しかし、どうしてこういうことになったのだろう。森の入り口までは確かにレイと一緒だっのに、今は彼の姿は見えない。
 ひょとして、彼とはぐれてしまったのだろうか。
 だとするなら、自分の方だよな……とシンはため息をつく。レイがそんな失敗をするはずがないのだ。だから、と思いながら周囲を見回す。
 それならば、彼が探しに来てくれるまで、ここでおとなしく待っていた方がいいのだろうか。そうしろと囁く声もあるし……とそんなことを考えていた時だ。
 だから、と言うわけではない。ただ、無意識に目に付いた木の根本に座り込んでしまった。
 その時だ。
「君、どうしてここにいるの?」
 柔らかな声がシンの耳に届いた。視線を向ければ、まるで月の精のように透明で儚げな容姿の人物が確認できる。
 何でこんな所にこんな人が、と思わずシンは相手を凝視してしまう。それが失礼なことだとわかっていても、その人から目を離せなかった。
「ひょっとして……迷い込んで来ちゃったの? ここに……」
 この問いかけに、シンは静かに首を縦に振った。
「そうなんだ……なら、急いで、ここからでないと大変なことになるよ」
 その人のこの言葉にシンは首をかしげる。大変なこととは何なのか。
「でも、道がわかりません。それに、レイが……」
 迎えに来てくれるかもしれない、とシンが口にすればその人は静かに首を横にふてみせる。
「多分、迎えは来ないよ。道は、教えてあげる。だから、急いで……でないと、呪いにとらわれてしまう」
 そうしたら、ここから出られなくなる……とその人は口にした。
 呪いとは何なのか、シンにはわからない。だが、その人の口調はとても真剣だった。そして、その綺麗なアメジストの瞳は決して嘘を言っているようには感じられない。
「わかりました」
 こう口にすれば、その人はそっと手を差し伸べてくれる。その繊手にシンは自分の手を重ねた。そうすれば、暖かい手がしっかりとシンの手を握りかえしてくれる。
「こっちだよ」
 柔らかな微笑みとともにその人は歩きだす。その歩調はシンを気遣ってくれているのかゆっくりとしたものだ。
 それにしても、どうしてこの人はここにいるのだろうか。
 はっきり言って、妹やミーアはもちろん、タリアの元に預けられているルナマリアとメイリンの姉妹よりも王城にいることがふさわしいように思える。しかし、それを問いかけてはいけない、と心の中でささやく声もあるのだ。
 それはいったい、誰の声なのか。
 自分のそれではないと言うことがシンにはわかる。しかし、それがどうしてなのかと問いかけられても言葉を返すことができない。
「……どうして、ここにいてはいけないの?」
 その代わりというようにシンはその人に問いかける。しかし、次の瞬間にはその事実を後悔してしまった。
 その人の綺麗な瞳に悲しみの光が浮かんだのが見えたのだ。
「そこの木を見て?」
 だが、その人はこう言って在る場所を指さす。その木の根本には、奇妙なこぶがあった。
「疲れて眠ってしまうとね……あんな風に木に取り込まれてしまうんだよ」
 自分以外の人間は……とその人は呟く。
「ひょっとして……俺も?」
「あのままだったらね」
 あっさりと肯定されて、シンはどうしていいのかわからなくなってしまう。
「でも、ここしばらくなかったんだ。ここに、誰かが足を踏み入れるなんて」
 ここに入れる人間も、滅多にいないのに……と続けられた言葉に、シンは、ひょっとしてこの人は寂しいのではないだろうか……と思う。
 いや、そうでなければおかしい。
 いったいどれだけの時間を、この人がここで過ごしてきたのかは知らない。だが、一人でいるにはここは寂しすぎる場所ではないか。
 しかし、自分がここにいるためにはどうすればいいのだろう。
「……木に触れなければ、いいのかな」
 シンは思わずこう口にしてしまった。
「無理だよ」
 それを聞きとがめたのだろう。その人はあっさりとこう言ってくれる。
「ここにいる時間が長ければ長いほど……木に触れたくなるんだって……そう言っていたから」
 だから、いずれは……と呟いたのは、同じようなことを考えた人がいたからだろうか。でも、と思う。
「貴方が手を握っていてくれると、ざわざわとしたのが聞こえない」
 こう告げれば、その人は驚いたように目を丸くした。
「……あぁ。出口が見えてきたよ」
 しかし、その理由を問いかける前にその人はこういう。そして、その指が指し示す方向には、確かに森の切れ目があった。
「貴方は?」
「僕は……ここから先には行けない……ここの呪いに、とらわれているんだ……でも、そのおかげで、君を帰してあげられる」
 だから、行きなさい……とその人はシンの背中を押す。このまま、明るい世界で暮らすんだ、と。
「俺は……」
 だが、そう言われても納得できない。
「また、来るから」
 シンは振り向くと、こう言い返す。
「だめだよ。そうなったら、君は……」
 その人は何と続けようとしたのか、シンにもわかった。でも、と彼はその人の言葉を遮るように口を開く。
「俺が会いに来たいんだ。だから、かならず来るから」
 きっぱりとこう言い切ると、その人は言葉を失う。
「だから、待っててね」
 ともかく、これ以上ここにいて他の者達を心配させてはいけない。最悪、この人が悪いと言われてしまうだろう。
 それだけはしてはいけないのだ。
 こう心の中で呟くと、シンは今は駆け出す。その背中に、その人の視線をいつまでも感じていた。



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