総士の脳裏を、今までの記憶が次々と駆け抜けていく。
 暖かくて、宝石のように輝いているそれら。その一つ一つが、自分が《自分》である証しだと言っていい。その多くが他が独りの《存在》に起因していることが、総士には自慢だった。
 それを失ってはいけない。
『総士!』
 何よりも、この叫びの主のことだけは。そして、彼を守るのだ――自分がどのようなことになろうとも――心の中で総士はそれだけを必死に願っていた。
 彼が、彼でいられるように……
 そのためであれば、どんなことにも耐えて見せよう。そして、何でもできる。
 何度も何度も、総士は心の中でこう繰り返していた。

「大丈夫。あの四人なら、かならず、希望にたどり着く」
 遠ざかって行く輸送機を見つめながら乙姫は小さく呟いた。それは、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、ここにはいない《誰か》に向けられたものなのか。
 自分でもそれはわからない。
 そして、それを確認する時間は乙姫には残されていなかった。
「乙姫ちゃん!」
 言葉とともに乙姫は崩れ落ちるようにその場にうずくまる。その様子を見て、千鶴が慌てて駆け寄ってきた。
「まだ外にいられるうちに見送れて良かった」
 そんな彼女に向かって、乙姫はこう呟くように告げる。
「本当は……総士と一騎に『お帰りなさい』って言ってあげたかったんだけど」
 無理なことはわかっている、と微笑めば、千鶴は悲しげに視線を落とす。
「ごめんなさい……力が足りなくて」
 もっともっと、自由に外を歩かせてあげたかった。
 もっともっと、いろいろなことを体験させてあげたかった。
 千鶴は涙をこらえながら、乙姫の体を抱きしめる。そんな彼女の腕の中で、乙姫は小さく首を横に振る。
 確かに、そうしたいと思う気持ちがないわけではない。
 だが、そうすればこの島の《コア》である自分が、一騎達の帰る場所を奪ってしまいかねないのだ。そんなことだけはできない、と思う。
 それに、と心の中で乙姫は呟く。
 自分の代わりに、きっと一騎がいろいろな経験をしてくれるはずだ。それを感じるだけで十分だ、とも。
「ここにいることがわたしのわがままだったの。それを黙って見守っていてくれただけで十分だよ」
 だから、今度は自分が義務を果たす番だ、と乙姫は口にする。そんな彼女の上に、はらりっと一枚の落ち葉がふってきた。
「ともかく、一度医務室へ……メディカル・チェックをさせてくれるでしょう?」
 この言葉に、乙姫は静かにうなずく。そして、視線をあげたとき、芹と里奈が駆け寄ってくるのがわかった。

 もう時間がないのだ、と千鶴がすまなそうに告げてくる。
 その言葉に、やはり出迎えてやるのは無理だったか……と乙姫は心の中で呟いた。わかっていたこととはいえ、目の前に突きつけられると悲しい。ならば、せめて彼等のフォローをしてやれないだろうか、と思う。
 そのためにも、自分はやはり岩戸に戻らなければならないだろう、と心の中で呟く。
 何よりも、このままではいけないのだ。
 この島は、今、命を失うことの悲しみに満ちている。だが、それだけではないのだ、と言うことを自分は知っていた。だから……
「その前にミールに教えてあげないと。生と死は一つのものとして続いていくことを」
 そして、死は悲しいが、怖くはないのだ、と。
 だが、そんな彼女の言葉に友人達は涙を流す。それだけで、自分には十分だ、と乙姫は思う。
 自分を守ってくれると言った兄がいて、自分の代わりにそんな兄と一緒にいてくれる半身とも言える存在がいて、そして、自分の境遇を悲しんでくれる友人がいる。
 そんな贅沢なことは、総士には望めないことだろう。もっとも、彼の場合、ただ一人の存在がいてくれれば十分なのだろうが、と。
「そんなことを乙姫ちゃんにさせるなんて……」
「ミールを壊してしまえば……」
 心優しい友人達は、自分を助けようとこう言ってくれる。その気持ちはうれしい。
 だが、それをできない存在なのだ。
 島の空気がミールだ……ミールはこの島の空気そのものなのだ。
 それは、フェストゥムと人類の共存の形。ミールが学ぶことを遮ってはいけない。だから、自分は岩戸に戻らなければいけないのだ。一騎達が戻る場所を失わせないために。
 史彦や千鶴だけではなく乙姫もそう言えば、彼女たちももう何も言えないらしい。
「この宇宙で命だけが持てる、嬉しくて哀しい物語…それをわたしは体験できたんだよ」
 この言葉が慰めになるのだろうか。
 それはわからない。
 だが、短時間の間でもそれを体験できて良かった……と思うのは間違いなく乙姫の本音なのだ。
 そして、もう一つの理由。
 岩戸の中に戻り、そしてここに残されたシステムを使えば、一騎にだけは声を届けることができるだろう。
 最後の瞬間まで、彼等のことを見つめていたい。そして、少しでも手助けをしてやろう。
 乙姫はそう考えていた。

 同士討ち覚悟で戦えと言う人類軍。
 だが、一騎達は驚かない。冷静に作戦の確認をしている。その中心になっているのは、やはり一騎だった。
 ただひたすら目標を求めて進むだけの作戦。
 だが、逆に言えばそれだけなのだ。
 他の全てを切り捨てていると言うことは、言葉は悪いが気が楽だ、といえるかもしれない。
「大事なのは、一人も死なないこと。皆城君と五人で島に帰ると言うこと」
 真矢の言葉は全員の気持ちだ。
 そのために、自分たちはここに来たのだ、と一騎は思う。
「……だから、待っていてくれ、総士……」
 もうすぐ行くから……と口の中だけで呟く。
 その時だ。
 一瞬、懐かしい気配が一騎の背後をかすめていったような気がしたのは錯覚だろうか。
 しかし、それを確かめる時間はない。
 目的地に着いたのだ。
 ここから先は、ある意味、一分一秒を争うのではないか、と一騎は思う。時間がかかればかかるだけ、総士が危険にさらされる時間が長い、と言うことなのだ。
 だから、と思いつつ、ゆっくりとマークゼクスを進める。そして、輸送機から飛び降りた。
 次の瞬間、全身を激しい落下感覚が襲う。しかし、それに対する恐怖はなかった。
 目の前に広がる世界のどこかに総士がいる。
 だが、目の前に広がる世界は、一騎たちには信じられないものだった。
「これが北極」
 命のかけらも感じられない、幾何学的で無機質な世界。だが、それだからこそフェストゥムには心地よいのいだろうか。
 それを誰かに問いかけたくても、答えを返してくれるものはいないだろう。
 いや、あるいは《彼女》なら答えをくれるだろうか。
 そのためには、まず、彼女のコアがある場所までたどり着かなければいけない。だが、そう簡単にいかせてもらえるとは思ってもいなかった。
 その一騎の心の中を読み取ったかのように、前方に表れる無数のフェストゥムたち。
「行くぞ!」
 それに対し、一騎達は作戦を開始する。総士を助け出すという最終目的に向かって。

 その光景を、総士はただ見つめているだけだった。
 本当であれば、彼等のために作戦を指示してやりたい。だが、今の状況では無理だ。
 少しでも気を抜けば、体だけではなく心まで奴らに戒められてしまう。だが、それだけはなんとしてもさけなければいけない。
 そう思うものの、まるで共鳴する音叉のように自分の中で響いている《声》にいつまで逆らえるだろうか。もし、それに一瞬でも心ひかれれば、自分はこの場にいなくなってしまう。
「一騎……」
 自分をこちら側につなぎ止める唯一の存在。
 その存在を思い出すだけで、自分がまだ耐えられると思えるのは何故なのだろうか。
 そう言えば、彼は昔から自分に力をくれた。
 一騎を守るためだ、と思えばどんな訓練にも耐えられたのは事実だから。
 そして、今、彼はすぐ側まで来ている。この場にいても、それだけは感じられる。だから……と思ったときだ。
 不意にイドゥンの姿がモニターに現れる。
「アルヴィスの子よ。我々に戦い方を教えてくれ。今この地にいる人間達をお前が滅ぼすのだ」
 一体何を言っているのか。
 この地にいる人間には《彼》も含まれるのに、と。
 彼だけは、何があっても……そう考えた瞬間だ。総士の体を覆っている翠の結晶が彼の心の中に浸食をしようとするかのようにあの響きを強めてくる。
「……一騎……」
 そんな彼を支えているのは、彼の微笑みだけだった。



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