「……おい、いないのか?」
 決して広いとは言えない病室を見回しながら、金蝉は言葉を口にする。だが、その姿はもちろん、答えも返ってこない。
「怪我の手当をしないと、腕が腐るぞ」
 さらにこう重ねた。
 もちろん、これは脅しではない。
 あの子供の怪我は、それだけ厄介なのだ。
 保護されるまでにろくな手当をされていないどころか、さらに不潔にされていたのだろう。雑菌が入って傷口が腐りかけていたのだ。
 ここに連れてこられてから、何とか最初の治療はしたものの、消毒や包帯の交換がなかなか出来ない状況なのだ。それは、肝心の患者が人の気配を感じると隠れてしまうせいだったりする。
「怒らないから、早く出てこい」
 それでも、金蝉はまだましだと言っていい。
 他の者がこの部屋に足を踏み入れたときは、ここが三階であるにもかかわらず窓から逃げ出そうとしたのだ。
 それは、彼が患者を怒鳴りつけたからであろう。
 患者のトラウマを思い切り刺激してしまったのだ。
「包帯を変えたらな。今日もいいものをやるよ」
 もっとも、金蝉にしても気が長い方ではない。それでも、あの傷つきまくった子供を見てしまえば怒鳴れるわけはないだろう。
「俺以外は誰もいない。だから、出てこいって」
 さらにこう付け加えたときだ。ようやくベッドの影から小さな頭が現れる。だが、直ぐに金蝉の側によっては来ない。大きな双眸が慎重に周囲を見回していた。
 ようやく納得したのだろう。
 子供はベッドによじ登る。そして、そのままその上に腰を下ろした。
「いい子だ」
 口元に笑みを浮かべると金蝉はゆっくりとした動きでその子供に歩み寄っていく。
「触るぞ?」
 触れられることを怖がっている子供に向かってこう宣言をしてから、金蝉は手を伸ばす。そうすれば、彼の動きを助けようとするかのように、子供も手を挙げた。
「ありがとう」
 何気なくこう言えば、子供は信じられないと言うように目を丸くする。
「……どうして?」
 そして、蚊が鳴くような声でこう問いかけてきた。
 金蝉は、その事実に驚いてしまう。この子供がこんな風に声をかけてくることはなかったのだ。
「どうしてって当たり前のことだろう? お前は、俺がやりやすいようにしてくれているんだから、礼を言うのは普通のことだ」
 こう言いながらも金蝉はこの子供にとっては普通ではなかったんだろう、と推測をする。
 この子供を虐待していた連中にとっては、子供がこうするのは当然。少しでも気に入らなければ虐待をする口実にしていたのだろう。
 そのせいで、体だけではなく心にも傷を負ってしまったこの子供をどうすれば癒してあげられるだろうか。
 医師としてではなく、人間としてこう考えてしまう。
「お前はいい子だからな」
 だから、安心していい……と金蝉は付け加える。
「……そう言えば、お前の名前を、まだ聞いていなかったな」
 教えてもらえるか、と金蝉はさりげなく口にした。
 それに子供はどうしようか……というように小首をかしげる。
「名前を教えてもらわないと、呼んでやれないからな」
 微笑みと共に金蝉はさらに言葉を重ねた。そうすれば、子供はますます悩んでしまう。
「……ごくう……」
 それでも、ぽつり、とこう言ってくれる。
「そうか。ごくうか」
 いい名前だな、と金蝉は笑う。そう言えば子供は初めて笑みを浮かべてくれた。