逃亡



  何でこんな状況になっているのだろうか。
 ネオにはわからない。
 それでも、この場にいる大人が自分だけである以上、お子様を守るのは義務だろう。それが、本来は自分と《敵》と言っていい陣営に属しているものだとしてもだ。民間人であるのなら、保護しなければいけない。
「……ネオさん」
 その子供が小さな声で呼びかけてくる。
「何だ?」
「あのね……逃げるなら逃げてもいいよ。キラ、自分で何とかするから」
 小さいから、隠れていれば見つからないと思うよ……とキラは微笑む。
「バァカ」
 そんなお子様の額にネオは軽くデコピンをしてやった。
「お子様を守るのは大人の役目だって」
 それがどのような状況でも……と彼は続ける。もっとも、そうしてやれなかったオコサマ達もいたが、と彼は心の中で呟く。あの子供達はまだアークエンジェルにいるから、取りあえず大丈夫だろう、と思い直す。
 そして、あいつは……とふっと、そんな呟きが心の中にわき上がってくる。しかし、そんな相手は記憶の中にいないのに、とも。
 あるいは、自分の失われた記憶の先にいる存在なのだろうか。
「今は、そんなことを考えている場合じゃないな」
 まずは、このお子様を連れて安全な場所に移動をする。それを優先しなければいけないだろう。
「キラ。ともかく背中にくっついていてくれ」
 それが一番自分も動きやすいし、キラを守れる。そう判断をしてネオはこういう。
「でも……僕、邪魔になるよ?」
「それでも、だ。俺がそうしたいんだから、大人しく言うことを聞いてくれ」
 ついでに、エマージェンシーを出せるなら出しておけ……と彼は続ける。
「……うん……」
 まだ、何か引っかかるものがあるのだろうか。キラはどこか渋々と言った様子で頷いて見せた。それは、自分が信頼できないからなのか。それとも……とネオは悩む。しかし、それもすぐに振り切った。
「ほら」
 この子供には、こうして直接動いた方が確実だ。だから、とそう考えて、さっさと自分の背中へと懐かせる。
「離れるんじゃないぞ?」
 そして、きっぱりと言い切った。
「うん」
 今度はキラもしっかりと頷いてみせる。それを確認してから、ネオは立ち上がった。

「キラからだと!」
 現状を何とかしなければいけない。そう思っていたところにこの報告だ。さすがのクルーゼも驚きを隠せない。
「場所は特定できるのか?」
 同時に、あの子供を失うわけにはいかない……とそう思う。
 あの子供がいたからこそ、世界は一時とはいえ平穏な時間を得ることができた。その代わり、あの子供は心に大きな傷を作ってしまった――その傷を付けたのは自分だ――それをいやせる環境を与えてやりたかった。それだけで十分だと思っていたのに、あの子供――いや、本来のキラは自分の傷をいやすことよりもクルーゼ達の命を長らえることを優先したのだ。
 そのおかげで、自分たちはこうしてここにいる。
 そして、キラは全てを忘れて無垢な心で自分たちに微笑みかけてくれている。
 その姿は偽りだとわかっていても、慈しまないでいられるはずがない。同時に、あの子供が二度と傷つくようなことがないように守ってやりたいとも思うのだ。
「しばらくお待ちください」
 それはクルーゼだけではなく一般の兵士達も同じ気持ちだったらしい。もっとも、彼等の場合、その理由はまったく違うだろうが。それでも、キラの存在が彼等にとってある意味救いになっていることだけは否定できない事実ではないか。そうも思う。
「……どうやら、戦闘区域の中にいるようです……」
 しばらくして、驚愕に彩られた声が返って来る。
「そういえば……アークエンジェルにいる捕虜を一人、尋問のために移動をさせると聞いたような……」
 そして、キラはアークエンジェルに行っていた。
 そこまで考えれば答えは一つしかないだろう。
「……あの子のことだ……きっと、安全な場所に避難しているだろう」
 何かあったらどこかに隠れるように、と教えてある。そして、キラはその言葉を無視するような存在ではないから……とクルーゼは苦しげに口にした。
「クルーゼ隊長!」
「今、救援を向かわせる方が危険だ」
 それでも、と心の中で呟く。あの男にほんのわずかでもあの子に対する気持ちが残っているのであれば、まちがいなくあの子供を守るだろう。今はそれに期待するしかないだろう、とも思うのだ。
「我々がなすべきことは、一人の子供を助けることではない。この基地を死守することだ」
 自分に言い聞かせるようにクルーゼはこう付け加える。それに、誰も言葉を返すことができなかった。

 キラを懐かせたまま、ネオは安全な場所への避難を決行していた。
「ネオさん! シェルターの入り口!!」
 そんな彼の耳に、キラのこんな言葉が届く。
「どこだ?」
「あそこ!」
 短い問いかけに、キラが速でにこう言って返してくる。そのまま指さした方向には、確かにそれらしいものが存在していた。
「……あそこなら、安全か」
 こう呟くと、進行方向を変える。
 行く手に瓦礫がなかったせいか、さほど苦もなくそこにたどり着くことができた。後はドアを開けて……と考えたせいで気が抜けてしまったのだろうか。
 最後の最後で、ネオは失態を犯した。
「キラ、先に入れ!」
 こう言いながら、彼はキラの体を取りあえず押し込む。そして、その後に続こうとして、ふっと足を止めた。そのまま何気なく近くにあった壁に手を突く。
 しかし、それが周囲のバランスを崩す結果になってしまったらしい。。
「ネオさん、上!」
 キラの叫びが耳に届く。
 だが、それが何を指しての言葉なのか認識したときにはもう遅かった。
 鈍い衝撃が後頭部に伝わってくる。
 そのまま、彼はゆっくりと崩れ落ちた。そんな彼を、キラが泣き出しそうな表情で見つめてくる。
「……あ……」
 その表情に見覚えがある……と思ったのは錯覚だろうか。
「だ、いじょうぶだ……」
 心配いらない……と口にするよりも早くネオの意識は闇の中に吸い込まれてしまった。

 闇の奥で、ネオは自分にそっくりの人物にあった。そして、その脇でキラの面影を持った少年が泣いている。
 あれは……とそう思った瞬間、答えは自分の内からわき上がってきた。
『キラ……』
 こう口にしたときだ。
「ネオさん!」
 小さなキラの声が耳に届く。同時に、彼の顔が視界の中に飛び込んできた。
「……坊主……何で、小さくなっちまったんだ?」
 無意識にこんな言葉が飛び出す。それに、誰かが息をのむ気配が伝わってきた。
 しかし、それがどうしてなのか。
 それ以前に、これが誰の記憶なのか。
 ネオにもまだわからなかった。




07.05.13 up



そろそろ、佳境ですね。