「……一騎……」
 アルヴィス内の総士の部屋の前。
 そこにうずくまっている一騎に向かって、乙姫が声をかけてくる。
「総士を……助けられなかった……」
 あんなに近くにいたのに……と一騎は呟くと、膝に顔を埋めた。その頬を流れていく涙は、悔しさのためか。それとも……心の中にぽっかりと空いた穴のためだろうか。
「それは……私も同じだよ、一騎」
 元はと言えば、自分があの《根》をちゃんとコントロールできなかったから……と乙姫は口にする。その声には、深い後悔の念がにじみ出ていた。
「乙姫ちゃんのせいじゃない……君は、精一杯やっただろう?」
 一騎は慌ててこう口にする。そうすれば、彼女は静かに首を横に振って見せた。
「人を失う悲しみよりも、憎しみの方が強かったの。あれは……由紀恵の憎しみだわ」
 そして、ぽつりっとこう付け加える。
「……由紀恵? 狩谷先生?」
 彼女がどうかしたのだろうか。道生達の話だと、そのまま人類軍へと戻ったはずなのに、と一騎は眉を寄せる。
 確かに、自分たちを裏切った相手だ。だが、それでも、彼女は自分たちに戦いの厳しさを教えてくれたことだけは事実だろう。あの行為だけは間違いなく真実だ、と一騎は思っている。
 だから、いつかまた話をしたいと考えていたのだ。
「由紀恵は……フェストゥムに無理矢理同化されたの……そして、大切な人をその手で殺してしまった……」
 その時に感じたのが憎しみなのだ、と乙姫は吐息のように付け加える。
「……そんな……」
 大切な人を自分の手で殺してしまうなんて……と一騎は考えただけで恐怖に襲われた。同時に、そんなことをさせたフェストゥムに対する怒りも。
「ひょっとしたら……総士も同じことをするかもしれないよ?」
 それでも、一騎は彼を助けに行くのか。乙姫はこう問いかけてくる。
「当たり前だろう!」
 どうしてそんなことを言うのだろうか。それがわからないわけではない。だが、一騎はきっぱりとこう言い返した。
「総士は……俺にとって失えない存在なんだ……今、ここにいないというだけで、ものすごく寒く感じるくらいに。たとえ、あいつが同化されていても、絶対に呼び戻す。甲洋が帰ってきたんだ。あいつが帰ってこないわけ、ないじゃないか」
 きっと帰ってくるに決まっている。
 帰ってこなくても、自分の呼びかけに何か反応を返してくれるはずだ。
 一騎はそう信じていた。
「そう言ってくれて、ありがとう」
 乙姫はそんな一騎に微笑みかける。
「乙姫ちゃん?」
「一騎がそう信じていてくれるなら……総士は大丈夫だよ」
 だって、と彼女はさらに笑みを深めた。
「総士にとっての絶対は、一騎だから」
 だから大丈夫。乙姫は言い切る。
「……かならず、一騎を待っているよ、総士は」
 たとえ、魂だけになっても。この言葉に、一騎は唇をかみしめる。
「総士は、生きている……絶対に」
 その可能性は少ないだろう。だが、そう信じていたい、と一騎は心の中で呟いていた。

「なぜ。私はここにいる……なぜ……そうか、ついにミールと拮抗したか。行かなければ」

 スフィンクス型の新種が襲いかかってきた。
 これ以上パイロットを失うことはできない。だから、と史彦が判断を下したときだ。もう一体のフェストゥムが確認された。
「最初の奴は囮か!」
 それでは、とても先ほどの作戦では倒すことができない。だが……と悩み始めたときだ。
「新たに出現した一体が、先ほどの目標に向かっていきます!」
 彼らの目の前で、新たに表れたフェストゥムがスフィンクス型をあっさりと倒した。それは一体何故なのか。
 その答えを見つける前に、残ったフェストゥムは姿を消す。
「残り一体ロスト。策敵にも反応ありません!」
「ヴェルシールドが自動的に解除されます!」
 モニターに文章が浮かび上がる。
【彼らはまた来る。会話がした。山で待つ。 真壁紅音】
 そこに記された名前は、あの日から目にすることがないと思っていた名前だ。それなのに何故、と誰もが思う。
「……何故、今……」
 それとも、今だからなのか。その答えを史彦は持っていなかった。

「おかえり」
 乙姫は姿を現したミョルニア――紅音に向かって微笑みかける。それに彼女は静かな瞳を向けた。
「ここを構成する物質は、私と関連しない。かつてここにいた記憶に導かれた」
 そして、こう告げる。
「やっぱり! あなたは人の記憶というものがどんなものか、もう理解してるんだ! 会いたい人が……来るよ」
 そう言いながら、乙姫は視線を向ける。そうすれば硬い表情の史彦が確認できた。実際に紅音の姿を見て、彼は動揺を隠せない。そんな彼の様子に、乙姫は苦笑を浮かべた。
「フェストゥムが何の真似だ。何を企んでいる。フェストゥム同士が戦うことなどあり得ない!」  そんな彼女たちの耳に史彦の声が届く。いや、二人にだけではない。CDCにも、そして一騎たちにもこの声が届いていることを乙姫は知っていた。
「フェストゥムの内部で分裂が起こったとでもいうのか」
「事態を、極限値で捉えると、そういう回答もあり得る。だがこれは、我々にとって、より未知の回答を導くものだ」
「未知の回答?」
「人間と同化した我々は、ごく稀に人格を形成することがある。それはすぐに全体の中で画一される。だが、真壁紅音だった存在だけは、なぜか独自の共鳴核を形成し続けた。それは些細な変化に過ぎず、全体に影響を与えるまでに、十年近くかかった。多数の因子が彼女に共鳴することで、我々の中にある種の時間が生まれたのだ。時間は我々にとって、世界を構成する重力の一つに過ぎない。だが真壁紅音だった存在は多くのコア達と共鳴し、我々の内部で、時間を絶対軸とする場を形成してしまった」
「なぜ紅音だけなんだ。何億の人間が犠牲になったと思っている」
「それについては、今なお我々の中で回答を探し続けているが、極限値ではすでに現象としての回答が出ている。それは、真壁紅音が自ら同化を望んだと言うことだ」
 そう、彼女は望んだのだ。そして、その結果、フェストゥムはある事実を知ったはず。
 もっとも、それを口に出すものは、ここには誰もいない。
 まだそれを告げるのは早いのだ。
「もう一度言ってみろ!」
「無論、真壁紅音自身にとっても、それは不測の事態だった。だが我々と接触した瞬間。我々を迎え入れ、祝福した」
「祝福だと……」
「我々の次元をお前達の存在に従って表現すると、そういう言葉になる。我々の同化行為も破壊も、宇宙に存在するものへの祝福だ。それを真壁紅音は逆転させた」
「逆転? どういうことだ!」
「彼女は我々を理解した、最初の人類だ」
 その時のことを乙姫は知らない。だが、記憶していた。

『実体化したフェストゥムは、全体が珪素系の物質で構成されているわ。この宇宙で、最も多く存在する物質。要するにただの土よ』
『皆城達が必死にミールを分析しているときに、真壁隊長は土に触れながら、フェストゥムを理解しようと言うんですか』
『私は、彼らと会話がしたいだけ。アサギくんもやってみなさい。こうして土に触れていれば、いつか貴方もフェストゥムの気持ちが分かるかもしれないわ』

 これは彼女の記憶ではない。
 間違いなく、真壁紅音の記憶であるはず。
 それを何故自分が知っているのか。その答えを、乙姫は誰にも教えられることなく理解していた。

「なぜ……、ここにきた」
「私に近い存在である、お前達に頼みがあるからだ」
「頼み……?」
「私に連なる最も重要なコアは、真壁紅音の共鳴核。すべての回答への道だ。だが、それゆえ、北極海に具現するミールに囚われ、消滅に陥っているそのコアを救って欲しい」
「お前達が……仲間を消すというのか」
「本来我々は、全体で一つの存在。すなわち無だ。どこにもいない。それゆえ、分裂も相互の消滅もあり得ない。だが、真壁紅音は、我々を逆転させ、ひとつの傷を負わせた」
「傷だと」
「真壁紅音が我々を理解したことから、すべては始まった。彼女はどこにもいないはずの我々を祝福した。結果、私はミールと拮抗し、ひとつの存在となった」
「存在? どこにもいない、お前達がか!」
「そう。私は真壁紅音の意思を継ぐものとして、今ここにいる。しかし、このままではミールの内部に残されたコアの消滅に伴い、私も最初から存在しなかったものとして、消えるほか無い」
「紅音は……今もフェストゥムと会話しているのか」
「彼女は、多くの共鳴となって響き続けている。人類とミールが互いを滅ぼす前に、私のコアと接触して欲しい。お前達に必要なものを、そこで与えてやれるだろう」
「フェストゥムが与えるだと! 我々から奪った命を、返してくれるとでもいうのか!」
「それは不可能だ。我々にも、時間は操作できない。だが、時間の重力が到達していない未来でなら、私とお前は求めるものを共有できる」
 このままではいけない。
 このままでは最後の希望まで潰えてしまう。
 今までは傍観者という立場に自分をおいていた乙姫だが、そうしてもいられないと判断を下す。そして、ゆっくりとミョルニアへと歩み寄った。
「データーで見せてあげて。きっと分かってくれるから」
「我々にデーターという概念はない」
「大丈夫。あなたなら、できるよ」
 そう言って、乙姫はミョルニアの手を取った。そして、CDCへと送られていくデーター。それは、それぞれに取って、重要なデータだった。フェストゥムの攻撃から機体を守る方法は、日野洋治からの遺産。彼は一体でも多くの敵を倒すのではなく、一人でも多くの兵士を生き延びさせる、そういう思想だったらしい。そして、人類とフェストゥムの融合パターン。遺伝子レベルから、内臓器官、意識のレベルまでを詳細に。それは、彼等が必要としているものだった。
「今の私が渡せるのは、これだけだ。ほとんどの回答は、ミールの中に囚われたままでいる」
「みんなを納得させるには充分だよね。史彦」
 乙姫はこう言って史彦を見つめた。そうすれば彼は初めてかすかに表情を和らげる。
「お前のコアを助け出せば、パイロット達は助かるのか?」
「彼らの肉体の同化現象は、最初の段階に過ぎない。真壁紅音の共鳴核は、その先にある多くの回答を導き出している」
「だが、どうやって激戦地にあるミールまで到達する」
「すでに最適な方法を送った。それに従ってミールに接近すれば、後は私のコアが導く。上手く行けば、お前達が奪われたものが一つだけ取り戻せるだろう」
「一つだけ?」
「お前達がジークフリードシステムと呼ぶものだ。ミールはお前達の力を手に入れようとしたが、我々にはあれは使用できない。だからミールは、今もあれを使用できる人間を生存させている」
「それは、システムの搭乗者のことか!」
「そうだ。皆城総士という名の人間だ」

「総士が……生きてる!」
 その事実が、一騎の中に新たな希望を生み出す。
 ただ一人の大切な存在。
 彼にもう一度巡り会える可能性があると言うことが……

 ミョルニアの行動を察したのだろうか。無数のフェストゥムが島に襲いかかってきた。
「もはやお前達を同化せず、私ごと滅ぼす気だ」
「何っ」
「アルヴィスの子らをミールの元へ。この島は我々が護る」
「我々だと!?」
 誰のことだ、と史彦が問いかけようとする。
「来たよ」
 だが、それよりも早く声が響く。その姿を確認して、乙姫はうっすらと微笑んだ。
「甲洋くん……ここに来るよう、命じたのか?」
「ううん。あの子は自分に近い存在の元で戦うことを選んだの」
「みん……な、ありがとう……さよなら」
 言葉とともに、甲洋は人間ではなくフェストゥムとして戦うことを選んだ。それが、この島を守るために必要なことだ、と判断したのだろう。だが、それは一騎達に悲しみを生み出したことを乙姫は気づいていた。
「あくまで、島のためにお前の申し出を受けよう」
「それで充分だ。お互いの発展が為されるなら」
 自らもまた戦うために、ミョルニアは史彦の脇を通り過ぎようとした。そんな彼女に向かって、史彦はマイクに拾われないように問いかけの言葉を口にする。
「なぜ……紅音の名前を使った」
「それが最適な方法だったからだ。いや、お前に会いたかったからかもしれない。そう、お前に伝えたかったからだ」
 そのまま、ミョルニアは彼等から離れていく。
「ありがとう、史彦。一騎を育ててくれて」
 この一言を残して。
 その意味をどう受け止めたのだろうか。史彦は静かに瞳を閉じた。



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