したくてたまらない僧侶だったのだ。そのおかげで、今日はまだ一度も悟空の顔を見ていない。
 悟空がこれ幸いと抜け出そうと考えたとしても仕方がないだろう。
 そして、それをねらっていたとしたら……
「悟空!」
 反射的に僧正は駆けだしていた。
「僧正様!」
 その理由がわからずに、僧侶は問いかけるようにこう叫ぶ。だが、それに答える事なく僧正は廊下を疾走していく。僧正のその行動に、他の僧侶達も唖然とした表情を作っている。
 しかし、年齢に似合わない疾走ぶりを見せた僧正は、そのまま一気に庭までたどり着いた。
 その瞬間、今までとは違った意味で驚愕の表情を浮かべる。
 目の前には、至る所に傷ついた僧侶達が転がっているのだ。
 この寺院は武芸がメインではない。しかし、各地から有能な――困ったことにそうとして有能なことと異端に対する対応とは異なっている――者たちが集まってくる。だから、それなりに腕に覚えがある者も多いのだ。彼らだけでなく、寺院を守る者たちも多く倒れていた。
 だが、僧正が驚いたのはその事実ではない。
 その中央に立っている人影から、彼は視線が放せなかった。
 背を覆う大地色の髪。
 黄金の瞳。
 それは、間違いなく『悟空』のものだ。しかし、あの無邪気な少年の面影はそこには残っていない。
「……斉天大聖……」
 そこにいたのは、かつて天界で罪を犯したという異端の存在であった。
 周囲を圧倒するような妖気が、その力の大きさを物語っている。
 だが、彼の妖力は額にはめられた金鈷によって完全に制御されていたはず……そして、あの金鈷は故意にはずそうとしなければはずれることはない。だが、悟空が自分から外すことはないはずだ。そのような行為をしてはいけないと言うすり込みを彼はされていたはずなのである。
「しかし、何故」
 彼の額に金鈷が存在していないのか……
 僧正は、その答えを知っているであろう相手へと歩み寄っていく。
「いったい、あの子に何をしたのですか?」
 おそらくあばら骨が折れているのだろう――あるいはもっと重傷かもしれない――胸を押さえながらうずくまっている武芸者へとこう問いかける。
「……頼む……医者を……」
 だが、彼はそう簡単に僧正の言葉に答えようとはしない。
「その前に答えなさい! あの子に何をしました? あの子の金鈷はどこです!」
 僧正は厳しい口調でさらに問いつめる。その気迫に押されたのあろうか。武芸者は渋々といった様子で口を開く。
「……知らぬ……そこいらに転がっているとは思うが……」
「ということは、やはり、貴方がはずしたのですか……」
 僧正はため息とともに言葉を口にする。いったいどうすれば悟空を元の彼に戻せるのか、わからなくなってしまったのだ……
 そんな僧正に気がついたのだろうか。
 悟空――それとも、斉天大聖と言うべきか――が視線を向ける。
 そして、うっそりと笑った。



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