旅日記・壱
「お帰りなさい、早かったですね」
 廊下の方から八戒の声が聞こえて来た。それにようやくたばこがすえるなと三蔵が考えた時である。
「三蔵!」
 ドアが開くと同時に悟空がそう声を掛けて来た。その口調だけで悟空が何か面倒な事を聞きたがっているのが三蔵には判ってしまう。
「何だ、馬鹿猿……」
 面倒くさいという感情を隠すことなく三蔵は悟空に視線を向けた。普段ならここで『俺は猿じゃない』という主張が悟空の口から飛び出すはずだった。しかし、今日は勝手が違っている。と言うか、悟空には今の三蔵の言葉が届かなかったといった方が正しいのか……
「ねぇ、まつばくずしっておいしいの?」
 悟空の口から飛び出したのはこんなセリフだった。
「はぁっ……?」
 だが、三蔵は悟空が何を言っているのか直ぐには理解できない。いや、三蔵だけではなく悟空の後から入って来た八戒も同じようだった。
「……悟空……もう一回今のセリフを言ってくれませんか?」
 出来ればゆっくりとと付け加える八戒に、悟空は再び同じセリフを口にする。
「ま・つ・ば・く・ず・しっておいしいの?」
 ゆっくりと一言一言区切る様にして出た言葉は三蔵達の耳にしっかりと届いた。
(……まつばくずしだと……そんな寿司か寿司屋でもあるのか?)
 三蔵はそんな事を考えながら、言葉を口の中で小さく呟いてみる。だが、どう考えても意味が判らない。仕方がないので少々イントネーションを替えてもう一度呟いてみた。そんな三蔵の隣で八戒も同じような行為を繰り返している。
 その時だった。
(まさかまつばく寿司じゃなくて松葉くずしじゃねぇだろうな……)
 とんでもない可能性が二人の脳裏に浮かび上がってくる。反射的に相手の顔を見ればどうやら同じ考えに行き着いてしまった事が判ってしまった。
 その可能性を確かめるための問いを悟空に投げつけるにしても、その後の事を考えれば自分はしたくないと思ってしまう。
 だからといって確かめないわけにはいかないだろう。もし自分達の可能性が真実をついていたとしたなら、このままでは悟空の頭の中でとんでもない誤解が事実として落ちついてしまいかねないのだ。
 お互いに視線でその役を押しつけあう。
「どうしたの、二人とも……」
 そんな二人に向かって悟空が不思議そうにそう問いかけてきた。それだけならいい。二人の答えを待つ間にもうきうきとした様子で『まつばく寿司、まつばく寿司』と繰り返しているのだ。
 結局先に耐えきれなったのは八戒の方だったらしい。
「悟空、その『まつばくずし』って自分で見つけたんですか?」
「違うよ。悟浄が『うまい』って言ってたからそうなんだと……」
 そのセリフを聞いた瞬間、三蔵達の頭の中に赤毛の女好きの顔がポンと浮かんだ。
(……やっぱりあの野郎か……)
 ろくでもねぇ事を悟空に吹き込みやがって……と三蔵は苦虫をかみつぶしたような表情を作る。その隣で八戒の笑顔にも見えない亀裂が出来ていた。
「三蔵? あれ、八戒もどうしたの」
 さすがの悟空も何か様子がおかしいという事にようやく気がついた様である。何かまずい事を言っただろうかという表情を作った。そして、三蔵がゆらりっと立ち上がったのを見て反射的に両腕で自分の頭を守る様に抱える。
「……八戒、その馬鹿猿に説明をしてやってくれ……」
 しかし、三蔵は八戒にそう言い残すと悟空の前を素通りしてそのまま廊下へを向かった。
「はいはい……後々面倒ですから殺す時は人目のない所でお願いしますね」
 三蔵の背にそう声を掛けながら、八戒は何がなんだか判らないと言う表情をしている悟空にどう説明しようかと悩んでいる。どう考えてもあの『超面倒くさがり』の三蔵が目の前のお子さまに性教育をしているとは思えなかったのだ。
「悟空、まつばくずしと言うのは食べ物じゃないんですよ」
「え〜〜っ! そうなのかぁ……俺、楽しみにしてたのに……」
 案の定の反応に、八戒の中にまた新たな悟浄への怒りが沸き上がってくる。
 この時点で、悟浄には味方が一人もいなくなってしまったのだった。
 悟浄が無傷で宿に戻って来れるかどうかを知るものは誰もいない……

終わる