傷だらけになったままのバイオリンケースを抱きしめる。
 今の自分には小さくなってしまったそれが、キラにとっては大きな支えの一つとなっていた。それは、幸せだった頃の象徴でもあり、両親の温もりを感じさせる数少ないものだからなのだろう。
 それと同じくらい、昔は《アスハのおじさま》が好きだった。
 彼がどのような立場にいたのかも知っている。それでも、自分たちとの関係は、それとは別だと思っていたのだ。
 しかし、そうではなかった。
 自分たち家族と付き合っていたのは、彼にしてみればあくまでも政治的な関係の延長であったらしい。
 面と向かってそういわれたわけではない。
 だが、キラは彼の態度からそれを感じ取ってしまった。そして、今でも時々メールの交換をしているカガリも、キラのその疑問に関して否定の言葉を返してくれなかったし。
 と言うことは、この手紙の中に書かれていることは、きっと、自分を利用しようとする内容なのではないか。
 そうかんがえると、封を切ることができない。
 しかし、無視をすることも出来ないのだ。
 どうしたらいいのだろう。
 パトリックはキラの好きにしてくれていいと言ってくれた。しかし、そのせいで、プラントに不利益が生じたら困るのではないか。そう考えれば、迂闊に決めることも出来ない。
 両親が生きていてくれたなら、ためらうことなく相談できた。
 今、それが出来る相手と言えば、アスランかもしれない。
 でも、と彼はキラは心の中で付け加える。いずれはプラントを背負って立つ存在だ。だから、自分の個人的なことに関わって、オーブと気まずくなっては困るのではないか。
 だから、彼には相談できない。自分で何とかしなければいけないのだ。
 しかし、とまたスタート地点に戻ってしまう。
 結局は、堂々巡りを繰り返しているだけだ、とわかっていても抜け出す方法を見つけられない。
 本当にどうすればいいのだろう。
 そんなことを考えながら、キラは腕の中のバイオリンケースをそっとベッドの上へと下ろす。そのまま蓋を開けた。
 中に収められているバイオリンは、ケースの傷とは裏腹に綺麗な木目を見せている。磨き上げられたそれをそっと指先で撫でた。
 決して高価なものではない。
 銘をつけられ、その多くが財団の所有となっている名器バイオリンとは違って、これは無名だ。
 それでも、丁寧に作られたこれは、他のどのバイオリンよりも自分が望む音を奏でてくれる。
 だから、貰ったときは嬉しくてそれこそ時を忘れるほどひいていた。もう一つの趣味――こう言っていいのだろうか――であるプログラミングまで忘れていた自分に、両親は少しあきれた様子だったことも忘れていない。
 だから、新しいバイオリンをプレゼントしてくれると言われて期待していたのだ。
 そうしたら、もっといい音が出せるようになるだろうか。
 出せるようになったら、両親に二人の好きな曲をプレゼントしよう。そうしたら喜んでくれるだろう、と思っていた。
 それが終わったら、自分の音を『好きだ』と言ってくれた人たちみんなに、とも。その中にはもちろん《アスハのおじさま》も含まれていた。
 しかし、彼が自分に望んでいたことはそんなことではなかった。彼が自分に望んでいたのはプログラマーとしてオーブに利益を与えることだった。
 その事実を知ってしまった以上、昔と同じように彼を見ることが出来ない。
 彼にとって、自分は利用できる手駒だったのだろうか。
 だとするなら、オーブの理念は。
 そう考えたときだ。いきなりドアの向こうからどこかで聞いたような音が響いてくる。しかし、それがピアノの音でもシンセサイザーで再生されたものでもない、とすぐに判断できた。
 では、いったい何の音なのだろうか。
 しかし、今、部屋から出るのは怖い。
 いや、アスランの顔を見るのが……と言った方が正しいのか。
 ニコルに同席して貰おうと思った判断が間違っていたとは思わない。しかし、そのせいでアスランに先ほどのことがしっかりと伝わってしまった。その結果、パトリックとの仲が悪化しなければいいのだけれど。
 そう考えてしまうのは、あの二人が微妙にお互いとの間に壁を作っているとこに気付いているから、だ。
 でも、この音が気にかかる。
 ドアの所まで行けば、きっと何の音なのかわかるだろう。部屋からでなければ、アスランの顔を見なくてすむだろうし。
 そう考えて、キラはそっとベッドから降りる。そして、足音をさせないようにしてドアまで近づいた。
 そこまで行けば、今耳に届いている音が《長唄》と言われているものだとわかる。
 しかし、どうしてこれがここでかかっているのかがわからない。アスランは元々、音楽には興味がない。だから、こんなものを自発的にかけるとは思えないのだ。
 でも、一人だけこれをよく聞いている人間をキラは知っている。
 日舞が趣味だというディアッカだ。
 と言うことは、彼が来て踊っているのだろうか。
 それを確認しようとしても、ここからでは見られない。
 どうすればいいのか。そう考えて、少しだけどあを開けることを選択したのは、当然の流れだろう。ディアッカは滅多に人前で踊ってくれないのだ。だから、と自分にいいわけをする。
 それでも、ドアの設定を変えて本当に少しだけしか開かないようにしたのは、アスランのことが気になってから、だ。
 しかし、相手がそれを予測してたとは思わなかった。しかも、そこにアスランやニコルだけではなく、イザークもいたことがキラの敗因だったかもしれない。
 気が付いたときには、部屋から引きずり出されていた。


INDEXNEXT



最遊釈厄伝