周囲を悪意が包み込んでいく。 「だめ……」 あれを世界に広げさせてはいけない。 だが、ただの《人間》でしかない自分に何ができるだろうか。 「女神よ……いと慈悲深き女神よ」 キラはとっさに女神に呼びかける祭文を口にする。 「御身の夢を守りし我らに、御身のご加護を与えた……世界を」 世界を救うためにお力をお貸しください、とキラはその両手を天に差し伸べる。 「キラ、ダメだ!」 カガリの声が聞こえた。 しかし、その声がどのような意味を持った言葉を綴っているのか、キラにはもうわからない。 暖かくやさしい感情が、キラと他の者達の間に幕のようなものを作り出しているのだ。 それが女性の優しい手だ、とわかっているものがどれだけいるだろう。 「……女神よ……」 ゆっくりとキラの意識が女神のそれにとけていく。 いや、女神の意識がキラのそれに滑り込んできたのか。 どちらが正しいのかはわからない。 いや、どちらでもかまわない、と考える――これは、間違いなく《キラ》の意識だろう――大切なのは、目の前のあれから世界を守ること、だ。 そのためにどうすればいいのか。 ――あれを広げてはいけない。 では、どこかに封じてしまおう。 ――でも、あれが他の誰かに触れてしまえばまた同じ事が起きるのではないか。 それならば、誰も近づけないようにしよう。いつか、あれが浄化されるまで。 愚かで愛おしい人間の子よ。それでも私はお前達を愛しているのですよ。 女神の手は、アズラエルの体から抜け出したそれをそっと包み込む。そのまま、そっとそれを抱き寄せた。 幼子を眠りに就かせるように、やさしくそれを封じようとする。 だが、人の子の妄執は、女神の力をゆがめてしまったらしい。 それもまた、人の子の力が女神に近づいたと言うことなのか。それとも、別の理由なのか。 それは誰にもわからない。 ――ここまで、この妄執が強いとは……と驚愕の声がこぼれ落ちる。 それとも、他の何者かの力を借りているのだろうか――キラが今、女神の力を借りているように、だ。 しかし、それを確認することは、今の自分には不可能だと言っていい。 でも、ここにはカガリだけではなくアスランやラクスもいてくれる。 だから、彼等に任せればいいだろう。 「……ごめんね、カガリ」 ただ一つ、気がかりなことがあるとすれば、彼女のことだ。 この妄執が強すぎて、浄化させるのに時間がかかる。あるいは、自分一人の力では不可能なのかもしれない。 だから、彼女を一人にしてしまう。 ハルマが生きていてくれればここまで心配しないですんだのではないか。 「でも、アスラン達がいてくれるから……大丈夫だよね……」 彼が側にいてくれれば、カガリは大丈夫だ。だから、自分は何も心配しなくてもいいはず、とそう言い聞かせる。 「だから……貴方に付き合ってあげるよ」 こう呟くと、キラはそうっとそれを抱きしめた。そのまま、静かに目を閉じる。 そんなキラの頬を、慈しむようにやさしい指が撫でていった。 「キラ!」 細い体を光が包み込んでいく。 「ダメだ、キラ!」 その光の中からキラの体を引きずり出そうとするかのように、カガリは駆け寄ろうとした。だが、そんな彼女をラクスが止める。 「ラクス!」 何故、とカガリは彼女をにらみつけた。 「ダメです……今邪魔をしたら……キラの命が確実に失われます」 既に、キラの意識は女神のそれと結びつけられている。それを強引に引き離せば、キラの意識が女神のそれに吸い込まれてしまう可能性の方が高い。そうなれば、キラの体はともかく、意識は二度と戻ってこないだろう。ラクスはそう告げる。 「……いったい、何故、キラは俺を止めようとしたんだ……そして、あれは何なんだ?」 ラクスは全てを知っているのか、と判断したのか。アスランが矢継ぎ早に問いかけている。 「……全ては、私たちの失敗です。キラを気遣って真実を確認しなかったから……あの男の罠に気付かなかった」 悔しそうにラクスはこう呟く。 「あの男は、自分の命を禁呪と引き替えにしていたのです。己の死とともに、それが発動するように……」 キラが見た光景は、その後の世界。 アズラエルの妄執が、己の所行に満足をしていた光景だったのだ、とラクスは付け加える。 「……そんな……」 自分たちは、あの男を殺すことで、あの時の光景が止められると思っていたのに……とカガリは漏らす。 「そうです。確認を怠った、私たちの失敗です」 それをキラが、己の命をかけて修正しようとしてくれているのだ、とラクスは苦しげに告げる。 「私が、もっと早くあの男の思惑に気付いていれば……」 そのまま、絞り出すようにこう口にした。 「それは、俺たちも同じだ」 こうして見守るしかできないというのは、きっと、その罰なのだろう……とアスランも口にする。 その時だ。 キラを包み込んでいた光が徐々に輝きを増していく。誰もがまぶしさに目を閉じた。 光が消えていたとき、全ては終わっていた。 |