何で、俺が魔王の花嫁?

013



 ユベール兄様がいなくなってから個人的にはかなり気が楽になった。
 それがいいことなのかどうかはわからない。しかし、俺がきちんと理由とともに『やってみたい』と主張したことを頭ごなしに反対されることがなくなっただけでもうれしいと思えるのだ。
 何よりも学ぶことが楽しい。
 ここで学んだことがあちらでどれだけ役に立つかはわからないが、それでも基礎を作っておけばそれだけプラスになるのではないか。そう考えて許される範囲でいろいろと手を出している。
 もっとも、こうして忙しくしているのはユベール兄様のことを考えないようにしているからだということも否定しない。
 彼が世嗣の座を追われ、軍人としてつらい役目を担っているのは自分の存在があったからだということを忘れてはいけないのだ。
「姫様。お茶の用意ができました」
 そんな俺のストッパーになってくれているのは、やはりモーブだった。
「ありがとう」
 言葉を返すと同時に編みかけのレースをかごの中にしまう。
「今日は私の実家から送られてきたものをお淹れしました。姫様に気に入っていただければいいのですが」
 すなわち、それは魔界からと言うことだろう。
「それは楽しみだわ」
 ほほえみながら、テーブルに置かれたカップをそっと持ち上げる。
 次の瞬間、湯気とともにふわりと漂ってくる香りに、俺は目を丸くした。
 これはいつも飲んでいる紅茶の香りではない。どちらかと言えば懐かしい日本茶の香りだ。
 味はどうなのか。
 焦る気持ちを抑えつつ、できるだけ優雅な仕草でそれを口に運ぶ。さすがに姫生活が二桁近くになればこの程度でいちいち違和感を覚えなくなってくる。それがいいのかどうかはわからないが。
「おいしい」
 間違いなく日本茶だ。ほっとしてしまうのは、俺の魂が日本人だからだろう。
「それは良かったです」
 モーブもそう言ってほほえみ返してくれる。
「あの方が当主になられてから『絶対ほしい』と言われて栽培されているものですわ」
 微妙に濁されたものの、彼女が誰のことを言っているのかは伝わってきた。同時にあれと思う。
 ひょっとして、魔王も俺と同じような存在なのだろうか。
 だから、俺に目をつけたのか。それともと内心首をひねりつつ再度カップに口をつける。
「これからケーキではない方がおいしいかもしれませんね」
 日本茶があるなら和菓子が食べたい。
 それらしい豆も見つけてあるし、砂糖もある。蒸し羊羹ぐらいなら作れるんじゃないだろうか。それが無理でもパンケーキにあんこを挟んでどら焼きもどきでもいい。
 どちらも手順は覚えているし、今度作ってみよう。最近は近くにモーブさえいればその程度で小言を言ってくる人間はいないし。
 もっとも、ほかのことではまだあれこれと言ってくるもの達は多い。
 この年になっても表向きには婚約者がいないことが問題らしいのだ。しかし、ユベール兄様の一件があるから表だっては口にしないだけだとか。
 いや、それだけではない。
 ダニエラのこともあって、侍女達からも遠巻きにされている。頼み事をすれば行動はしてくれるが、そうでないときは決して近づいてこない。いつもそばにいてくれるのはモーブとカミラ、ホノラだけである。
 もっともモーブ以外の二人は俺が極力遠ざけるようにしていた。俺があちらに行った後、彼女たちの居場所がなくなるのは困るのではないか。そう思ったのだ。
「モーブ。近いうちに調理場を使えるように手配してください」
 ともかく、今はあんこを作ることを優先しよう。カミラ達はそれが完成してから試食という名目で呼び出せばいい。周囲はまた俺に振り回されていると判断してくれるだろうし、と心の中で付け加えた。
「承りました。何をご用意すればよろしいのでしょう」
「濃紫豆と砂糖と塩を。あぁ、塩は少しでかまいませんわ」
 夢で見たものを試作してみたいから、とほほえんでみせる。
「お任せくださいませ」
 その言葉に俺はうなずく。
「ありがとう。いつも迷惑をかけます」
 ある意味、いつも通りの穏やかな時間が過ぎていった。

 それが一変したのは、俺の十四歳の誕生日の直前だった。

「今度のお前の誕生日に、お前の婚約者について公表する」
 ユベール兄様のかけた夕食の席でいきなりお父様がこんなことを言い出した。
「お父様、それはどうしてでしょうか?」
 しかし、それは最後まで内密にする予定だったのではないのか。そう思いながら俺はお父様に聞き返す。
「バカがバカなことをしようとしているからな」
 それに対する答えがこれだ。
「父上。それではエレーヌには意味がわからないかと」
 お母様は聞かされているから理解できるとして、とユーグ兄様がささやいている。
「……そうだな」
 さすがに話を端折り過ぎたか、とお父様はつぶやいている。
「簡単に言えば、お前を傷物にして嫁にしようと考えているものがおるのだよ。そうすれば、その一族に王家の血が分けられるからの」
 それは今ここにいないユベール兄様やアンリ兄様が結婚しても同じことになるだろう。しかし、万が一のことがあった場合、優先されるのは王女の血筋なのだ。それがなぜかは言うまでもないことだろう。
「ですが、私はすでに魔王様の持ち物ではないでしょうか」
 それがあるからお父様方も俺にある程度の自由を与えてくれているのではないか、と言外に問いかける。その中には普通は王家の女性が学ぶべきではないと考えられている乗馬だの護身術があるのは趣味と気分転換を兼ねてのことだ。ここにユベール兄様がいれば無条件で却下されていたのではないかとも思う。
「まだそれを公表しておらんからの」
 公式には婚約者がいない状態という認識になっているのだそうだ。
「そうなのですか」
 確かにそれではバカなことを考えるもの達が出てきてもおかしくはないだろう。
「ですが、お父様のお言葉だけでそのもの達が信じるでしょうか」
 胸の印を見せれば簡単かもしれないが、一応これでも女だ。そういうことは避けたい。もっとも、ドレスのデザイン次第では可能かもしれないな、と心の中でつぶやく。問題はそれをお母様が許してくださるかどうかだ。
「……それなのだがな」
 深いため息とともにお父様が口を開く。
「その日、魔王様がご来臨なさるそうだ」
 彼の言葉を耳にした瞬間、お兄様達だけではなくそばにいた侍従や侍女達も凍り付く。
「お父様……本当ですか?」
「さすがにこの話を耳にされてからお怒りのようでな。自分のための存在を傷つけるものにそれなりの報復をしたいとおっしゃったそうだ」
 確かにそれならば確実だろう。
「ドレスの方は前日までにあちらが用意してくださるとのこと。どのようなデザインであろうと我らが口を挟むことは許されぬ」
 これはお母様に向けての言葉だろう。
「せめて最低限の慎みだけは確保しておきたいのですが」
 それだけは譲れないと、とお母様が言い返す。
「わかっておる。後でそのあたりは確認できるよう手配しよう」
 おそらくモーブ経由であちらと話し合わせるのだろう。そこに自分が口を挟む隙はないに決まっている。
「大騒ぎになりますね」
 それよりもこちらの方が心配だ。魔王様の臨席など歴史書をひっくり返してもほとんどないと言っていいことなのだ。
「あちらからも護衛が出るようだから心配はいらないだろうが」
 ユーグ兄様が微妙な表情で言葉を綴る。
「問題はユベール兄様だろうね」
 あの方がそれを黙ってみているとは思えない。そういうアンリ兄様の言葉を誰も否定することができなかった。


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