sick

「……さんぞ……」
 悟空の、かすれた声が三蔵の耳に届く。
「どうした?」
 窓際で新聞を読んでいた三蔵が、顔を上げると聞き返してくる。
「たばこ、すわねぇの?」
 そんな三蔵に悟空が不思議そうな表情で問いかけてきた。
「この、馬鹿猿……」
 三蔵はそんな悟空に思わずこう言い返してしまう。
「いくら俺でも、病人がいるところでたばこなんざ吸えん」
 河童が相手なら話は別だが……と言いながら、三蔵は手にしていた新聞を脇に置いた。そして、悟空が横になっているベッドまで歩み寄ってくる。
「無駄口たたけるくらいには熱が下がったのか?」
 そして、言葉とともに悟空の額に手を置いた。その冷たさが気持ちいのか、悟空は目を細める。
「まだ、ちょっとあるな……寝てろ」
 悟空の布団を直してやりながら、三蔵は言葉を口にした。
 悟空が熱を出したのは、三蔵と悟浄の風邪がしっかりと移ってしまったからだ。その風邪は……というと、先日、あの大河を渡っている最中に妖怪共に襲われて流されてしまったからなのだ。しかし、それならどうして八戒一人だけが無事なのか……と思うが、それを口に出して言うものは誰もいない。
 ともかく、悟空の熱が下がらないうちは出かけられない……と言うことで宿にこもっているというわけだ。
 三蔵が看病をしているのは、悟空の希望だから……と言うだけではないことは言うまでもないことだろう。
「さんぞ、あのさ……」
 悟空が何かを言いかけてやめる。だが、三蔵には彼が何を言いたいのかわかっていた。
「心配するな。ちゃんと側にいてやるから」
 安心しろといいながら、三蔵は悟空の胸のあたりをぽんぽんと叩いてやる。小さな子供にするようなその行為に、悟空は嬉しそうに目を細めた。
「もう一つ、お願いがあるんだけど……」
 そして、どこか甘えるような口調で言葉を口にする。
「何だ?」
 悟浄や八戒――と言うよりは悟空以外――には絶対見せない優しい微笑みを向けながら、三蔵が聞き返す。
「……何、言っても、怒んねぇ?」
 こう言うときは無条件でわがままを言ってくるはずの悟空が、珍しくも口ごもる。どうやら、以前怒られたことがある内容らしい……と三蔵は推測をした。
「まぁ……今日だけはな」
 あの二人もいないことだし……と付け加える三蔵にごくうはさらに嬉しそうな表情を作った。
「……じゃ、さ……子守歌、歌ってよ……」
 そうしたら、寝るからさ……と悟空が期待に満ちた瞳で三蔵を見上げてくる。
「歌、だぁ?」
 思わず三蔵は聞き返してしまう。
 言われてみれば、確かに何度か言われて怒鳴りつけたような気がする。それ以上に、どうして悟空がそれを強請ってきたのか、と三蔵は悩んだ。歌ってやった記憶など、ほとんどないのだ。
「拾ってくれた後、よく歌ってくれたじゃん……あれ、また聞きたい」
 ダメか、と悟空が付け加える。
「……あれか……」
 言われて思い出したのは、拾ったばかりの悟空の姿だった。
 眠ることも食事を取ることも自分からはしようとしなかったがりがりの子供。そんな子供を眠らせるために、そう言えば歌らしきものを歌ってやったような記憶がある。
「……ダメ、ならいいんだけど……」
 少しもそうは思っていない口調で悟空はこういう。同時に、毛布を目の下まで引き上げた。
「ダメ、とは言ってねぇだろうが」
 まだな、と三蔵は付け加える。
 同時に、どうするか……と心の中で付け加えた。
 悟空が聞きたいというのならば歌ってやりたいとは思う。思うが、ここ数年歌っていない以上、上手く歌えるかどうかがわからないのだ。
「……ここしばらく歌ってないんだ……下手でも笑うなよ」
「いいよ。三蔵が歌ってくれるんなら何でも」
 三蔵の言葉に、悟空は嬉しそうに瞳を細める。そして、おずおずと手を伸ばすと三蔵の僧衣の袖を掴んだ。
「ガキ」
 そんな悟空の手を振り払う代わりに、三蔵は彼の枕元へと腰を下ろす。
「いいもん、ガキで」
 ガキなら、こうして甘えても怒られないだろう……といいながら、悟空は三蔵へとすり寄っていく。
「……本当にテメェは馬鹿猿だな……」
 あきれたような声とは裏腹に、三蔵は悟空の髪を優しく撫でてやる。
 三蔵の指の感触に、悟空は気持ちよさそうに目を閉じた。
 そんな悟空の顔を愛しそうに見つめると、三蔵はゆっくりと口を開く。そして、小さい頃に聞き覚えた歌を唇に乗せた。
 普段の三蔵からは信じられないくらい優しい響きを持ったそれが悟空を心地よく包み込む。
 どうせなら、いつも歌ってくれればいいのに……と悟空は心の中で呟くが、それを言えば三蔵は歌うのをやめてしまうだろうとも思う。
 だから、せめて少しでも長く三蔵の歌を聴いていようとがんばろうとした。
 しかし、あまりにも心地よくて、悟空の意識はあっさりと睡魔に襲われてしまう。いつしか彼の唇からは穏やかな寝息がこぼれ落ちていた。
「……ようやく寝たか……」
 悟空の顔を見下ろすと、三蔵は歌うのをやめる。
「さて、どうするか……だな」
 このまま側にいてやってもいいのだが、この調子であれば悟空はしばらく目を覚まさないであろう。そして、目を覚ます頃には熱も下がっているのではないだろうか。
「……なんか、喰いもんを用意しておいてやった方がいいだろうな……」
 悟空のことだ。どうせ空腹を訴えるに決まっている。そう呟くと三蔵は立ち上がろうとした。
 しかし、悟空の手がしっかりと三蔵の僧衣の袖を握りしめているせいで立ち上がることが出来ない。
 一瞬、三蔵は悟空をたたき起こすべきか、と思ってしまった。だが、すぐに思い直す。このまま寝かせておいた方が何かといいだろう。そして、僧衣は脱いでしまえばいいのだから、と。
 そして、そのまま帯を解くと、三蔵は肩から僧衣を滑り落とした。
「おとなしく寝てろ」
 そう言い残すと気配を消して部屋から出て行く。そんな三蔵の背後で、悟空がしっかりと三蔵の僧衣を抱き込んでいた。

 それからどれくらいの時間が経ったのか。
 悟空が目を覚ましたときには、太陽がかなり低くなっていた。
「……あれ?」
 悟空は自分の腕の中にあるものが何であるのか、最初はわからなかった。
 だが、それが醸しだしている香りはよく知っている。悟空が何よりも大好きだと言い切っている《太陽》が身にまとっている香りだ。
 だが、どうしてこれが自分の腕の中にあるのか。
 悟空はどうしても思い出せない。
「……テメェが握りしめて離さなかったんだよ」
 そんな悟空の耳に三蔵のあきれたような声が届く。
「三蔵?」
 気がつけば三蔵の紫闇の瞳がすぐ目の前にあった。その事実に、悟空は心臓が口から飛び出しそうなくらい驚く。だが、三蔵の方は少しも気にしていないようだった。
 無造作に手を伸ばすと、それでも優しく悟空の額に触れてくる。
「熱は下がったようだな」
 どこかほっとしたような色がその声の中に含まれているような気がしたのは、悟空の気のせいだろうか。
「腹は減ってねぇか?」
 この言葉に、悟空は小首をかしげる。
「……空いてるような気もする……」
 でも、よくわかんねぇ……と付け加える悟空に、三蔵は眉間にしわを寄せた。食欲魔神の悟空が食べ物を食べたいと即答してこないと言うことはまだ体調が悪いと言うことなのだろう。あるいは、逆に腹が空きすぎて食欲がなくなってしまったか、だ。
「なら、アイスでも食うか?」
 これなら、食べやすいだろうし、カロリーもそれなりに取れるだろうと判断してのセリフだ。もちろん、悟空が好きだという事実は言うまでもないだろう。
「……あるの?」
 三蔵の思惑通り、悟空が食べたいと顔に書きながら問いかけてきた。
「あぁ」
「じゃ、喰う」
 三蔵の答えに悟空は即答をする。そして、体を起こそうとした。しかし、さすがに体力が落ちているのか、自分の体を支えきれずに悟空はバランスを崩してしまう。
「馬鹿猿!」
 言葉とともに三蔵は悟空の体を抱き留める。そのまま片腕でその体重を支えつつ、もう片方の手で枕とクッションを積み上げた。そこに悟空の体をそうっと預けてやる。
「……ありがとう……」
 悟空がどこかはにかんだような表情で礼の言葉を口にする。
「だったら、さっさと体調を元に戻せ」
 こう言いながら、三蔵は一度悟空から離れていく。そして部屋に備え付けられていた冷蔵庫からカップに入ったアイスを取り出すと、スプーンを添えて悟空へと差し出す。
「自分で食えるな?」
 この問いかけに、悟空は素直に首を縦に振る。そして蓋を取ろうとして苦戦し始めた。
「ったく……」
 しかたがねぇな……と呟きながら、三蔵は手を伸ばすと蓋を取ってやった。
「……何か、俺ら、お邪魔じゃねぇ?」
 完全に二人の意識からシャットアウトされていた悟浄が同様に無視されている八戒へと声をかける。
「悟空が幸せそうだからいいですけどね……」
 八戒が笑顔で答えを返した。だが、その背後の空気が不穏に思えるのは悟浄の気のせいだろうか。
 それすらも気にならないと言うように、悟空と三蔵はほのぼのとした空気を振りまいている。
「これ、冷たくて甘くて美味い」
「そりゃ良かったな」
 悟空の言葉に、三蔵が穏やかな笑みを浮かべつつ答えてやった。

 翌日、悟空の熱が完全に下がった。
 だが、どうしたことか一度は回復したはずの悟浄がしっかりと熱を出してしまった。もっとも、誰も看病をしてくれるどころか、しっかりとジープの後部座席に放り込まれてしまう。
「……何なんだよ、この扱いの差は……」
 ぶつぶつとぼやく悟浄に、せめてもの情けとして悟空が毛布を出しだした……

ちゃんちゃん