「おや、どうなさったのですか?」 悟空を担いだ三蔵を見て、さすがの僧正も驚いたという表情を作る。 「ここにおいとくと、ろくでもねぇことを吹き込んでくれる馬鹿がいるんでな。仕方がねぇからつれてく」 文句は言わないよな、と三蔵が付け加えれば、僧正はにこやかな表情で傍らを指さした。 「ではあれをお使いください。いくら三蔵様でも、そのまま斜陽殿に向かわれるのはことでしょうし」 その先にいたのは、一頭の馬だった。その隣には僧正用らしい輿も見える。と言うことは最初から三蔵が悟空を連れ出すだろうと予測していたと言うことになる。 「……タヌキ……」 あるいは、そうなるように仕向けられたのかもしれない。そう判断した三蔵は小さくつぶやいた。 「何かおっしゃいましたか?」 しっかりと聞こえていただろうに、僧正は白々しい口調でこう問いかけてくる。 「別に。このまま乗せれば、猿が逃げ出すなって思っただけだ」 実際、布団に包まれたまま悟空は、三蔵の肩の上で未だに暴れているのだ。可能性として否定できない。その事実に、僧正は苦笑を浮かべながら彼らに歩み寄った。 「それは困りましたね。悟空、三蔵様がけがをされてしまいますよ。おとなしくしてください」 そして、三蔵の肩にいる悟空を、布団の上からぽんぽんと叩きながらこう呼びかける。次の瞬間、悟空は抵抗をやめた。その事実が、三蔵にはどこか腹立たしく感じられる。 「馬には、三蔵様がご一緒に。それが一番安全でしょう」 後ろから抱きかかえていけば、悟空も逃げられないだろうと僧正は言外に付け加えた。だが、三蔵にはさらに裏のセリフがあるように思えてしまう。曰く、三蔵様もお疲れでしょうし……と。 (このタヌキジジィ……) 三蔵が否定しようとしても、きっとあの微笑みでごまかされてしまうだろう。そして、実際、あの日から今日までのオーバーワークで、疲労がたまっていることは否定できない。 「……ありがたく、そうさせてもらう」 ここで無理をして倒れるようなことがあれば、悟空がさらに思い詰めてしまうだろう。それくらいなら、少々妥協した方がましだ。そう判断して、三蔵はこう口にする。 「それがよろしいでしょう」 では、参りましょうか……と僧正は輿の方へと移動していく。三蔵は三蔵で、馬の背にまず悟空を押し上げた。そして彼が鞍から飛び降りる前に自分もそこへと体を持ち上げた。そして、自分の位置を確定すると悟空の体をしっかりと抱きしめた。 そのまま手綱を握るとさっさと馬を進める。 しばらく行ってから振り向けば、僧正たちもその後をついてきていた。 「ったく……」 白々しいジジィだよな……と三蔵がつぶやいたとき、腕の中の悟空が苦しげにうめく。どうやら、布団のせいで呼吸が苦しくなってしまったらしい。 「おとなしくしてんなら、布団を取ってやる」 三蔵は腕の中の悟空に言葉を投げつける。 「ただし、さわぐんならこのままだ。気絶してくれた方が運びやすいからな」 こう付け加えられて、腕の中の悟空は固まってしまった。三蔵なら間違いなく言葉通りの行動をすると判断したのだろう。 やがて、悟空の頭が小さく上下した。 「少しでも暴れたら、遠慮なく気絶させるぞ」 三蔵はさらに念を押すと悟空の頭から布団を取り除いてやる。かなり暑かったのか――それとも別の理由なのか――悟空は顔を真っ赤にしていた。それでも、ようやく何の気兼ねもなく呼吸ができるせいか、ほっとしたようなため息をつく。 「ジジィは、怒ってなかっただろう」 だから、くだらないことを二度と口にするんじゃねぇと三蔵は告げる。 しかし、悟空はまだ納得できないのか首を縦に振らない。あるいは、僧正はどんな相手でも態度を変えないから……と思っているのかもしれないと三蔵は考えた。 (マジで、かなりキてんな、こいつは……) 悟空はどちらかというと強情だ。だが、自分と悟空とでは先に折れるのはたいがい後者だと三蔵は思っていた。だから、今回の一件もそうなるだろと高をくくっていた面はある。そして、寺院でくだらないことを吹き込んでくれる馬鹿者連中から悟空を隔離すれば、大丈夫だとも思っていたのだ。 しかし、金鈷を外した自分が、誰彼かまわず傷つけたという事実が、悟空の心をきつく縛り上げているらしい。 (あるいは、昔何かあったか……だな) 記憶を封印されていても、悟空は感情までは完全に忘れているわけではないようなのだ。金鈷を外したことで何かあったときの感情を、追体験しているのかもしれない。 (だとしたら、しばらくかかるな) ともかく、悟空がこの衝撃から抜け出すまでは避け名雑音を耳に入れさせないようにしないと、また馬鹿なことを考えかねない…… そう考えているうちに、三蔵達は斜陽殿までたどり着いていた。 悟空は当然のように三仏神が待つ部屋までは入ることを許されなかった。だが、寺院よりは待遇がいい。三蔵が呼び出されるときに使っている控え室で待つことを許されたのだ。しかも、彼のために山盛りのおやつが用意されていた。 「……でも、やっぱ、居心地悪いよな……」 おそらく、ここにも先日の一件が伝わっているのだろう。必要最低限以外は悟空に近づきたくないと思っているのがありありとわかってしまう。 だからといって、ここから勝手に帰るわけにも行かない。 いや、帰れないといった方が正しいのか。 はっきりと確認したわけではないが、おそらく扉には鍵がかけられているだろう。そして、それは三蔵達が戻ってくるまで開かれることはなさそうである。 「やっぱ、来ねぇ方がよかったのかな……」 だが、寺院にいてもくだらないことを聞かされるだけなのはわかっていた。しかも、面と向かってはなされるのではなく部屋の外からわざとらしい口調で悟空が犯した――らしい――罪を延々と言われるのだ。まっとうな精神の持ち主なら、少々落ち込んだとしても無理はないだろう。 「何だ、つまらなさそうだな」 その時、いきなり声がかけられる。 「……おばちゃん、誰?」 さっきまで部屋の中には自分以外誰もいなかったはずなのに……と悟空は目を丸くした。しかも、ドアが開けられた気配は全くないのだ。全身で警戒を表している。 「まぁ、細かいことは気にするな」 そう言いながら微笑んでいる女性は、この斜陽殿には不似合いな華やかさを身にまとっていた。 「普通、気にすると思うけど?」 ゆっくりと歩み寄ってくる彼女に、悟空はこう告げる。 「本当、お前は変わってねぇよ。そう言うとこがさ」 かわいいよなぁ、相変わらず……と付け加えられて、悟空はふっと小首をかしげた。 「おばちゃん、俺のこと知ってんのか?」 そして、おそるおそるこう問いかける。 「さぁな……だとしても、お前は思いださねぇ方がいいんだよ」 彼女は悟空の質問を適当にはぐらかしながら、顔を覗き込んできた。そして、次の瞬間、柳眉を潜める。 「やっぱ、影響が出てんな……もう一回、術をかけ直しておいた方がいいかもしれねぇ」 そして、こうつぶやく。 「おばちゃん」 悟空は本能的に恐怖を感じてしまった。いや、あるいは封じられた過去の記憶のせいかもしれない。 「悪いな。お前はともかく、あいつは眠らせておかねぇといけないのさ」 こう言いながら、彼女は悟空の金鈷に手を触れる。その仕草に、悟空は何かやばいと思った。しかしどうしたわけか体が動かない。そんな悟空に向かって、彼女はすまなさそうな表情を作った。 「でないと、お前まで引きずられてしまう。最悪の場合、世界が壊れかねないんでな」 それだけは避けないと……と付け加える。 「やっ……やだ……」 悟空は何とかそれだけを口にした。 「すまん……」 そんな悟空に向かって、彼女は本気ですまなさそうな表情でこういう。 次の瞬間、悟空の意識は何かによって闇の中へと跳ね飛ばされてしまった。 「テメェ、猿に何をしやがった!」 それから1分も経たないというのに、三蔵が部屋の中に飛び込んできた。だが、目の前にいる相手を見た瞬間、彼はぎょっとしたように動きを止める。 「さすがだな……」 だが、彼女の方は実に楽しそうな表情でこう声をかけてきた。 「どこにいても、この子猿の声は聞こえるって訳だ」 本当、お前達はいつでも俺を楽しませてくれるよ……と付け加える彼女の表情は、本当に優しいものだ。 「……テメェ、何者だ……」 ようやく口をきくだけの気力を取り戻したのか、三蔵はこう問いかける。 その身にまとう神気から、彼女が天界の存在である事は察しがつく。しかも、三仏神なんかとは比べ者にならない上級の神であろう。だが、そんな彼女がどうしてここにいて、悟空にちょっかいを駆けているのか、三蔵にはわからなかった。 「言う必要はねぇな。どうせ、忘れるんだし……」 にやりっと彼女はさらに唇をゆがめた。 「あぁ、これだけは忘れてもらっちゃ困るんだったな。二度と金鈷を外すな。せめて、テメェがもっと強くなるまではな」 でねぇと、こいつは消えてなくなるぞ……と付け加える彼女に、三蔵は眉をひそめる。 「どういう事だよ!」 忘れさせられるとしても、確認しないわけにはいかないとばかりに三蔵はこう問いかけた。 「こいつより、あいつの方が強いからさ……あいつは、半ば狂っている。まぁ、それも無理はねぇんだが、な」 それ以上のことは知らねぇ方がいい……こう言いながら、彼女はゆっくりと三蔵へと近づいてくる。 「まぁ、今回のわびとして、子猿に二度と手を出すんじゃねぇと命じさせとくよ」 それで勘弁しろ……と彼女が口にした瞬間、三蔵は光で視界がふさがれてしまった。 反射的に瞳を閉じる。 ようやく周囲が元に戻ったことを確認して三蔵は再び瞳を開いた。 当然、彼の視界の先にいるのは悟空だけである。だが、彼女の言葉に反して、三蔵はすべてを覚えていた。 「……俺にあいつの術が効かなかったのか……それとも、故意にかけ損なってくれたのか……」 おそらく後者なのだろう、と三蔵は推測をした。たぶん、悟空に対するフォローの意味での行動なのではないだろうか。 「……ただの馬鹿猿にしか見ねぇんだけどな……」 やはり、500年前に何かあったとしか思えない。しかし、それを確認することは不可能に近いだろう。 「まぁ、猿が元通りになればそれでいいんだけどな」 その方が手間がかからない……と付け加えると、三蔵はソファーで眠っている悟空へと歩み寄っていった。そして、久々で見る穏やかな寝顔に、何故かほっとしてしまう。 しかし、いつまで経っても目を覚まさない彼に、三蔵はしっかりと切れてしまった。 「いつまで寝ていやがるんだ、この馬鹿猿!」 いったいどうやって持ってきたのか。三蔵はハリセンを取り出すと、悟空の頭に遠慮なく振り下ろした。 小気味よい音が控え室内に響き渡る。 「何すんだよ、三蔵の馬鹿!」 それで目が覚めてしまったのだろう。悟空はこう叫びながら跳ね起きる。だが、すぐに動きを止めてしまった。そして、何かを確認するかのように周囲に視線を走らせる。 「……あれ? 三蔵、もう終わったのか?」 ようやく頭の中で事情がつながったのか、悟空はぼけっとした声でこう問いかけてきた。その口調にはここに来るまでのあの悲壮な態度は微塵も感じられない。 「だから、迎えに来たんだろうが!」 何寝ぼけているんだ、てめぇは……と三蔵は付け加えながらも、悟空がどこまで覚えていて何を忘れているのかを見極めようとする。もっとも、それは容易なことではないが、悟空にうかつなセリフを投げつけないために必要なことだと、三蔵は自分に言い聞かせていた。 「あっ……そうなんだっけ?」 実際、悟空は何かおかしいというように小首をひねっている。 「何だよな、きっと……俺、寝てたから、時間の感覚がおかしいんだ」 でも、いつの間に寝ちゃったんだろうなと悟空は付け加えた。 「覚えてねぇくらい、眠かったんだろう。ここしばらくろくに寝てなかったんだから当然だろうが」 待ってる最中に勝手に寝てしまったんだろうと三蔵は悟空に言い聞かせるようにこう言う。 「……そうなのかな……」 「違うって言うのか?」 まだ納得できないという様子の悟空に、三蔵はきつい視線を向けた。 「それとも、てめぇは俺が嘘をついているとでもいいてぇのか?」 さらにこう付け加えられて、悟空はあわてたように首を横に振ってみせる。 「ならいいだろう。ほら、帰るぞ」 言葉とともに三蔵はきびすを返した。 「待ってよ、三蔵!」 悟空はあわててその後を追いかける。 その瞬間、壁際においてある姿見に彼の姿が映し出された。そこは、忌々しそうな表情をしているもう一人の悟空の姿であった。 だが、それに悟空はもちろん、三蔵も気がつかない。 そして、それも悟空が部屋から出ると同時に消えた…… 彼らが再び、それの存在に出会うのは、西への旅が始まってからであった。 終 |