ほんのわずかな希望。 水面に落ちた小石が生み出した波紋のようにそれが広がっていってくれればいい。一騎はそう願っていた。 だが、現実はそこまで優しくない。 真っ先に時間を止めたのは咲良だった。 それが、パイロット達に与えた影響は大きい。 いずれ来ることがわかっていても、実際に目の当たりにすると衝撃は予想以上に大きかった。 それが、彼らの中で静かな波紋を生み出した。 だが、彼が知らないところでもっと悲壮な決意を固めている者達が存在していた。 「私の時間、もうあまりないみたい。総士はどうするの?」 さりげない口調で乙姫は総士にこう問いかける。 「いざというときの準備はできている」 それが自分の義務だから、と総士はいつもの口調で言葉を返す。 「そっか。私たち、最後まで普通の兄妹にはなれなかったね」 共犯者にはなれたかもしれないが、と乙姫は笑みを口元に刻んだ。ただ一つの目的のために、と。それに総士はうなずいてみせる。 「十年前、父さんに連れられて、初めてお前を見た」 そして、総士はこう付け加える。 「知ってる」 「それ以来、何度もお前に会いに行った」 「知ってる」 「お前と島を護るために、僕は生きている。そう思っていた」 それだけが自分の存在意義だった、と。あの時までは思っていたのだ。 しかし、今は違う。 乙姫を――この島を護ることは確かに今でも自分にとって優先事項だ。だが、それを最優先に考えられないのは、自分の心の中にもっと重要な存在を刻み込んでしまったからだ。 「一騎に傷つけられるまでは……、でしょ? どうしたいのか言って。総士」 そして、それを彼女はしっかりと気づいていたらしい。苦笑とともにこう問いかけられる。 「新国連の最終決戦計画に参加する場合、一騎たちと、ともに戦いたい。僕がこの島を出るための、コアの許しが欲しい」 そうでなければ、彼らを守ることができない。それだけはいやなのだ、と総士は言外に付け加えた。 「とっくの昔に私から離れていたくせに」 総士の意識は自分ではなく《一騎》に向けられているだろうと彼女はからかうように告げる。それを否定するつもりはもちろん総士にはない。だから、静かに微笑み返した。 「でも、そんなに長くはみんなと一緒にいられないよ?」 ふっと表情を曇らせると、乙姫はこう口にする。 「ジークフリードシステムと、ファフナーの二重の負荷がかかっても、十八時間は活動できる」 その間に全てを終わらせられればよし。そうでなくても、ぎりぎりまで一騎の側にいられるだろう、自分は。 「それが、一番大切な人たちと一緒にいられる、幸福な時間?」 乙姫がまじめな口調で問いかけてくる。 「そうだ」 正確には、ただ一人だが……と思いつつきっぱりと言いきった。 「私のことは、気にしないで行ってらっしゃい。私が外にいられるうちに、見送れるといいんだけど」 視線を落としながら、乙姫はこう告げる。それが彼女の精一杯の好意だ、と総士にもわかっている。 「すまない。ありがとう、乙姫」 「今は戦うしかなくても、いつか違う道を選べることを忘れないで」 自分には無理だろうが、それでも一騎と一緒に歩いていって欲しい。乙姫は微笑みとともにこう告げた。 「あぁ」 そんな未来が来ることを、自分も信じていたい、と総士は思う。 「私がここにいたことも忘れないでね」 少なくとも、覚えていてもらえるだけでいい。そして、たまには一騎との会話の中に自分の話題を出して欲しい。乙姫はそうねだる。 「あぁ。約束する」 そんな彼女に、総士は優しげな笑みを向けた。 カノンが、医務室に立てこもっていた。 一騎と道生の治療を見てからおかしかったのだ、彼女は。その理由が今わかった、と言うべきなのだろうか。自分にもフェストゥムの因子を打て、ということらしい。 「誰かの言葉を命令と勘違いしたか、それとも……」 思いもよらなかった状況に、史彦が呆然としている。だが、それ以上に医務室にいる千鶴と羽佐間容子だったのかもしれない。必死に彼女を思いとどまらせようとしている。 「カノン、教えて。誰がそんなことをしろと言ったの?」 この問いかけにも、カノンは言葉を返さない。 「ねえ、本当のことを言ったら、これを打ってあげる。だから教えて」 しかし、弓子のこの言葉には、心を動かされたらしい。あるいは、彼女の言葉を信じたのか。 「一騎に言われた」 カノンはこう告げる。 「なんだとっ! いつだ!」 史彦が焦ったように呟く。だが、それ以上に驚いたのは一騎本人だった。 だが、周囲の動揺をよそに、カノンは必死に言葉をつづっている。 「私がこの島ごといなくなろうとしたとき、自分で選べと言われた。容子にも、命令がないままたくさん困れと言われた」 今まで、こんなに考えたことはなかった、と彼女は言外に付け加えた。 「待ってカノン。それは別に、そういう意味じゃ……」 そして、容子もまた自分の言葉を彼女がそんな風に受け止めているとは思ってもいなかったのだろう。どうすればいいのかというように焦って言葉を口にしようとした。 「たくさん、困った。たくさん、考えた。答えは、ひとつしかなかった!」 カノンの言葉に誰もが動けない。その隙をねらって、カノンは弓子の手から因子が入った注射器を取り上げた。そして、自分の首筋へと押し当てる。 「私はここにいることを、この島にいることを、選びたい!」 そして、フェストゥムの因子を自らに注射した。 今までとは違う戦闘パターン。それを誰もがいぶかしく思っていた。 その答えは、すぐに出る。 動きを止めようと背後から押さえ込んだマークザイン。しかし、次の瞬間、一騎は耐え難い頭痛に襲われた。 「……同化、現象……」 これが、今回の戦いのねらいだったのだろうか。誰もがそう思う。 フェストゥムが真にねらっていたのはジークフリードシステムだった。スカラベ型がのばした触手が、総士のいるそれを絡め取る。せめて、本体だけでも、と衛が動く。 「よし。もう、誰も悲しませない。僕が……、僕が守るんだぁぁぁぁ!」 この叫びだけを残して、衛は彼らの届かない場所へと行ってしまった。 フェストゥムに同化され、半身の自由を失った一騎は、総士のための左目でそれを見つめていた。 |