彼女との接触の機会は、予想以上に早く訪れた。
「……いったい、何のご用でしょうか」
 微笑みとともにかけられた声に、カナードは小さく舌打ちをする。まさか、彼女が近づいてくる気配を悟れなかったとは思っても見なかったのだ。
「用があると言えばあるが……今はまだ、その時期ではないようなのでな」
 時期を待っているのだ。カナードはそう言い返す。
「そうですか」
 そうは思えないが、と彼女はさらに言い返してくる。
 実は、あの四人の中で一番恐いのはこの少女かもしれない。
「残念だがな。今すぐにでも動きたいのは山々だが……こちらの準備が完全ではない」
 それでは、相手を危険にさらすだけだ。微かに苦い笑みを口元に刻みながらカナードは言葉を口にする。これに関しては嘘ではない。だから、問題はないはずだ。
「そうですの……わたくしとしては、すぐにでも動いて頂きたかったのですが」
 少なくとも、そうすれば彼を一度、この地から引き離すことができるだろう……と彼女は口にする。
「お前は……何を知っている?」
 何も事情を知らない相手から出るようなセリフではない。さりげなく腰に付けたナイフに手をやりながらカナードは問いかけた。
「マルキオ様が、貴方にお願いしたこと……でしょうか。そのためには、必ずキラの力が必要になるのでは。そう考えたのは、わたくしの勝手な推測ですが」
 間違っていなかったようだ、と彼女は微笑んだ。
「……やはり、恐い人間だな……ラクス・クライン」
 マルキオが話したというのであれば、彼女は信用できるのだろう。しかし、それからこちらの事情すら推測するか。ひょっとしたら、カガリよりも彼女の方が指導者としてはふさわしいのかもしれない。
 少なくとも、カガリと違って、くだらない私情に左右されないだろう。
「わたくしはただの《わたくし》ですわ。それ以外の何者でもありません」
 カナードの言葉に、ラクスはこう言い返してくる。
「そして、わたくしは……今のキラを取り巻いている状況がよいものだとは思えない。ただ、それだけです」
 キラという存在は弱くはない。
 ただ、今の彼には自分の中で自分の上に降りかかった事態を整理し、昇華する時間が必要なのだ。それが終われば、彼はまた自分自身で歩けるだろう。
 しかし、アスランもカガリも、自分自身の好意を押しつけているが、キラ自身が自力で立ち直ろうとしているのを邪魔しているようにしか思えない。
 ラクスは、そういいきる。
「……近いうちに、あいつを連れて行くが……それでいいと?」
「少なくとも、貴方はキラを危険にはさらさないでしょう? ならば、キラにはよい刺激になると思いますもの」
 この言葉に、カナードは静かに目を閉じる。だが、すぐに見開いた。そして、彼女を見つめる。
「俺が、あいつを傷つけるかもしれないぞ」
 そしてこう告げた。
「そうかもしれません。でも、貴方はキラを守ってくださる。だから、心配をしてはおりません」
 万が一、カナードがキラを危険にさらすようになったら……とラクスは微妙に笑みを変化させる。
「その時には、わたくしだけではなく、キラを大切に思っている人間が、ただではすませませんわ」
 その中には、一流の軍人も多い。そういって、ラクスはさらに笑みを深めた。
「……やっぱり、恐い人間だよ、お前は」
 カナードは言葉とともにゆっくりと立ち上がる。
「取りあえず、半月以内に行動を起こす。それで勘弁してくれ」
 誰か聞いているかわからないから、詳しいことは教えられない。そう付け加えれば、ラクスは静かに頷いてみせる。
 それを確認してから、カナードはその場を後にした。

 人と触れあうことは恐い。
 そうすることで、自分がまたはまた誰かを傷つけてしまうのではないか。そして、守れないかもしれない。
 もう少しで指先が触れそうだったのに、目の前で失われてしまった命。それが、キラの心の中で大きな傷を作っている。
 もちろん、それだけではない。
 自分が知らないところで殺してしまった命、守れなかった命、それらが全て、キラの中で《後悔》という感情のもとに渦巻いている。いや、そうやって名前を付けることすら、本来であれば許されないのではないか。そう思えてならない。
「僕は……存在しているだけで周囲の人を不幸にしてしまうのかな……」
 クルーゼが言っていたように……とキラがため息をついたときだ。
 マルキオの孤児院に引き取られている子供の一人が、おぼつかない足取りで歩いているのが見えた。普段であれば、微笑ましいと言える光景だろう。
 だが、とキラは腰を浮かせる。
 あの先には小さいががけのようなものがあったはず。
 もし、そこから落ちてしまったら……あの子の年齢では受け身を取ることも難しいだろう。
「……危ない」
 反射的に、キラはそちらに向かって駆け出す。
 どうして、こうも悪い予想ばかり当たるのか。
 あの子はがけの手前でつまずいてしまう。そして、そのまま踏みとどまることができずに崖の下へと転がり落ちて行ってしまう。
「間に合わない!」
 また、自分は……とキラが唇を噛んだときだ。
 落ちたはずの子供がひょっこりと顔を出す。
「……え?」
 思わず、キラは目を丸くした。
 一瞬遅れて、もう一人の人物が姿を現す。どうやら、崖の下にいた彼が子供を受け止めてくれたらしい、とようやくわかった。
「危ないぞ。次からは気を付けろ」
 必ず、ここに人がいるとは限らないからな……といいながら、彼は子供の体を地面に下ろしてやる。
「キラ兄ちゃん」
 恐かったのだろうか。抱きしめて欲しい、と言うように子供は真っ直ぐにキラの方に歩み寄ってくる。
 しかし、キラはそれよりも別のことに意識を奪われていたのだ。
 自分よりは暗い髪の色はともかく、その瞳の色は自分のそれにそっくりではないか。
「……貴方は、誰?」
 無意識のうちに子供の体を抱きしめながら、キラがこう呟く。
「俺か?」
 そうすれば、彼はにやり、と笑った。
「俺は……そうだな。お前の兄弟のようなものだ」
 そして、こんなセリフを口にする。
「兄弟?」
 自分の姉弟は《カガリ》だけだ、と聞いていたのに、まだいたのだろうか。しかし、母ですらそのようなことは口にしていない。自分よりも年上なのだとすれば、彼女が知らないはずがないのに。そう思う。
「そう。とは言っても、血のつながりはない。ただ、俺もメンデル生まれだというだけだからな」
 しかし、血のつながりが会った方がよかったのではないか。彼の言葉を耳にした瞬間、キラは腕の中の子供をきつく抱きしめてしまった。