紅い月月が自分を見下ろしている。 「……金蝉?」 その明かりの下で悟空は側にいてくれるはずの人の名を呼んだ。 「天ちゃん? ケン兄ちゃん、どこ?」 周囲を見回しながら、悟空は足を踏み出す。 その瞬間、水音が悟空の耳に届く。 「……何で?」 ここは池でも河でもないはずなのに……と悟空は一歩踏み出したままの姿勢で動きを止める。 そう言えば、今自分の体を包み込んでいるのは、鉄さびの匂いではないだろうか。だが、時間が止められているとも言える天上界にそのような物があるわけはない。 それでは、これは一体どこから…… 悟空はそれを探そうとするかのように周囲を見回す。 その時だった。 まるでそんな悟空の動きを待っていたかのように月の光が周囲を明るく照らし出した。 「……なっ……」 その瞬間、自分の瞳に飛び込んできた光景が信じられなくて、悟空は大きく目を見開く。 「……こ、んぜん? 天ちゃん……ケン兄ちゃん……」 何で……と呟きながら、悟空は彼らの方へと歩み寄ろうとする。そうすれば、また足下で水音がした。よくよく見れば、彼らから流れ出した血が、周囲に池のようにあふれていたのだ。その中に悟空が足を踏み入れたから水音が響き渡っているのだろう。 「……やっ……やだ……」 しかし、これだけの血が流れ出しているのであれば、彼らが生きているとは思えない。実際、三人ともまるで蝋人形のように白い肌を月明かりの中に晒している。 「誰が……どうして!」 悟空が叫んだときだった。 『覚えてないのか?』 どこからかあざけるような声が飛んでくる。その声は、自分のものによく似ている……と悟空は思う。 「なんだよ!」 一体どこから……と悟空は周囲を見回す。だが、どこにも人影はおろか、自分たち以外の《物》も見えない。むしろ、なさ過ぎるほどだ。 『本当に覚えていないようだな?』 声が微妙に色彩を変える。その中にあったのはあざけりと同時に哀れみだ。 「だから、何のことだよ!」 その理由がわからない悟空にしてみれば、それは彼のいらだちを募らせるだけのものでしかない。まして、目の前にいるのは、大切だった人たち。しかも、彼らはこれだけ悟空が叫んでも声をかけてくるどころか、ぴくりとも動いてくれないのだ。 『……哀れな奴……』 声がまた悟空に言葉を投げつけてくる。 『お前がやったんだよ、それは……よく見てみろ、自分の手を』 そんなことはない、と悟空は思いながら自分の手へと視線を落とす。 先ほどまで何もなかったはずなのに、いつの間にかその手は赤く染まっていた。 「……嘘だ……」 そんなことを自分がするはずはない……と悟空が呟く。 『嘘じゃないから、そいつらがそうして血を流しているんじゃないか』 お前が、そいつらを殺したんだよ、と声は高らかに宣言をする。 「嘘だァ!」 悟空の叫びが周囲にこだました…… 一瞬、それが誰の叫びかわからなかった。 ぽっかりと見開かれた黄金の双眸が、そうっと周囲を見回す。 そこは、もう見慣れた金蝉の部屋だった。 最初は寝台以外何もなかった空間。だが、今は悟空が持ち込んだあれこれが部屋中に散らばっている。それを金蝉がどう思っているのかまでは悟空にもわからない。それでも、捨てられずにあるのだから、妥協してくれているのだろうとは思う。 「……血、着いてない……」 おそるおそる持ち上げた手を月明かりに晒してみれば、それは綺麗なままだ。 その時いつに悟空は安心したかのように吐息を吐き出す。だが、すぐに自分の布団の上に体を起こした。 「……金蝉?」 そして、自分の側にある寝台の上を覗き込む。そこで金蝉が眠っているはずだったのだ。だが、そこには人が眠った後も見受けられない。 「金蝉、どこ!」 その事実に、悟空はパニックを起こしそうになる。 思わずこう叫びながら、悟空は寝室から飛び出す。だが、普段なら必ずと言っていいほど姿があるはずの執務室にも、金蝉の姿はなかった。 「金蝉!」 あの光景は夢じゃなかったのか。 本当に、自分が彼を――彼らを殺してしまったのか。 「嘘だ! 嘘だ!」 必死に否定の言葉を口にしながら、悟空は外へと飛び出そうとした。 その小さな体を誰かの腕が抱き留める。 「やっ!」 どうして邪魔をされるのだろうか。 その思いのまま、悟空はその腕から逃れようとするかのように暴れる。だが、 「ったく……いい加減にしろ!」 この馬鹿猿! と付け加えられた声が悟空の体から力を奪う。そして、その代わりというように悟空はおそるおそる顔を上げた。 黄金の瞳が紫闇の瞳とぶつかる。 「……金蝉……」 相手を確認するように悟空はその名を口にした。 「他の誰に見えるっているんだ、お前は」 寝ぼけているのか? といいながら金蝉は悟空の寮頬を遠慮なくつねりあげる。その痛さと、何よりも側で感じられる彼のぬくもりが、目の前の存在が夢でも幻でもないと悟空に教えてくれた。 「……だって……」 金蝉が死んでしまう夢を見たから……と悟空は涙に目を眇めながら答える。それでも、そんな彼らを殺したのが自分だ……という事実は口にしない。 「そうか……」 普段なら『何馬鹿なことを』と怒鳴り返してくるはずの金蝉が、今日はこの一言で終わらせてしまう。その事実がまた悟空の中に新たな不安を生み出した。 「……金蝉……?」 どうかしたのか……と悟空は彼を見上げる。ひょっとして自分のことで何かあったのか……とさらに不安を増長してしまう。 「そんなに腹が減ってるのか、と思っただけだ」 テメェは空腹の時はろくでもねぇ考えばかりしてくれるからな……と金蝉はわざとらしいため息をついて見せた。 「そんなんじゃねぇ!」 悟空は必死に言い返すが、心の中ではそうなのだろうか……と思い始めてしまう。自分よりも金蝉の方がいろいろと知っているのは事実なのだ。だから、彼に怒られるときは間違いなく自分の方が悪いに決まっている。その認識が悟空にはあるのだ。 「わかったから、黙れ……天蓬が饅頭をくれたぞ」 だから、少し黙れ……と金蝉がため息をつく。他の連中が起きてくるだろうと。 「しかし、軍の連中には夜昼関係ないのか……」 普通なら眠っている時間だろう……とため息をつきながら、金蝉は悟空の背中を押してくる。それに逆らうことなく、悟空は部屋の中へと戻った。 「茶は淹れてやれんからな。欲しかったら自力で何とかしろ」 そんな彼らしいセリフを口にしながら、金蝉は手の中の包みをテーブルの上へと置いた。そして、かさかさと音を立てて包みを開いていく。その瞬間、いい匂いが周囲に漂い始めた。それが悟空の食欲を刺激したのは言うまでもないだろう。 「悟空?」 しかし、どうしたことか悟空はそれに手を伸ばすことができない。その事実を不思議に思ったのだろう。金蝉が不審そうに彼の名を呼んだ。 それに答えるかのように、悟空はぎゅっと彼の腰に抱きつく。 まるで母を求める幼子のようなその仕草に、金蝉は一瞬目を眇める。だが、悟空がその事実に気づく前にその表情は苦笑へと変わった。 「馬鹿猿」 言葉と共に金蝉の腕が悟空の体を自分の方へと引き寄せる。 「テメェが俺を殺すなんて、できるわけねぇだろうが」 逆もない、と金蝉は言い切った。彼の表情を見ていない悟空にしてみれば、それは間違いのないように思える。 「……でも……」 どうして心の中に、こんなに不安が渦巻いているのだろうか。 『お前がやったんだよ……』 夢の中の言葉がまた悟空の脳裏に響き渡る。 本当に、自分が彼らを殺すと言うことはないのだろうか。自分の手ではなく、自分のせいで彼を死に追いやることはないのだろうか、と悟空が考えたときだ。 「ほれ、口開けろ」 金蝉の言葉が悟空の耳に届く。それに悟空は条件反射のように口を開いた。次の瞬間、温かい物が口の中に押し込められる。 「んぐ?」 何、といいかけて、悟空はそのまま口の中の物をかみしめてしまった。その瞬間、甘みが口の中に広がる。それはどうしてなのか、と支えを失って落ちそうになった物を掌で受け止めた。 「……かえる……」 頭の一部は既に悟空の口の中に消えているとは言え、その特徴的な形を間違えるはずがない。 「悪趣味と可愛いのすれすれだな、それは」 まぁ、味の方は良さそうだが……と金蝉は微かな笑みと共に言葉をつづった。 「と言うわけで、残りも喰ってしまえ。腹が苦しくなれば、馬鹿な考えも消えるだろうよ」 悟空の不安は、全て空腹のせいだ、と金蝉は言い切る。その口調は悟空にそれ以上の疑問を許してくれないものだ。 「……うん……」 彼がここまで言う以上、間違っているのは自分の方だろう……と悟空は判断する。まだ胸の中にもやもやは残っているが、それもおなかがふくれれば消えてしまうだろう……と思いつつ、手の中のかえるをおなかの中に納める。 「……金蝉は? お茶、飲む?」 ものすごい表情でひよこと思える饅頭を食べていた金蝉に、悟空はこう問いかけた。 「……できるのか?」 「たぶん。この前、ケン兄ちゃんに教わった」 その時はちゃんとできたから、と悟空が笑ってみせれば、金蝉も納得したらしい。 「あいつなら確実か……だが、何も壊すなよ?」 「うん」 言葉と共に悟空は駆け出していく。それでも真夜中だと言うことを一応気にしてか、足音はできるだけ立てないように注意はしていたが…… そして、二人分のお茶を淹れて戻ってきたとき、悟空は自分が不安だった理由を忘れていた。 「あ〜〜! パンダは俺が喰おうと思っていたのに!」 金蝉の手の中に取り上げられた饅頭を見て悟空が叫ぶ。 「うるさい!」 その瞬間、悟空の頭に金蝉の拳が振ってくる。 「饅頭なんか、どれでも同じだろうが!」 こう言いながらも、金蝉は悟空の手の中にそれを落としてくれた。そして、代わりというようにワニらしきものを取り上げる。 手の中のものを見つめながら、悟空はこの時間がいつまでも続けばいいと思っていた。 悟空があの夢を思い出したのはそれからしばらくしてのこと。 目の前で、大切な人たちが一人、また一人と命を失っていくときだった。 しかし、その思いもまた、すぐに取り上げられてしまった…… 自分の手は何も掴めない。 自分の手は何も救えない。 ただ、こうして土を削りその小さな体を大地の中に返してやるだけ。 悟空はそう思いながら、友人だった小鳥の上に土をかけてやる。その最中、何気なく自分の掌を見つめた。土で汚れた手が、何故か《血》に濡れているように見える。 「……あっ……」 それと同じ光景を見たのは一体いつだったろうか。 思い出そうとしてもできない。 それでも、何故か激しい喪失感と慚愧を感じてしまう。 「・・・・」 唇が、声にならない言葉をつづる。それを耳にすることは誰にもできなかったが。 そんな彼の様子を、月だけが変わることなく見つめていた。 終 マメ吉様からのリクエストで『金蝉と悟空の天界でのほのぼの系で、その先にある別れがそこに切なさスパイス!!』と言う話を書く予定が……なんか痛いだけの話になったような……このようなものでよかったでしょうか……(^_^; |