予想通り、劾にはラクスの日記は半分も読めなかった。それは、彼にはこちら方面の才能がなかったからだ。
 しかし、カナードの言葉は予想外の場所で証明された。
「……まさか、おじいさままでそう遺言をされていらしたとはな」
 彼に持ってきて貰ったミゲルの日記に、それらしき記述があったのだ。
「と言うよりも……おばあさまの日記よりもあの方に対する思い入れが強いような気がするが」
 何も知らずに読めば、ラクスではなく彼女に恋情を抱いていたと思うのではないだろうか。だが、その感情は恋情ではなく尊敬と言ったものが近いような気がする、とカナードは心の中で呟く。
「……そういえば、あの人は食事をどうしているんだろうな」
 衣服だって、それ以前に、どこで眠っているのだろう。
 それとも、あの場所ではそれも必要がないのだろうか。
「……時間が止まっているにしても、ゆっくりと進んでいるにしても、生きていている以上、食事も睡眠も必要だろう」
 しかし、ミゲルが生きていたときならばともかく、それ以降は誰も彼女の元にいっていないはず。それともラクスが何か手を打っていたのだろうか。
 残念だが、それについては日記には書かれていない。
「……本人に聞くのが一番だろうな……」
 そのためにはもう一度あそこに行かなければいけないのだが……と考えて、カナードは小さなため息をつく。
「問題は、行かせてもらえるかどうか、だな」
 先日の一件があったせいだろう。護衛という名の監視が強められたことは否定しない。その上、図書室にも出入り禁止になってしまった。
 だが、部屋の中だけとはいえ一人にしてもらえるのはありがたいのだろうか。
「次は劾も、と言っていたが……」
 問題は、いつ、彼に暇が出来るのかだ。
 実は、自分よりもかレのほうが多忙かもしれない。それは、自分に回される仕事の一部――主に騎士団関係――を彼が肩代わりしてくれているからだ。
 その中に地方の視察が含まれている。そのせいで、月の半分は彼は城にいない。
 しかし、今回は別の目的もある。
「……いったい、どこまであの噂が広がっているのか」
 そして、どれだけ女神を否定しようとしている者達の勢力が広がっているのか。
 まずはそれを確認してもらわなければいけない。それも否定できない事実だ。
「本当は、その間にキラの所に行ければいいのだが」
 少しでも時間を有効に使おうと思えば、とカナードはため息をつく。しかし、それが危険だと言われてしまっては反論も出来ない。
 カナードだって、自分の義務は理解しているつもりなのだ。
 それでもキラに会いたいのは、彼女が自分にとって数少ない存在だから、だ。
「キラは、俺を王族扱いしないだろうからな」
 彼女も――こう言っていいのかどうかはわからないが――同じ立場の人間だ。何よりも、神官で会ったのならば、自分を特別扱いしないのではないか。
 そんな相手が欲しい。
 劾もプレアも、以前は自分をただの《カナード》として扱ってくれた。しかし、今は違う。
 あのころは理解できなかった立場の違いが、次第に理解できるようになってきたと言ってしまえばそれまでだろう。
 だが、その事実が時々息苦しくなるのだ。
 せめて、たまにでかまわない。自分を《王》としてではなく、ただの《カナード》として見てくれればそれでいい。
 こう考えるのは望み過ぎなのだろうか。
「予想以上に、おばあさまが亡くなられたことがショックだったのか、俺は」
 彼女であれば、決して自分を特別な目で見なかった。そんな彼女の態度に自分はどれだけ助けられていたのか、今ならばわかる。
「だからといって、キラをおばあさまの代わりにするつもりはないのだが……」
 年齢はともかく、見た目は自分と変わらない。いや、自分の方が年上と見えるのではないか。
 第一、彼女は余人には想像できないくらい思い責務を背負っている。そんな相手を格下に見るようなことが出来るはずがないだろう。
 それでも、だ。
 自分はまだまだ愚かな存在でしかない。
 相手の見た目で印象が変わってしまうと言うことは否定できない事実だ。
 それでも、キラだけはそうできない。
 それは、きっと、彼女の周囲を取り巻いていた空気が他の者達と違っていたからだろう。
「……マルキオ様に似ていたと言えば、似ていたか?」
 あの静かで清浄な雰囲気は……とカナードは呟く。
 それだから、彼女の隣は心地よかったのだろうか。
「あれならば、確かにキラが優秀な神官だったというのもわかるな」
 自分のものよりも僅かに色合いが明るい紫の瞳を思い出しながらそう呟く。
「もし、今、キラが神殿に戻れば……女神の存在を否定する者もいなくなるだろうな」
 それでなくても、彼女ならば自分の側にいてくれるかもしれない。あるいは……と考えたところで、カナードは苦笑を浮かべる。
「一度あっただけの相手に何を考えているんだ、俺は」
 第一、みなが認めるはずがないだろう。第一、彼女はあの森に捕らわれたままではないか。
 自分に言い聞かせるようにこう付け加えた。
 彼女をあの森から解放できるならばともかく、そうできない自分に何が言えるというのか。
「……だが……」
 ふっとあることを思いついてこう呟く。
「どうして、おばあさまは俺では無理だ、とおっしゃったんだ?」
 いったい、彼女は何を知っていたというのだろう。それがわからない。
「だが……」
 ふっとあることを思いだしてカナードは顔をしかめる。
 どうして彼女は、自分では無理だ……と言ったのだろうか。彼女は、いったい、何を知っていたというのだろう。
「何が足りないんだ?」
 それがわかれば、自分はあの瞳を手に入れられるのだろうか。
「……そういえば……俺は、キラの笑顔を見ていないな」
 せめて、それだけでもいい。自分は……とカナードは小さな声で呟いた。


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