「……坊主、お前……」
 キラの小さな体を壁にたたきつけるように押さえると、フラガは怒りを抑えられないという視線で睨み付けた。
「もう耳に入ったのですか? さすがに早いですね」
 そんな彼に、キラは今にも消え入りそうな淡い微笑みを向けてくる。
「やっぱり本当なんだな。お前、いったい何を考えている!」
 自分に相談もすることなく、勝手に物事を決めやがって! フラガはさらにその細い手首を掴む指に力を込めた。
「……誰の記憶の中からも『僕』という存在を消してしまいたいんです……」
 絶対痛むであろうに、それでもキラは微笑みを消すことなくこう口にする。
「キラ?」
 いったい何を言っているんだ、とフラガは思わず呆然と目を見開いた。その指から力が抜ける。
「僕の存在は……みんなの心を傷つけるから……だから、僕は逃げるんです……7年という時間が長いのか短いのかはわかりませんが……でも、人一人を忘れるには十分じゃないかと……」
 呟くようにキラは言葉をつづる。
「一番卑怯な方法だとはわかっています。でも、僕はこれ以上、僕自身の姿を人前にさらしたくない……望んでこうなったわけじゃないんです!」
 出来ることなら、戦いたくなかった。
 出来ることなら、誰も傷つけたくなかった。
 人の命すら、奪いたくなかったのだ、とその華奢な全身をふるわせてキラは叫ぶ。
「……俺にもか?」
 彼をそんな状況に追いつめてしまったのは自分たち。それでもフラガはこう聞かずにはいられない。
「……少佐?」
「俺の中からも『キラ・ヤマト』という存在を消していいのか?」
 フラガはそんなキラの体を改めて抱き寄せながら問いかける。
「……少佐だって……いつかすてきな女性と出会います……その時、僕のことなんか覚えていない方がいいんです……」
 だから、忘れてください……と、腕の中の少年が微笑む。だが、その頬を涙が伝い落ちていく。
「……坊主は、俺たちのことを忘れるのか?」
 ひょっとしたら、自分が泣いていることも気づいていないのかもしれない、とフラガは想いながらさらに問いかける。
「……忘れません……それが僕に与えられた罰ですから……」
 自分がどれだけ罪深い存在なのか、忘れてはいけない。だから、忘れることはないのだ……とキラは口にした。
 人には忘れろといい、自分は忘れないという言葉が、どれだけ矛盾しているものか、おそらく本人はわかっているだろう。だが、それでもそう望んでしまうほど、この腕の中の子供は追いつめられていたのか、とフラガは思う。
「馬鹿だぞ、お前は……人の心なんて、そう思い通りになるもんじゃない」
 忘れるか忘れられないかは、個人個人の勝手だろう。
「だが、今は行かせてやる。これ以上、坊主を泣かせたくないからな」
 フラガは苦しげな口調でこう告げながら、キラのあごに指をかける。そして、そうっと上を向かせた。
「だが、俺は執念深いんだ。それだけは覚えておけ」
 そして、そのまま濡れた頬を唇でぬぐってやる。
「……貴方は馬鹿です……」
 瞳を閉じながらなおもこう口にする、キラの唇を、フラガは自分のそれで塞いだ。

 数日後、少年の姿は、彼が戦場で乗っていた純白のMSとともに人々の前から消えた……

「……そう言えば、そろそろ、木星探査船が戻ってくる時期ですね……」
 大佐に昇進したフラガは、相変わらずMAのパイロットとして活躍していた。ただかつてと違うのは、その配下にいるのはナチュラルだけではなくコーディネーターもいると言うことだ。
 この7年の間に、少しずつとは言えナチュラルとコーディネーターの間に出来た溝が埋まってきた。それをフラガは複雑な思いで見つめてきていた。
 ここに彼がいればいいのに……と言う思いを抱いて。
「もうそんなになるのか」
 そう言いながら、フラガはその日時を確認しようと、キーボードを操作する。
 彼が姿を消してからの自分は、かつての自分を知っている者があきれるくらいまじめに仕事に打ち込んでいた。忙しければ忙しいほど忘れられるか、と思ったのだ。
 それなのに、逆に彼の記憶は鮮やかなまでに強くなっていく。
 特に思い出されるのは、泣いている彼の表情。
 それはいったいどうしてなのか。
 忘れろと言われたことは覚えている。だが、だからといって忘れられるわけがない、とフラガは苦笑を浮かべた。
「まぁ、驚く表情を見て溜飲を下げてやるか」
 自分だけではなく、他にもキラのことを覚えている人間はたくさんいる。そう言う連中全員で彼を出迎えてやるのも楽しいかもしれない、とフラガはほくそ笑む。
「……坊主、俺は執念深いんだよ」
 ようやくフラガは目的の情報に辿り着いた。
 それをコピーすると、次はメールの本文を考え出す。
 数分後、そのメールは世界中へと発信された。

 モニターに映し出されるのは、コバルトに輝く惑星。
 それは自分たちの命が生み出された星だ。
「……懐かしい、って思うのは……どうしてなのかな……」
 菫色の瞳にそれを映しながらキラは小さく呟く。
 あの星では辛いことしかなかった。
 多くの出会いと別れ。
 その中には自分がその命を奪った者たちも多くいる。そして、その結果、大切な人の一人を決定的に裏切ってしまったのだと知ったのは、後になってからのことだった。
 その事実が辛くて、自分はあの星から逃げたのに……と。
「そりゃ、あれが俺たちのふるさとだからだろう」
 キラの呟きを耳にしたクルーが笑いながらこう言葉を返してきた。
「しかし、ようやく返ってきたよな。出迎えてくれる奴らがいればいいが……」
「少なくとも家族は待っていてくれるんじゃないのか?」
「いや、あまりに迷惑をかけすぎて誰も待っていないって言う可能性も否定できないぞ、あいつの場合」
 航海中はローテーションでコールドスリープに入っていたクルー達も今は全員目を覚ましている。
 全員が無事に戻って来られたことを喜んでいた。
「お前は違うだろうがな」
 いきなり話題を振られて、キラは苦笑を浮かべる。
「どうでしょう……」
 自分は罪人だから……
 周囲の人々を傷つけるだけ傷つけて逃げ出した卑怯者なのだと、キラは心の中で付け加えた。だが、それを彼らに伝える必要はないだろう。
 そう判断をしてキラは曖昧な微笑みを口元に浮かべる。
「それよりも、そろそろプラントに着きますね。回線を開きますか?」
 彼らの意識をこのセリフでキラは現実へと引き戻す。
「そうだな。このままじゃぶつかるか」
「小惑星なら、俺たちだけですむが……プラントまで巻き込むわけにはいかないし」
 ブリッジ内があわただしくなり始める。
 キラもまた、意識をコバルトの惑星から引きはがすと自分のシートへと身を沈めた。
 それから数時間後、彼らの乗った探査船は無事、プラントへと接岸をする。最も、あまりの船体の大きさに直接というわけではない。相対距離を取って静止し、ランチで移動をするという形式だ。
 キラもまた自分の荷物を抱えて出迎えに来たランチに乗り込む。
 そして、シートに着こうとした瞬間、彼は凍り付いたように動きを止めてしまった。
「何だ、坊主。せっかく出迎えに来てやったのに、その反応は」
 してやったりという表情でフラガがそんなキラの頭をあのころのように手を置く。
「……何で……」
「言っただろう? 俺は執念深いんだって」
 誰が忘れてやるか……と笑うと、触れるだけの口づけをフラガは仕掛けてきた。
「まぁ、執念深いのは俺だけじゃなかったがな」
 さっさと座れ、と口にしながら、フラガはキラの体を軽々と持ち上げるとシートへと移動させる。
「覚悟していろよ。黙っていったことを怒っている連中は多いからな」
 くくっと笑いを漏らしながら、フラガはキラの腰にシートベルトを付けてやる。
「あ、あの……」
「人一人を忘れるには7年は短かったって事だよ。最も、怒りや憎しみを忘れるには十分だったようだったがな」
 フラガの言葉の意味を理解できずに、キラはひたすら困惑の表情を浮かべた。
 そんな都合のいいことがあるわけがないのに……と心の中で繰り返す。
「いいぞ、出してくれ」
 そんなキラの百面相を楽しそうに見つめながら、フラガはランチのパイロットに向かって命じた。
 ゆっくりと動き始めた船体の中で、キラは次第に恐怖すら感じてしまう。
「馬鹿だな、坊主は……」
 何も心配することはない、と言われても、キラはまだ信じることが出来ないのだ。
「……でも……」
「何も気にしなくていい。余計なことは考えるなって」
 あのころと同じような仕草と口調で、フラガはキラの心を和らげようとしてくれる。あまりに変わらないその仕草に、キラはどうしていいのかわからないと涙をこぼす。
「こらこら、泣くんじゃない」
 今から泣いてたら、後々大変だぞ……と笑いを漏らしながら、フラガはキラの頭を自分の胸へと押し当てる。
「だって……」
 忘れてほしかった……というのは強がりだったのだ。
 でも、他の人々のことを考えればそれが一番いい方法だと思ったこともまた事実。
「ったく……少しは成長したのかと思えば、相変わらず泣き虫か」
 安心したがな、とフラガが笑う。そして、その体勢のまま優しく髪をなで続けてくれた。

 発着場からロビーへと移動したときだった。
「この、大馬鹿者!」
 言葉とともにキラは頬を叩かれる。
「……カガリ……」
 目の前に現れた人には、既にあのころの面影は薄い。それでも誰かわかってしまうあたり、自分が忘れられなかったのだ、とキラは心の中で呟く。
「まぁ、キラらしいと言えばキラらしいけどね」
 だが、彼女の存在は次にかけられた声の主より驚くものではなかったと言っていい。
「……う、そ……」
「何が?」
 思わず呟いた言葉に、その人は苦笑をにじませた声で言葉を返してくる。
「……だって……絶対、許してもらえないと……」
 思っていたのだ、と。だから、絶対忘れられていると、とキラはその瞳で告げた。
「馬鹿だね。本当に……もうそんな年じゃないよ、俺も」
 あの時はそれで仕方がなかったのだ、と悟る事が出来るだけの時間が過ぎたのだ、と彼――アスランは微笑んでみせる。
「最も、キラが逃げ出さなかったらそれも難しかったかもしれないね。だから、キラの行動を責める気はないけど……忘れろと言われたのだけは許せないかな」
 忘れられるような相手ならば、あんなに苦しまなかった、とアスランは付け加えた。そんな彼の態度に、キラの瞳にまた涙が浮かぶ。
「本当に変わらないね、キラは」
「ったく……ランチの中であれだけ泣いたのに、よくもまぁ、まだ流す涙があるもんだ」
 そんなキラの周囲で、大好きな人々が過去のこだわりを超えて微笑んでいる。
 それだけでも嬉しいのに、彼らは自分のことを忘れていなかった。
 キラは自分がこんなに思われていていいのか……と心の中で付け加える。
「って言ってる場合じゃないな。外にはまだいるんだろう?」
「さすがに全員で押しかけるわけにはいきませんでしたからね。連れて行くと言うことで妥協して貰いました」
 と言うことで、行きましょうか……といいながら、アスランがキラの腕を掴んだ。その反対側から、当然のようにフラガが彼の細い肩を抱く。
「7年分の恨み、聞き終わるまで解放されないぞ。あきらめとけよ」
 そのぬくもりに、キラはようやく口元に微笑みを浮かべた

「ただいま」
 呟かれた言葉に、人々はみな笑みを返してくれた……
 それだけで十分、とキラは思う。
 ようやく、キラの中ですべてが終わりを告げたのだった。