「ただいま」
 言葉とともに玄関をくぐる。
「お帰り、キラ」
 そんな彼女を出迎えてくれたのはラウだ。珍しいことにエプロンを身につけている。と言うことは、料理をしている最中だったのだろうか。
「今日の食事当番、僕だったよね?」
 何かあったのか、と思いながらキラはこう問いかける。
「あぁ。夕食の準備はきちんとお願いをするよ」
 明日の朝食用のパンを作っていただけだから、と彼は笑い返してきた。
「……何かあったんだ……」
 彼がこんな風に唐突にパンを作り始めるときは、何か嫌なことがあったときだ。しかし、他の兄たちと違って彼は沸点が低いわけではない。と言うことは、よほどのことではないか。
「君が心配することではないよ」
 しかし、こう言って彼はキラの質問を封じてしまう。
「それよりも、荷物を置いてきなさい。シュークリームも作ってある」
 一緒にお茶にしよう、と代わりに微笑む。
「はい」
 本当に、この兄は自分のタイミングをよくわかっている。そう思いながら、キラは頷く。
「あぁ。わかっていると思うが、ムウ達には内緒だぞ?」
 甘い物が好きではないくせに、キラと食べたと言うだけで文句を言ってくる連中には……と彼は低い笑いとともに付け加えた。
「わかっています」
 あの騒ぎはあまり嬉しくない。
 騒ぐだけならばいいのだが、最悪、実力行使に出かけないのだ。しかも、兄たちはみな、実力が拮抗している。だからこそ、厄介だと思う。
「いいこだね」
 小さな笑いと共に、彼はそっとキラの頭を撫でる。
「と言うわけで、お茶の用意をしているからね」
 パンは、もう少し発酵させないと焼けないから……と彼は続けた。だから、その間にお茶に付き合って欲しいとも口にする。
「はい。すぐに着替えてきます」
 キラの言葉に、彼はそっと手を外した。
「待っているよ」
 この言葉とともに彼はリビングへと向かう。その背中を見送ってから、キラは階段を上がり自分の部屋へと足を向けた。
 一番奥の部屋がキラの私室だ。はっきり言って、家の中で一番いい場所ではないか、と思う。
 家主であるムウか、でなければ次に年長のラウが使うべきではないか。
 そういったこともある。
 しかし、彼等は一番いい部屋だからこそ、キラが使うべきだといったのだ。自分たちは家を空けることが多いからこそ、普段家にいる人間が使うべきだ、とも。
 結局、三対一では勝てるはずもなく、押し切られた形でキラはここを使っている。
 ドアを開ければ、大きな窓から差し込む日の光が優しい陰影を描いていた。その中に、抱えていたバッグで新しい陰影を増やすと、キラはクローゼットへと歩み寄る。
 中からシンプルなシャツとパンツを取り出すと手早く着替えた。
 その途中で、何気なく鏡に映った自分の姿を見てしまう。
「……本当……もう少し、何とかならないのかな」
 こんな中途半端な体ではなく、とその瞬間、ため息をつきたくなった。
 もう少し、丸みがある体であればよかったのに。
 そうすれば、と友人達の体形を思い出しながらキラは呟く。それでも、これが自分である以上、認めるしかないのか。
 ともかく、これ以上、自虐的になるわけにはいかない。
 こんなことを考えているとわかれば、ラウが悲しむに決まっている。だから、とキラは自分に言い聞かせる。
「キラ? 何かあったのかね?」
 下からラウの声が響いてきた。どうやら、予想以上にぼうっとしていたらしい。
「何でもない!」
 今行くから、と言葉を返してキラは着替えを再開した。
 そのまま、脱いだ服をたたむことなく駆け出していく。
「ごめんなさい。ちょっとどれを着るかに悩んじゃって」
 リビングの入り口でこちらを見ていた彼にこう告げる。
「それは、急かしてしまったかな?」
 久々にキラのスカート姿が見られたかもしれないのに。彼はそういって苦笑を浮かべる。
「やだよ。動きにくいし……ムウ兄さんにめくられる」
 だから、絶対に、スカートなんてはかない! とキラは力説をした。
「ほう……そういうことをするのか、あの男は」
 それは後でカナードと一緒に抗議をしなければいけない。そういってラウは笑う。
 ひょっとして、自分は言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。キラはそう考えて不安になってしまう。
「まぁ。それに関しては後で考えよう」
 お茶の時間は楽しくないとね。そういって彼は笑う。
「うん」
 確かに、その方がいい。キラも彼に頷いて見せた。

 この時、まだ、キラの見ている世界は優しさに包まれていた。