旅日記・七

「あのさぁ……」
 くじの関係で、三蔵と同室になった悟浄がふっと思いついたように声を掛けて来た。
「何だ?」
 煩わしいというのを隠さずに、三蔵は悟浄の方に視線を向ける。
「ちょっと確認しとこうかと思ったんだけどさ」
 そんな三蔵の態度には慣れている悟浄は気にする様子もなく言葉を続けた。だが、その口調の裏には何かを含んでいるというのがありありと伝わってくる。それが三蔵の気に障った。
「だから何なんだ。言いたい事があったらさっさと言え!」
 元々気の長い方ではない三蔵が悟浄を睨み付ける。彼の手が僧衣の袂に差し込まれているという事は、これ以上焦らすと十が出てくるという事だろう。
 さすがにまずいかなぁと思いつつ、悟浄はこう言った。
「猿にどこまで性教育しているわけ?」
 全く予想もしていなかったのだろう。三蔵の眼が虚を衝かれたように一瞬丸くなる。だが、直ぐに呆れたような表情を作ると唇を開いた。
「俺がそんな面倒な事をしていると思うのか?」
 あいつの頭の中には『性欲』なんぞ入る隙間はねぇだろうと付け加える三蔵の言葉は妙に説得力を持っている。
「いいや。ただ単に確認しておこうと思っただけ」
 悟浄は唇の片端だけ持ち上げるとポケットからたばこを取り出した。
「なんせ、これから毎日顔を付き合わせなきゃねぇんだ。一応情報だけは仕入れておかんとな」
 度の途中で出会ったイイ女にはもれなく声を掛けさせてもらう予定だしぃとと付け加えながら、悟浄は中から一本抜き出すと唇に加える。
「だから、何で俺に聞く」
「決まっているじゃねぇか。猿の飼い主だろう、三蔵サマは」
 くくっと笑いを漏らす悟浄に、三蔵は殺意を覚えた。
「だから、餌づけして最低限の事は自分でできるように仕込んだじゃねぇか……」
 必死に殺意を押し殺しながら、三蔵はそう言う。同時に、自分もたばこを吸おうかと箱を取り出した。だが、中を覗き込んだ瞬間、思いっきり顔をしかめる。ここにつくまでにすべて吸い尽くしてしまったようなのだ。
「チッ」
 忌ま忌ましそうに舌打ちをすると、三蔵は箱を握りつぶした。
「ペットのシモの世話も飼い主の仕事でしょうに」
 からかうようにそう言うと、悟浄は自分のたばこを三蔵に向かって放り投げる。だが、三蔵は受け取ろうともしない。
「あのなぁ……人の好意を素直に受け取ったらどうだよ」
「お前の好意なんぞ、怖くて信用できん」
「そんな事言うかァ、この鬼畜坊主」
 売り言葉に買い言葉と言うのだろうか。二人が口を開けば開く程、部屋の中の空気が険悪になっていく。
 その時だった。
「三蔵!」
 その空気を打ち壊すような大きな音ともに部屋のドアが開けられる。同時に転がるようにして悟空が飛び込んで来た。
「八戒が夕飯、何時にするかって」
 そう言いながら、三蔵のそばに駆け寄っていく。
「……本当にこの馬鹿猿は……飼い主さんの事しか目に入っていねぇんだな……」
 この空気を気にしないって言うのは鈍いのか、それともある意味才能と言うべきなのか……と悟浄は悩む。
「まぁ、仕方がないんじゃないですか? 僕達もそうですけど、あの二人もまだ『四人』って言うのに慣れていないようですし」
 その背中にいきなりこの場にいないとばかり思っていた人間の声が振って来た。慌てて声がした方に視線を向ければ、にこやかな微笑みを口元に刻んだ八戒が立っていた。しかし、表情が笑っているからといって本当にそうだと言い切れないのが八戒の怖い所である。一緒に暮らして来た悟浄が一番その事実を知っていた。
「で? 何が原因なんです?」
 にこにことさらに笑みを深めながら、遠慮の『え』の字も感じさせない口調で問いかけてくる。
「えっとぉ……」
 果たして口にしていいものかどうか。自分の事だけならともかく、これに関しては三蔵の怒りの度合いも係わってくるのだ。下手を志多良引導を渡されかねない。前門の狼後門の虎とはこういう状況の事なのか……とため息をつきつつ、悟浄は三蔵の方に視線を向けた。
「悟空。飯にする前にたばこ買ってこい」
 三蔵はそう言うと同時に、悟空の顔面にお札を突き出す。
「え〜〜! なんで俺が」
 しかし、そろそろ腹の虫が鳴きはじめる時間の悟空が素直に言うことをきくわけがない。思いっきりいやそうな表情とともにこう叫ぶ。
「いいから行って来い!」
 そう言うと同時に三蔵は悟空の手に無理やりお札を握らせる。
「マルボロの赤、ワンカートンだぞ。他の奴を買ってきたら飯抜きだからな」
 そして、この脅し文句とともに悟空を部屋から追い出した。夕飯抜きが効いたのだろう。ぶつぶつ言いながらも悟空が足音も荒く買い物に出掛けたのが残りの三人の耳にも届いている。それが聞こえなくなった所で、
「ようするに、悟空には聞かせたくない内容で喧嘩していたという事ですか」
 と八戒がため息をつく。
「俺は単に三蔵に確認したい事があって、それを口にしただけだぞ」
 自分が悪いんじゃないと悟浄が訴える。
「何を言う。てめぇが余計な事を言い出したのが発端じゃねぇか」
 これだけ言うと、後は話にならんとばかりに三蔵はいすに座って新聞を広げた。そんな三蔵の態度に苦笑を浮かべると、八戒は改めて悟浄に問いかけた。
「で? 何を確認したかったんですか?」
「猿の性教育の話だよ。どこまで知識があるか確認しておかないと後々困るかなぁと思っただけなんだがな」
 飼い主さんは知らないんだと……と付け加えた瞬間、悟浄の頭に向かって灰皿が飛んでくる。誰が投げたのかはあえて言う必要はないだろう。
「……最低限の事は知っていると思いますよ。と言うか、教えました、と言う方が正しいのでしょうか」
 三蔵の行動についてはあえて何も触れずに八戒はこう言った。
「へっ?」
「どう言う事だ??」
 予想もしていなかった八戒のこのセリフに、三蔵も思わず逆に聞き返してしまう。
「前に家に止まりに来た時に、夢精しちゃったらしいんですよね、悟空。で、パニック起こしちゃったので、一応基本的な精通の事とか男女の身体の違いとかそう言った事については説明しましたよ。あぁ、学校で習う性教育の範囲内ですからご心配なく」
 にっこりとそう言われては、三蔵もそれ以上何も言うことができないようだった。
「そう言えば、お前、昔先生だったんだっけ……」
 あっけに取られたというような口調で悟浄が確認しなくてもいい事を確認してしまう。だが、それを八戒はサラリと流すと、こう言った。
「ただし、それ以上の事については何も説明していませんので、悟空の前で余計な事は言わないで下さいね、悟浄?」
「どう言う事だよ」
「さぁ、ご自分の胸に手を当てて考えたらいかがです」
 くすっと笑いを漏らす八戒がとても怖く感じられてならない悟浄だった。
「それもこれも……三蔵が猿の教育に手を抜いたのがいけなねぇんじゃねぇか……」
 悔し紛れについつい言わなくても言い一言を口にしてしまう。
「自習が過ぎて、手がつけられなくなるよりマシだろうが……」
 新聞をめくりながら、三蔵がすかさずそう言い返して来た。
「何を仰りたいのかなぁ、三蔵さま?」
 その言葉の裏に隠されている刺を感じ取った悟浄が面白いくらい直ぐに反応を返す。
「それこそ胸に手を当てて考えてみるんだな」
 もっとも、判らないから同じ事を繰り返すんだろうがと付け加える。もちろん、悟浄は直ぐさま反論を試みようとした。したのだが……
「あぁ、それは僕も毎日思っていますよ。いつ、関係を持った女性から子供を押しつけられて帰ってくるのかとか、その場合、面倒を見るのはやっぱり僕なのかとか……悟空みたいならいくらでも可愛がるんですけどねぇ。将来がこれじゃ、どうしようもないですし」
「心配するな。ようはしつけだろう。脳味噌の容量が足りない猿だって、一応人さまの迷惑を最低限に押さえられるようになったんだ。最初からお前が育てれば、少なくともそこもバ河童よりはマシに育つだろう」
「ですよね」
 この二人にタッグを組まれた場合、立ち向かえるものがいるだろうか。
(……猿ならできるかも知れねぇが……)
 ただ、悟空の場合悟浄が今感じている『恐怖』を認識しているのかどうかあやしいだろう。それ以前に、目の前の二人の彼に対する態度が悟浄に対するそれと全く違っているという現実があったりする。
(この旅が終わるまで、俺、無事だろうか……)
 悟浄の背をたらりと冷や汗が流れ落ちていった。

 とは言うものの、学習能力という意味では悟浄は悟空よりも劣っているようだった。
 この後、何回同じ体験をすることになるのか、それは仏さまはもちろん、神様ですら判らなかった……

ちゃんちゃん