何か、いいにおいがする……
 そして、懐かしい声も……
 あれは誰の声だったろうか。
 それがキラの意識が目覚める瞬間の思考だった。その疑問を胸に抱いたまま、キラの意識は急速に覚醒へと向かう。まぶたを閉じていてもわかる柔らかな日差しを感じながら、キラはゆっくりと瞳を開けた。
「……こ、こは?」
 どう考えても、自分が見た覚えがない天井に、キラは疑問の言葉を口にする。だが、それは声というよりは吐息という方が正しいものだった。
「キラ、目が覚めたのかい?」
 聞き覚えがある、だが記憶の中のものよりも低くなった声がキラの耳に届く。次の瞬間、懐かしいと思える翡翠の瞳がキラのそれを覗き込んでいた。だが、その容貌は自分が記憶しているものよりもずっと大人びていて、彼に兄がいればこんな感じだったのではないか、と思わせるものだった。
「……アスラン……?」
 まさか、と思いつつ、キラは彼に呼びかける。
「そう、俺だよ」
 優しい口調で答えを返しながら、彼は微笑んでいた。  だが、どう見ても彼の容姿にキラは違和感を感じてしまう。
 まるで、彼の上だけ数年という時間が流れたかのような……
 そこまで考えたとき、キラの脳裏に自分の記憶の中で一番新しいと思われる記憶が蘇った。
「……少佐は? アークエンジェルは? みんなは、どうなったの?」
 キラの口から次々と疑問の言葉が飛び出す。
 自分がここにいる以上、彼らがザフトと関わりを持っているらしいと言うことは理解できた。だが、その処遇についてはわからない。
「落ち着いて、キラ。いい子だから、ね?」
 飛び起きようという素振りを見せたキラの肩を、アスランがそうっと押さえる。
「でも!」
「落ち着いて。少なくとも、フラガさんとラミアスさんにはもう少ししたら会わせて上げられるから……」
 ね、とアスランはあくまでも優しい態度を崩さない。そんな彼の態度をどう受け止めればいいのか、キラにはわからなかった。
「……ほ、んとう?」
 それでも、今の自分には彼にすがることしかできない、と判断をしてこう問いかける。
「本当だよ。それに、戦争は終わったんだ。だから、もう何も心配しなくていい」
 俺が側にいるから……といいながら、アスランがキラを抱きしめてきた。その腕の力も、胸の広さも、キラの記憶にあるものとは違う。だが、伝わってくるぬくもりと鼓動は少しも変わらない。
「……アスラン……」
 何かを言いたいと思う。
 思うのだが、彼に何と言えばいいのか、すぐに思い浮かばない。
 キラの口から辛うじて飛び出したのは、彼の名前だけだった。
「ごめんね。ようやく意識が戻ったばかりなのに、混乱させてしまって」
 キラの体をそうっとシーツの上に戻しながら、アスランが口にする。
「今、みんなを呼んでくるから」
 こう囁くとともに、アスランの唇が昔のようにキラの額に触れてきた。すぐに離れていくそれにキラは何故か寂しいと思ってしまう。
「……大丈夫だよ、すぐに戻ってくるから」
 そんなキラの気持ちがわかったかのようにアスランが微笑む。それにキラは小さく頷いて見せた。

 初めて出逢ったときにはもう、成人していたからだろうか。フラガの上にはアスランほど時間の変化が感じられない。ラミアスにしても同じだ――もっとも、女性にそんなことを言ってはいけないことぐらいキラも知っている――だが、ラクスはやはり少女から女性へと変化していた。
「……キラ様、よかったですわ」
 それでも彼女の微笑みは変わらない。その事実に何故かほっとしてしまう自分をキラは感じていた。
「あの……」
 そんな彼らの表情に、キラは思いきって口を開く。
「何でしょう?」
 それにラクスはさらに笑みを深めると言葉を返す。
「ここにいないみんなは……」
 どうしているのか、聞いていいのか……とキラの瞳が彼の思いを付け加える。
「心配するな。みんな無事だ」
 坊主のおかげでな、とフラガは笑いながらキラの頭を撫でた。
「……僕、ですか?」
 フラガの言葉の意味がわからないと言うようにキラが小首をかしげる。
「そう、坊主の……坊主が目の前にいてくれたから、俺たちは『コーディネイター』も俺たちと同じだって実感できたからな」
 そのおかげで、彼らに対するこだわりを他の者たちよりも持たずにすんだのだ、と説明する間、フラガはキラの髪をなで続けていた。
「それにね、キラ君。あなたのおかげで、自分の子供がコーディネイターだったとしてもかまわないとも思えるのよね」
 ラミアスのさりげない一言がキラには気になってしまう。
「子供を……コーディネイターに……ですか?」
 彼女がどうしてそう言うことを言うのか、キラには理解できないらしい。と言うより、彼らが自分の子供をコーディネイトするなどとは、キラが記憶している限り考えられないはずだった。
「連合はプラントに負けた。それは間違いない事実だよな? そして、コーディネイターの数はナチュラルよりも少ない。つまり、そう言うことだ」
 自分たちの子供をコーディネイトするのが、元連合軍人に科せられた数少ない条件なのだ、とフラガは口にする。
「もっとも、俺たちはそれをいやだとは思っていない。今なら、大手を振って子供をコーディネイターに出来るからな」
 坊主みたいな子供なら可愛いに決まっている……と口にするフラガとその隣にいるラミアスを、キラは複雑な表情で見つめた。彼らの言葉が本心からのものなのか、それとも強がりなのか、判断が付きかねたのだ。
「こらこら、坊主。だから、坊主を見ていたから俺たちはザフト側の条件を寛大だと思えたんだって」
 坊主が気にすることはない、とフラガは苦笑を向ける。
「そうよ。ナタルなんて、さっさと結婚して、今、おなかの中に子供がいるのよ」
 年上の私がまだだって言うのに……というラミアスの表情は、本気で悔しそうだ。そんな彼女の態度から、嘘や偽りは感じられない。
「しかも、旦那はノイマンだって言うんだから、笑えるだろう? 坊主が退院できたら会いに来ると言ってたから、楽しみにしていろ」
 他の連中でも嫁を貰った奴らも多いぞ、とフラガは笑う。
「……少佐達は……」
「キラ君が出席してくれないと意味がないでしょう? だから、これからよ」
 明るく告げられた言葉の裏に隠されている意味にキラはしっかりと気がついてしまう。
「……すみません……」
 自分が彼らの邪魔をしてしまったのか……とキラは目を伏せる。
「違うって……俺たちが自由に連絡を取れるようになったのは一年ぐらい前の話だし……その後もお互いに忙しかったって言うだけだ」
「そうなのよね。ラクスさんのおかげで誰かさんが浮気していないのだけは確認できていたんだけど……なかなか会えなくて」
 だからキラのせいではない……と二人は口にした。
「お二人の結婚が遅れた責任は、私とアスランにありますわね。ですから、キラ様。そのことで怒られるのでしたら、私たちにしてくださいな」
 ね、とラクスも口を挟んでくる。
「それよりも、早くお体の調子を整えてくださいませ。ご覧に入れたいものがたくさんありますの」
 アスランと一緒に……というラクスの言葉に、キラは一瞬遠い目を作る。だが、小さく頷いて見せた。
「そうだね……そうできればいいね」
 世界が美しいものだと思い出せれば……とキラは呟く。
「そのために必要なお時間をキラ様から私たちはいただいたのですわ」
 ですから、信じてくださいませ、と微笑む彼女の瞳は、何よりも優しいものだった。