旅日記・六

「腹減った〜〜〜〜!」
 悟空の叫びが周囲にこだまする。それを耳にした八戒が、ハンドルをにぎったまま助手席の三蔵に視線を向ける。
「休憩にするしかねぇだろう」
 自分の後ろで腹減った腹減ったと騒ぎ立てる声にうんざりとした表情を作りながら、三蔵が言う。
「猿の空腹はともかく、お前だって休憩は必要だ。牛魔王の城につく前に事故って死ぬのはごめんだからな」
 どこまで本心なのか判断に悩むセリフに、八戒はいつもの人のいい笑みを浮かべた。
「判りました。この森を抜けたら休憩にします。ですから、それまで我慢して下さいね、悟空」
 セリフの前半は隣に座っている三蔵に、後半は斜め後ろに座っている悟空に向かって八戒が言う。
「やった〜〜〜」
 それを効いた瞬間、座席で嬉しそうに悟空が跳ね上がった。
「少しはおとなしくしろ! この馬鹿猿!!」
 その被害は当然のように隣に座っている悟浄が一手に引き受ける事になる。もちろん、本人がそれを喜ぶわけがない。すかさず手が飛んで来た。
「何すんだよ、このエロ河童!」
 だからといって、おとなしく反省しないのが悟空である。そもそも、行けない事をしたという自覚すらないのかもしれない。いつものように悟浄に応戦しはじめた。
「……あははははは……また始まりましたねぇ……」
 虚しい笑いを響かせて八戒が三蔵に声を掛ける。そのセリフの裏には、三蔵にも現状認識をしてもらおうという意志があったりする。ついでに、何とかさせようと思っているかどうかという所までは三蔵にも判らなかった。
「チッ!」
 しかし、八戒の思惑はどうであれこれ以上後部座席の二人が暴れれば、運転に支障が出るのは目に見えている。ため息とともに三蔵は僧衣の袂に手を突っ込むと、昇霊銃を引っ張り出す。
 そのまま半分だけ身体をひねると、後ろの二人を睨み付けた。
「てめぇら、おとなしく座っているか? それともさっさとあの世に行くか? 好きな方を選べ!」
 言葉とともに、悟浄の眉間に向けて昇霊銃を突きつける。
「何で俺なんだよ! 猿だって同罪じゃねぇか!」
 当然と言えば当然の主張を悟浄は口にした。しかし、それに対しての三蔵の答えはと言うと、
「そんなの、てめぇの方が撃ちやすい場所に居るからだろうが!」
 だったりする。
「そんなん、アリかよ!!!!」
 悟浄の叫びが森の中に吸い込まれていった。

 それから十分も立たないうちに八戒はジープを停めた。
「おやつ〜〜〜!」
 同時に悟空が耐えきれないというように八戒の首にかじりつく。
「はいはい。今出しますから……悟空、離してくれないと降りられませんよ」
 そんな悟空の態度に苦笑を浮かべながら八戒が注意をした。そんな二人の様子を見ていた三蔵の眉が微妙に寄っていく。それを悟浄がしっかりと目撃してしまった。
「何か、面白く無さそうだねぇ、飼い主さん? ペットを他人に餌づけされたのが気に入らないとか」
 からかう機会を逃すかとばかりにこう口にする。それに対する三蔵の返答は昇霊銃だった。
「……三蔵さまったら、冗談もわかんねぇの?」
 あははははははと虚しい笑いを張りつかせた悟浄が思わずあとずさる。そんな悟浄の様子に鼻を鳴らすと、三蔵はたばこを取り出した。そして一本抜き取ると唇に挟む。
「しっかしさぁ……」
 今までの失言をそれでごまかそうというのか、悟浄がそんな三蔵の前にライターを差し出した。礼も何も言わずに、三蔵はそれからたばこに火を移す。
「猿の腹っていったいどうなっているわけ? 確か二時間位前に十人前位食わなかったっけ?」
 いつかは聞こうと思っていたのだろう。悟浄がさりげなくそう問いかけてくる。
「……学習の力だけでなく、記憶力もなかったんだな、てめぇは……」
 わざとらしいため息とともに三蔵はそう言った。
「どう言う事だよ」
 その言葉の中に籠められている刺に気づいた悟浄がムッとしたような表情を作る。
「初めて会った日に俺はちゃんと説明したぞ」
「そうだっけ? あの時は八戒の事が気にかかって他の事はOUT OF 眼中だったから……」
 何を話したのかよく覚えてねぇんだよなと悟浄は頬を指で掻く。
「ったく……もう一回だけ言ってやる。今度は忘れるんじゃねぇぞ」
 悟浄を睨み付けると、恩きせがましい口調で三蔵はそう言った。
「悟空は、何をしでかしたかわからねぇが、五百年の間飲まず食わずで五行山の山頂に封じられていた。その五百年分の食欲を今からだが取り戻そうとしているんだろうよ」
 だが、その次のセリフは意外なくらい真面目な口調で語られる。その内容に、さすがの悟浄も直ぐには茶化したセリフを口に出す事ができなかった。
「お話はもっともだけどよ……だからって、あれはちーっと食い過ぎじゃねぇ? あの身体で一日七回喰うってだけで普通じゃねぇって言うのに」
 ようやく悟浄の口から出たのはそんなセリフだった。
「(3×365×500−7×365×8)÷(365×10)は?」
 それに対する三蔵の返事はこれだったりする。いきなり出された数式に、悟浄の頭はパニックを起こしてしまった。
「はぁ? 何、それ……」
 いったい三蔵は何を言い出すのだろうと、まるで化け物と直面したような表情を顔に出す。
「……やっぱり、てめぇの頭は猿と五十歩百歩だな」
 そんな悟浄に向かって三蔵が思いっきり馬鹿にしたような口調でそう言った。
「そういうてめぇは暗算で答えを出せるのか?」
 ようやく悟浄が口にした反論はこれである。
「できねぇ方がおかしいんだよ」
 小学校で習う四則計算だぞと三蔵が言い返せば、悟浄に打つ手はなくなってしまう。
「144.4ですね」
 言葉につまってしまった彼の代わりに、八戒ののんびりとした声が二人の背に向かって飛んで来た。
「へっ?」
 しかも、内容が先程三蔵が出した問題の答えらしいと判ると、悟浄は目を丸くする。
「……猿の餌づけは終わったのか?」
 そんな悟浄を尻目に、三蔵は微かに眉をあげただけで八戒に問いかけた。
「餌づけって……そんなつもりは僕には全然ないんですけどねぇ」
 そう言いながら八戒は視線を流す。釣られたように他の二人も同じ方向を向けば、小龍の姿に戻ったジープと悟空が一緒におやつを食べている姿が目に入ってくる。まさしく一心不乱という表情で食べている悟空の姿は、微笑ましいと言えるだろう。
「しかし、三蔵ってば、そんな計算までして悟空の食事を確保していたんですか?」
 八戒がどこから二人の会話を聞いていたのか判らないが、どうやら先程の式が悟空の食欲と関係しているらしい事は判ったらしい。さすがに元は教師だったと言うべきなのかと悩みながら、三蔵は頷いて見せた。
「寺の賄いがうるさくてな。面倒だったから、これで煙に巻いただけだ」
 確かに、三蔵がいきなり数式なんぞをまくし立てれば誰でもその場から逃げ出したくなるだろう。しかも、答えを出せたら出せたで、一応の説得力もある。それ以上つついて三蔵を怒らせるよりも、素直に悟空に食べさせた方がマシ……と考えたとしても無理はないのでは……と悟浄は考えてしまう。
「飼い主さんは色々と大変だったんだねぇ……」
 しみじみとした口調で悟浄が呟く。しかし、それが三蔵の気に障ったらしい。
「……コロス……」
 言葉とともに昇霊銃が額に押し当てられる。
「駄目ですよ、三蔵……ここで殺しちゃったら、後から来る方々の迷惑になるでしょう?」
 そんな悟浄を助けようと思ってか、八戒が明るい口調で口を開く。しかし、追い打ちを掛けているようにしか思えないのは悟浄の気のせいであったろうか。
「ところで三蔵……さっきの計算なんですが……」
「あれがどうかしたのか?」
「ミスがあるのに、気づいています?」
「ミス?」
 頼むから今の三蔵に油を注がないでくれと悟浄は心の中で呟いた。しかし、そんな悟浄の心境が判っていても面白がるのが八戒である。
「えぇ……三蔵の式だと閏年の分が抜けているんじゃないかと思うんですけど」
「それを言うなら、あの馬鹿猿が日に七食喰うようになったのは旅に出てからだぞ。寺の連中は量はともかく、回数までは増やさなかったからな」
「でも、その分ちゃんと三蔵がおやつを与えていたんでしょう?」
 違います? と八戒は微笑みを浮かべる。それにどう言い返そうかと三蔵が考えた時だった。
「なぁ、何の話してるんだ?」
 どうやら八戒が与えたおやつを食べ終わったらしい悟空が三人の間に割り込んでくる。そのほっぺたには、今まで食べていたクッキーのカスがこびりついていた。それを見た瞬間、三蔵達は思わず吹き出してしまう。
「え? なぁ、どうしたんだよ。なぁってばぁ」
 一人だけ訳がわからない悟空が助けを求めるようにそう言った。
「ミスがあろうとなかろうと、こいつの胃袋が小さくなるわけじゃねぇからな」
「そうですねぇ。食料が無くならないうちに次の街に行かないと、悟空が空腹のあまり何をするか判らないですし」
「ジープが食われたら、それこそ困るしな」
 しかし、誰も悟空の疑問に答えようとしない。好き勝手なセリフを口にすると、悟空を放って歩き出す。
「何だよ、それ! 第一、ジープは食わねぇって約束したぞ!!」
 ムッとした表情で悟空は三人の背中に向かってそう叫ぶ。もちろん、それに答えてくれるものは誰もいなかったが……