朝の事件


 隼寺の朝は早い。
 それは、寺院としては普通の事なのだが……住職である光明とその跡継ぎである三蔵だけではなく、男所帯の家事を一手に引き受けている八戒の朝もまた早いのだ。
 理由は簡単。
 今、この家には食い盛りとも言える者が八戒も含めて三人いる。もっとも、その中の一人、悟空に関しては、最近ようやく人並みに食べられるようになってきたばかりで、それを喜んでいない者は誰もいない。むしろ、もっと食べさせたいと思うほどなのだ。問題なのは最後の一人だったりする。
「……今朝は……帰ってきているのでしょうかね、あの人は」
 まだ高校生だというのに、平然と朝帰りを繰り返す彼は、食事に間に合わない事も多々あるのだ。
 残った食事に関しては、光明と悟空の昼御飯に回す、と言う事も出来る。出来るが、彼らの食事を管理している身としては同じ献立を二回続けて出したくないのだ。
「……ともかく、あの人の事は脇においておきましょう。いざとなれば、責任をとってお弁当に食べてもらえばいいのですし」
 それよりも、悟空の食欲が落ちないような献立を考えるほうが重要だろう……と言いながら、八戒はキッチンへと向かう。
「悟空がパンよりもご飯を好きで良かったですよ」
 光明が和食党だから、朝はご飯方が喜ばれるのだ。ついでに言えば、八戒にしてもそんな彼から料理を教わったせいでどちらかというと和食の方が得意だったりするし……と口にしながら、八戒は冷蔵庫のドアを開け、中を覗き込む。
「まだ、イワシが残っていましたか……これは食べてしまわないとダメですね……梅煮か、それとも塩焼きか……」
 それに、おひたしと漬物、それに悟空の為に甘い玉子焼きでも作りましょうか……
 節をつけた声でこう口にしながら、八戒は朝食の準備を始めた。

 そのころ、光明と三蔵は、朝の勤行を終えていた。
「さて……今日ですが……」
「俺は二限から授業です。その後はバイトがありますが?」
 手早く三蔵は光明に自分の予定を告げる。
「そうですか。では、近所の散歩だけで止めておきましょう」
 悟空を外に連れ出す事が必要だ。しかし、決して無理をさせてはいけない。
 三蔵が一緒であれば、多少の我慢が聞く悟空だが、他の者ではダメなのだ、と言う事を彼らはよく知っている。
「すみません」
「いえ、謝る必要はありませんよ。貴方がアルバイトをしていたのは、悟空を引き取る前からですしね。それに、悟空にしても、いつまでも貴方に頼るわけにはいかないんですから」
 少しずつ、慣れていかなければならないのだ、と光明は微笑む。
「それに、ようやく近所であれば私と散歩にでてくれるようになりましたからね。かなりの進歩だ、と言っていいでしょう?」
 この調子で、少しずつ自分の信頼も増していってもらわなければならないのだ、と光明は笑う。三蔵にだけなつかれるのはしゃくにさわる、と。
「父さん」
 そんな事で、自分に敵愾心を持たないで欲しい……と三蔵はため息をつく。悟空はちゃんと光明達にもなついているではないか、と三蔵には見えるのだ。
「いいじゃないですか。あんな可愛らしい子を引き取ったのは初めてなんですから」
 貴方の時以来の楽しみなのだ、と光明は笑う。
「……八戒にだけは今のセリフを聞かれないようにしてくださいよ」
 ため息とともに三蔵がこう吐き出す。本人が自覚しているという事実と、それを他人から指摘される、と言う事はまた別問題なのだから。
「もちろんですよ。おいしいご飯が食べられなくなるのは嫌ですからねぇ」
 そういう問題でもない様な気がするのだが……と三蔵はため息をつく。しかし、それを指摘するの面倒だ……と彼は早々にさじを投げる事にしたのだった。

 その頃悟空は……と言うと、まだ眠りの中にいた。
 最初の頃は三蔵達と一緒は無理でも、八戒と同じ時間には起きるようにしていたのだ。しかし、そうするとお昼ぐらいに眠気が襲ってくる。そのまま、昼寝をすれば、たまに昼御飯を食べ損ねてしまって、後々大変になってしまう……と言う事も多々あったのだ。
 それでは、悟空のためにはならない。
 悟空はこれから大きくなるのだから、と言う周囲の言葉で、三蔵か八戒が起こしに来るまで眠っている、と言う事になったのだった。
 というわけで、今日もいつものようにベッドの中でぬくぬくと安眠をむさぼっていたのだが……
「……ん?」
 だが、今日はいつもとなんか違う。
 そう思った瞬間、悟空の意識は覚醒へと向かっていく。そうすれば、自分が誰かにしっかりと抱きしめられている、と言う事実がわかった。
「だれ?」
 ここに引き取られたときは、良く、夜中にうなされていたせいで、三蔵が一緒に寝てくれる事があった。しかし、最近はそんな事はなくなっていたはずだし……第一、夕べは一人で寝たはずだ……と思う。
 それよりも、何か温かいところと寒いところに差があるような気がしてならない。
 どうしてなのか、と悟空はぼんやりとした頭で考える。ひょっとして、おねしょをしてしまったのだろうか……と思いながら無理やり目を開ける。
 その瞬間だった。
 目の前に見慣れてきた赤い髪が広がっている。と言う事は今、同じ布団の中にいるのは悟浄なのだろう。
 それはいい。そう言っていいのかどうかはわからないが、あるいは彼が寝ぼけて自分のベッドに潜り込んできただけ、と言う可能性もあるから。
 問題なのは自分も彼も、どうやら裸らしい、と言う事実である。
「な、なんでぇ!」
 その事実に気づいた瞬間、悟空は思わずそう叫んでいた。

 悟空の叫びは、着替えに戻ってきた三蔵達の耳に届く。もちろんそれは、キッチンに板八戒の耳にも届いたらしい。彼が慌てて飛び出してくるのが三蔵にも見えた。
「今の、悟空ですよね?」
 何かあったのですか……と彼は問いかけてくる。
「わからんん……俺達も、今、本堂から戻ってきたところだ」
 そう言葉を返しながら、三蔵は足早に悟空の部屋に向かって歩きだす。もちろん、八戒や光明も一緒にだ。
「悟空! 入るぞ」
 怒鳴るようにこう言うと、三蔵は遠慮せずに悟空の部屋のドアを開ける。その瞬間、目の前に飛び込んできた光景に、三蔵だけではなく他の二人も呆然としてしまう。
「……さんぞー……」
 そんな彼らの耳に、悟空の泣きそうな声が届いた。
 それが引き金になったのか。
「何をしていやがる! この、不良息子!」
 この怒鳴り声とともに、一足飛びに悟空のベッドまで歩み寄った三蔵が、悟浄を蹴り落とす。
 しかし、相手もしぶといと言うべきか何と言うべきか。しっかりと毛布を掴んだまま転がり落ちていく。
 そうすれば、いつのまにか裸になっていた悟空の身体があらわになってしまう。
「風邪を引いてしまいますね」
 そんな彼の肩に、八戒が自分が着ていたカーディガンをかけてやる。
「……八戒ぃ……」
 そんな八戒に、悟空がすがりついてきた。
「大丈夫ですよ、悟空。あの馬鹿にはしっかりと言い聞かせておきますから」
 よくよく見れば、夕べ悟空に着せたパジャマが周囲に散らばっている。と言う事は悟浄が寝ぼけて脱がせたに決まっているのだ。どんな夢を見ていたにしても、これは許せない、と年長組は思う。
「俺、赤ちゃんできちゃうの?」
 そんな彼らの怒りをかき立てるかのようなセリフが、悟空の口からこぼれ落ちる。
「……悟空……身体がどこかいたいのですか?」
 慌てたように光明が問いかけた。そうすれば、悟空は首を横に振って見せる。つまり、いくらなんでもそこまでの事は起こっていなかった、と言う事だろう……と三人は胸をなでおろす。
「どうしてそう思ったのですか?」
 できるだけ優しい口調で八戒が問いかける。
「だって……菩薩のおばちゃんが言ってたよ。同じベッドに裸で寝てると、赤ちゃんが出来るんだって」
 だから、俺、赤ちゃん出来ちゃうのかなぁと悟空は付け加える。
 悟浄の一件だけでも厄介だというのに、悟空に向かってこの事をどう説明をするかと考えるだけで頭が痛くなってしまう。
「それもこれも……ここでまだ惰眠をむさぼっている奴のせいだ!」
 さっさと起きやがれ! と三蔵は悟浄を蹴りつける。
「三蔵……起きる前に永眠させないでくださいね。でないと、お小言を言ってやれませんから」
 と光明もにこやかな表情で怖いセリフを口にした。
「当分、ご飯抜きですね、悟浄は」
 もちろん、小遣いも差し押さえだ……と八戒も頷く。
 はっきり言って、このセリフを聞けば悟浄でなくても目を覚ましたくなくなるのではないだろうか。
 悟浄が目を覚ます気配は、まだまだ見られなかった。

「いいか、悟空。裸だろうとなんだろうと、男同士なら、一緒に寝ていても赤ちゃんはできない。だから、安心しろ」
 生殖の仕組みを教えても、悟空には理解できないだろう。それよりも、今一番心配している事だけを解消してやれば大丈夫なのではないか。
 そう判断をして、三蔵は悟空を膝の上に乗せたまま、こう囁いてやる。
「……本当?」
 悟空がそんな三蔵をすがるように見上げてきた。
「本当だ。ンな事になってたら、俺達はどうするんだよ? ガキの頃からよく一緒に寝てたんだぞ」
 誰かさんがおねしょをしてくれたおかげで、よく、すっぽんぽんで同じ布団にくるまっていたのだ、と言いながら、三蔵は悟空の頭を撫でてやる。
「でも、うちには赤ちゃんなんていないだろう?」
 な、と言えば、悟空はどうやらようやく納得したらしい。
「じゃ、俺、赤ちゃん、出来ないんだよな?」
「そうだ」
「良かった」
 ほっとした様子で、悟空が三蔵の胸にもたれかかってきた。どうやら、今の騒動で、決してあるとは言えない悟空の体力がつきてしまったらしい。
「……飯食ったら、また布団に戻っておけ」
 大学に行くまで付き合ってやるから……と言えば、悟空は小さく頷いて見せる。
「と言う事で、そっちの方は父さんに任せて、悟空に飯を食わせてやってくれ」
 まだ身体に毛布を巻き付けただけの悟浄にイヤミを言いまくっていた八戒に、三蔵はこう声をかけた。
「あ、はい。直ぐに用意しますね」
 イワシの梅煮とおひたしと玉子焼きの他に、海苔はいりますか? と八戒は打って変わった優しい口調で悟空に問いかけてくる。
「……海苔より、ふりかけが欲しいかも」
「はいはい。三蔵は?」
「普通でいい、普通で」
 三蔵の言葉に頷くと、八戒はそのままキッチンへと向かった。そして、直ぐにお盆に出来上がっていた料理を持って戻ってくる。
「お手伝い、する?」
 三蔵の膝の上から、悟空がこう聞いてきた。
「……そうですね、お箸を並べてくださいな」
 こう言うとき、いいです、と言わないのが八戒だ。悟空の様子を見て、彼に出来る事をすぐに口にしてくれる。それが嬉しいというように悟空は微笑むと、三蔵の膝の上から降りる。そして、お盆の上から4人分のお箸を取り上げて並べはじめる。
「悟浄の分は?」
「今日はお仕置きで抜きです」
 後で自分で勝手に食べますよ、彼は……と八戒が悟空に説明をした。
「……そうなの?」
 いいのか、と言うように悟空は三蔵を振り向く。
「躾けはしっかりとしておかないとな。また繰り返す。犬猫と同じだ」
 だから、今しっかりとたたき込んでおかなければならないのだ、と笑えば、わかったというように悟空は頷く。
「というわけで、貴方は着替えていらっしゃい」
 いつまでも見苦しい恰好をしているな、と光明が悟浄に言った。
「……俺が悪いのか、俺が……」
 部屋を間違えたのがそもそもの発端なのだ、と言う事と、無意識のうちに悟空のパジャマを脱がしてしまった……と言う事が問題なのだ、とどうやら、彼はまだ気づいていないらしい。
 さて、どうしてやろうか……と年長組が心の中で呟いていた事など、悟空と悟浄は気づいていないようだ。
「ともかく、食事にしましょう。悟空にはきちんとご飯を食べさせて上げないといけませんからね」
 光明が何かを含んでいるとわかる口調で、こう言う。
「そうだな。お前はもっと太って大きくならないといけないんだし」
 頑張って食えと、三蔵が悟空の頭を撫でてやった。
「ウン」
 返事とともに悟空が三蔵の隣に腰を下ろす。そうすれば、即座に八戒が彼の前にほかほかのご飯をよそってやった。
「いただきます」
 挨拶とともに悟空は箸を手にする。
 和やかな雰囲気での朝食がとりあえず始まった。

 その後、悟浄がどうなったのか……
 ともかく、それ以降、悟空の部屋へ迷い込む事がなくなった。
「……悟空への性教育……いつにしましょうねぇ」
「まだ、当分、いいんじゃないですか?」
「男と女でなければ赤ちゃんは出来ない、と理解しただけでもいい事にしませんか、今は」
 大人達の苦労がまだまだ続きそうなことは事実だった。


ちゃんちゃん