旅日記・四
「……ちょっといいでしょうかァ……」
 朝、三蔵が新聞を読んでいると悟浄がそう声を掛けて来た。それに三蔵が視線だけで次の言葉を促す。だが、悟浄は直ぐに口を開こうとはしない。悟空が八戒と朝食の準備をしていて当分こちらに来ない事を確認しする。
「……用がないなら声を掛けるんじゃねぇ……」
 三蔵はそう言うと視線を新聞に戻そうとした。
「あの馬鹿猿、何か悪い病気でもあるわけ?」
 そんな三蔵の耳に、ため息まじりの悟浄の声が届く。
「何かやったのか?」
 仕方がねぇという態度を隠さずに三蔵が逆に問い掛けてくる。
「何かやったのかって……たいした事じゃないと言えばたいした事じゃねぇんだけどな。一晩中窓枠に腰掛けて月を見ていただけで……」
 そこまで言われて、三蔵は昨夜悟浄と悟空が同室だった事をようやく思い出した。
「つまり、お前も付き合って一晩中起きていたって事か……ご苦労な事だな」
「まさかぁ。酒場で意気投合したお姉ちゃんと遊んで帰って来たら、小猿さんがぼうっとしていただけだって」
 それにしても異常なくらいのぼけっぷりだったけどな……と悟浄が付け加える。
(そうか……夕べは満月だったな……)
 悟浄が三蔵に向かって夕べ――今朝と言うべきだろうか――の悟空の様子を事細かに説明していた。しかし、説明されなくても三蔵にはその時の悟空の様子が手に取るように判ったが。だからといってどこまで説明していいものか判断着きかねていたのも事実だ。
「いつ抜け出したのやら」
 だからというわけではないが、ついつい話をそらそうとしてしまう。
「気づかれるようなへまはしませんって」
 そんな事になったら邪魔するでしょう、皆さん……と悟浄は苦笑を浮かべて見せる。
「邪魔した方が人さまのためだろう」
 違うのかと三蔵は人の悪い笑みを口元に浮かべた。
「どういう意味だよ」
 ムッとした表情で悟浄が食ってかかる。
「その通りの意味だが……まさか理解できないなどとは言わないだろうな」
 予想どおりの反応に三蔵は余裕でこう言い返した。
(これで、あの馬鹿猿の事を忘れてくれればいいんだが……)
 でなければ説明に困ると三蔵は内心苦笑を浮かべている。
「俺が世の中の女性に愛と快感を分け与えるのを邪魔するって言うのが人さまのためって言うのはどう言う事なんだよ」
「決まっているだろう? お前が親としての責任をとれるわけがねぇからだよ」
 違うのか、種なし男……と付け加えた三蔵に、悟浄のただでさえ切れやすい堪忍袋の緒がぶちきれた。
「言うに事欠いて、なんつうセリフを吐くんだ、この鬼畜坊主! 表出ろ!!」
 完全に悟空の事など脳裏から吹き飛んでしまったらしい悟浄は右手の中指を立てながらそう叫ぶ。そんな悟浄に内心ほくそ笑みながら
「断る。面倒くさい」
 と吐き捨てる。そして八戒達が食堂から朝食を運んでくるまで悟浄の声をBGMに新聞を読みつづけていたのだった。

 それから二月は平和だったと言っていいだろう。どちらも、満月の晩に雨が降ったり曇ったりして悟空のおかしな行動が出る事はなかったのだ。
(あの馬鹿猿が反応するのは満月の明かりだけだからな……)
 これも長年一緒に暮らしていて三蔵が実感した事だった。しかし、それについて他の二人に気づかせたくなかったのも事実。だから、満月の晩に個室が取れなかった時には自分が同室になるしかないと思い詰めていたのだが……
「四人で人部屋だと? 明日は寝不足で出発だな」
 三度目の満月の日、三蔵は自分の考えが甘かった事に気づいてしまった。その苛立ちをぶつけるようにこう口にする。
「仕方がないですよ、三蔵。他に部屋が空いていなかったんですから。補助ベッドを入れてもらえただけよしとしましょうよ」
 少なくとも、床で寝るのは避けられたんですからと何時もの微笑みを浮かべたまま八戒がなだめに掛かる。
「こいつらがおとなしく寝てくれるんならそれでもいいんだがな」
 三蔵はそう言いながら部屋の片隅に視線を向けた。そこではベッドの取り合いをしている悟空と悟浄の姿があった。今はまだ口だけでやり合っているが、そのうちこれに実力行使が加わるだろう事は想像に難くない。そうなった場合、否応なく三蔵達も巻き込まれるだろう事も簡単に予想できた。
「いっそ、一服盛って朝まで強制的に眠らせるか……」
 本当の事を口に出すわけにいかない以上、朝まで誰も目を覚まさなければ気づかれる事もないだろう。
「三蔵、いくらなんでもそれはやり過ぎじゃないですか?」
 だが、八戒はどうやら三蔵が自分が安眠する為にそんな事を言い出したのだと判断したらしい。ますます苦笑を深めながらたしなめてくる。
「少なくとも、そうすればあの18禁生物が夜中に抜け出すのだけは防げると思うぞ。どうやら、その気満々らしいしな。過去に何度か経験しているとの本人の談だ」
 どうやら、三蔵達が心配するまで行かずに二人の場所取り争いは決着がついたらしい。理由は簡単。当事者の片割れが沈没してしまったのだ。もともと宿に着いたのが遅かったから、お子さま時間で生活している悟空に不利だったのかもしれない。寝ぼけている悟空を補助ベッドに放り込むと、悟浄は嬉々として窓際に陣取った。
「そうなんですか」
 本当に困った人ですね、と笑って見せる八戒だが、その瞳は笑っていない。
「それで時々朝起きない事があったんですね」
 まったく、団体行動を何だと思っているんでしょうねぇ……というのがその理由らしい。自分が一生懸命ジープを運転している後ろで馬鹿面をさらして寝こけている悟浄が気に障るだけだろうというのは三蔵の感想だ。
「さて、どうしましょうね」
 しかし、それがここまで怒る理由になるものかどうかと、自分の事を棚に上げて苦笑を浮かべる。
「だから、一服盛ればいいだろう。いくら奴でも朝までベッドと仲良くしているに決まっている」
 俺もお前も安眠できるしなと付け加える三蔵に、
「薬はやっぱりまずいでしょう……いっそ、一晩中見張っているって言うのはどうですか?」
 と八戒も譲らない。
(ったく、面倒だな)
 それをされたくないのだと口にしてしまえば楽なのだろうが、それでは秘密にしておきたい事まで説明しなければならない。だが、相手が八戒であるだけに悟空や悟浄相手の時と違って口先だけで納得させられるかというとかなり疑問を感じてしまう三蔵だった。
「で、明日全員で事故ってあの世行きか?」
 こう言い返すのが精々だったりする。
「あぁ、その心配もありましたねぇ」
 けろりっと答えながら、八戒がふと三蔵の耳元に顔を寄せて来た。
「で、何をそんなに必死に隠そうとしているんです?」
 ぼそっと囁かれたそのセリフに、三蔵は息が止まるかと思うくらい驚いてしまった。
「……八戒……」
「何で判ったかなんて言わないで下さいね。隠しているつもりだったんでしょうが、丸分かりでしたよ」
 ひそひそと囁いてくる八戒のセリフに、『やっぱりこいつは侮れない』という認識を新たにする三蔵だった。
「わかった……後で説明する……って言うより、実際に見てもらった方がいいんだろうがな。ただ、猿には知らせたくねぇ」
「という事は、やっぱり悟空絡みの事ですか」
 そう言う事なら納得ですと付け加える八戒が、メチャメチャ目障りだと三蔵は思う。だが、ここで八戒を殺すと、後々もっと面倒な事になる事は目に見えている。それを避ける為にと必死に自制する三蔵だった。

 悟浄のベッドを乗っ取って悟空がぼうっと月を眺めている。そのそばで自分を見ている三蔵達の存在すら無視しているようだ。
「いつからこうなんですか?」
 おそらく耳元で怒鳴っても気がつかないだろう。事前にそう三蔵に言われていたとはいえ、やはり悟空を気にしてか八戒が呟くように問い掛けて来た。
「知らん。少なくとも、拾った時からこうだったな」
 たばこに火をつけながら三蔵がそう答える。
「拾った時って……三蔵?」
「知らんって言ったろうが。朝になってあいつに聞いても覚えてねぇンだ。というより、夢の中で夢を見ているようなもんらしいぞ。別段、何の不都合もないから放っておいている。治療方法もわからねぇって言われちまったからな」
 八戒のイヤミを封じる為に、三蔵はとっとと今までの経過を説明した。どうやら、三蔵が好んで今まで放っておいたわけではないと知って、八戒はひとまず怒りの矛先を収める。
「そう言えば、前に三蔵がいない時に不眠症になった事がありましたね。あれとは違うのですか?」
 ふっと思い出したように八戒がそう言った。その瞬間、三蔵が思い切りいやそうな表情を作る。
「俺が傍に居てもこうなんだから、別の原因だろう」
 それでも律儀に答えを返すあたり、三蔵も悟空のこの奇行は気掛かりなのだろう。
「ですよねぇ……三蔵人形もお守りにならないという事は、原因は何なのでしょう」
「それこそ知るか。あいつの記憶がもどらねぇ限り誰もわからねぇだろうって医者が言ってたぜ」
 もっとも、藪だったって言う可能性もあるがな……と付け加えるとともに、三蔵はたばこを吸う。
「記憶がないのに身体が動くのですか……」
「記憶はなくても、感情が覚えているんだろう。強い感情は、その原因を本人が忘れても心のどこかに残るものらしいからな。お前も、似たような経験をしている事だし、理解出来ねぇわけじゃあるまい」
 三蔵のそのセリフに、八戒履かすかに苦笑を浮かべると視線を彼に向けた。
 確かに、自分の中でも未だに消化できずに残っている『想い』とそれに伴う感情に苦しめられる事はある。だが、それはこの一行の誰もが抱えている事ではないだろうか。
「お互いさまでしょう」
 そんな八戒の心情が理解できるのだろう。三蔵は苦笑だけで答える。
「まぁ、いざとなったら悟空にはジープの上で寝てもらう事にして……問題はもう一人の方ですね」
「あいつの病気こそ一生治らんだろう?」
「それは判っていますけどね。TPOを考えてもらわないと、今後困ると思いません?」
「否定はせんな」
 言葉とともに壁でたばこをもみ消すと三蔵は自分のベッドに戻ろうとした。しかし、視線はまた悟空へと戻ってしまう。
(……500年前、いったい何があったのやら……この馬鹿猿にこれだけの衝撃を与えられた事件って言うのは、余程の出来事とだったんだろうな……)
 だが、それを確かめる術はない。
 三蔵は口元に自嘲の笑みを浮かべると、今度こそベッドの中にもぐり込んだのだった。




「何で、俺の朝飯がねぇわけ?」
 朝食の席に顔を出した悟浄がテーブルの上を見て誰とも無しにそう問いかける。
「おや? ここで食べる気だったんですか? てっきり夕べ後一緒だった女性に手料理をご馳走になってくるものだと思って、悟浄の分はキャンセルしちゃったんですけど」
 にっこりと微笑みを浮かべてはいるが、その口調には何時もの5割増で刺が含まれていた。
「八戒?」
「今日は朝が早いって言いましたよね。それなのに勝手に出ていったのはどなたでしょうねぇ」
 悟空に対して何もしてやれないという鬱憤を張らすつもりなのか、八戒のセリフには容赦がない。もちろん、悟浄の方も自分が悪いのだと理解しているから、強気に出る事ができないのだろう。必死に誤り倒している。
「いいのか、三蔵?」
 口の中に物を放り込むついでに悟空がそう問い掛けて来た。
「かまわん。自業自得だ」
 一人食べ終わった三蔵はばさりっと新聞を広げる。
「じごーじとくねぇ……」
 そんな三蔵の反応に慣れっこになっている悟空は、新しく覚えた言葉を口の中で何度も繰り返していた。
 結局、何時もと変わらぬ朝の光景だったりする。それはそれでいいものかもしれない……と三蔵は心の中で呟いていた。
今度こそおわり!