「……ねぇ、これ……」
 悟空がこう言いながら、光明のものへと歩み寄ってくる。
「忘れていったのですか」
 困りましたね……と光明もため息をつく。
「確か、今日、これが必要だって言ってたよね?」
 どうすんの、と悟空はさらに問いかけた。
「どうしましょうねぇ……とりあえず電話をかけてみましょうか」
 そうすれば、どうするか自分で判断をするでしょう……と光明は付け加える。
「うん」
 三蔵が判断するとわかれば、悟空にしてみても気が楽だ。それに、こういったと言うことは光明がかけてくれると言うことだろうと悟空は判断をする。
 以前よりは電話に慣れたとは言え、やはり、まだまだ受け答えに自信がないのだ。自分からはよほど切羽詰まらないと電話をかけたがらないのもまた事実だ。
 それでも、電話のベルが鳴っても逃げ出さなくなっただけではなく、何とか受話器を取って誰への用事かを聞けるようになっただけましだろう。
 そんなことを考えながら、光明は電話をかけようと手をのばしかけた。
 まるでタイミングを計っていたかのように、その瞬間、電話のベルが鳴る。
「おやおや」
 三蔵からでしょうか……と言いながら、光明は受話器を取った。
「はい、隼寺でございます」
 普段とまったく代わりのない口調で光明はこう言う。
 だが、次第に彼の表情が変化していった。
「……三蔵からじゃなかったんだ……」
 少し残念、とつぶやきながら、悟空は光明から離れて行く。
 そして、手にしてい紙袋をテーブルの上に置くと飲み物を取りにキッチンへと向かった。少し考えてから、冷蔵庫の中から八戒が出がけに用意してくれたお茶を取り出すと、光明と自分の二人分を用意をする。両手にコップを持って再びリビングへと戻っていった。
 どうやら、その間に光明は電話を終えていたらしい。
「お茶……飲む?」
 そんな彼に悟空は片方のコップをさしだした。
「ありがとうございます。悟空はいい子ですね」
 言葉とともに、光明は悟空のてからコップを受け取る。そして、一気に中身を飲み干した。
「しかし、困りましたね……実はこれから出かけなければならなくなってしまったのですよ」
 ほっと一息をついた後、光明はこう口にする。
「ところが、三蔵はあれが必要なのに、どうしても家には帰って来れないそうなんですね」
 こう言うときに限って悟浄も八戒も掴まらないし……と光明はため息をついてみせた。
「……あの……」
 悟空は嫌な予感におそわれる。
「悟空。いい子ですから、お使いに行ってきてくれませんか? 三蔵の大学まで」
 それを確認するよりも早く、光明が微笑みとともにこういった。
「む、無理だよ!」
 悟空は首を横にふるふると振りながら、即座にこう答える。
「大丈夫ですよ、悟空。コンビニに行って来るのと同じです」
 ただ、辿り着くまでがちょっとやっかいですけれど……と付け加える光明に、悟空は恨めしそうな表情を作った。
「だって、三蔵の大学って、電車に乗らないと行けないんでしょう? 無理だよ、俺……」
 電車に一人で乗ったことがないのに……と悟空は蒼白になっている。
「そんなに難しくありませんから。八戒達が通っている学校とは違って乗り換えはないし……駅までなら三蔵が来てくれると言っていましたし……」
 電車に乗って、降りる駅を間違えなければ大丈夫ですよ……と言われても、悟空は納得することができない。
 それどころか、その事実を考えただけで彼の体が小さく震えだしたほどだ。
「悟空。やればできることをやらないと言うのは卑怯なのですよ」
 そんな悟空に、珍しくも光明がきつい言葉を投げかける。
「……わかってんだけど……でも、怖い……」
 それに対し、悟空はこう言い返す。それが間違いなく彼の本心であろう。
「怖い怖いと逃げてばかりいては、いつまでも怖いままでしょう? 動物園の時と同じです。気にしなければ、気にならないものなのですよ」
 それに、これがないと三蔵が困るのですよ、と付け加えられれば、悟空としてもいつまでも『いやだ』と言っていられない。
 しかし、いつ、またパニックを起こしてしまうかわからないという思いも悟空の中にはあった。
「……もし……途中で動けなくなったら……」
 悟空はおそるおそるというようにこう問いかける。今までとは違って、前向きな意見のそれに、光明は優しい微笑みを浮かべた。
「その時は、仕方がないのでそこから三蔵に電話をかけなさい。きっと迎えに来てくれますよ」
 そのくらいはしてくれますよ、あの子は……と光明は付け加える。
「……電話……」
 果たして、外で電話をちゃんとかけられるだろうか、とか、その前に自分がちゃんと電話のあるところまでたどりつけられるだろうか……とか、悟空の中で不安がぐるぐると渦巻いている。
 そんな悟空の表情を見ていた光明が、何かに気がついたというようにチェストの引き出しを開けた。
「悟空」
 そう言いながら彼がさしだしたのは、携帯電話だった。しかし、三蔵達が使っているのと違って、ボタンが三つしかない。
「これなら、貴方でも使いやすいでしょう。1番のボタンがうちの電話に、2番が三蔵の携帯に、3番は八戒の携帯につながります。何かあったら、これで連絡を取れますよ」
 ほかにもこの携帯――正確にはPHSだが――には機能があるのだが、それは悟空自身には関係ないので今は説明しないことにする。
「と言うわけで、行ってきてくれますね?」
 手の中のそれに気を取られていた悟空は、無意識のうちに頷いてしまう。後からその事実を後悔しても、もう後の祭りだった。

「いいですか? これが電車賃です。で、こちらが三蔵の大学がある駅の名前。どうしても切符が買えなかったら、これを駅員さんに見せて、どうすればいいのか聞いてください。後は、駅に着いたらさっきの携帯で三蔵に連絡をいれればすぐに来てくれますから」
 一つ一つ説明をすると、光明はそれらをポシェットの中にいれた。そして、そのままひもを悟空の首にかけてやる。
「気をつけて行ってきてくださいね。でも、どうしても無理だと思ったら、遠慮しないで助けを求めなさい。貴方の年齢では、それはいけないことではないのですから」
 光明の言葉に、悟空は素直に頷いてみせる。だが、彼の表情は既に緊張でこわばっていた。
「失敗しても誰も怒りませんから……そんなに緊張をしないでください」
 一緒に行ってあげられれば一番いいのですけどね……と光明は付け加える。
「……行ってきます……」
 悟空は小さな声でこうつぶやくと玄関から出て行った。その背中はいつもよりも小さく思えるのは、光明の気のせいではないだろう。
「……これもまた愛の鞭と言うことで……」
 光明は光明で、複雑な表情でこうつぶやく。
「さて、それでも万が一のことを考えると手助けをしてあげる必要があるでしょうね……でなければ、もう二度と一人で出かけない……などと決意されそうですし……」
 そうさせないためには、それなりに自信をつけさせないと……と頷きながら、光明はリビングへと向かう。そして、電話へと手を伸ばした。
 一方、悟空は……というと、そんな光明の行動など知るよしもない。
 不安そうな表情で周囲を見回しながら駅へ向かって歩いている。駅前のコンビニまでは何度かお使いに行ったことがあるので、何とかなることはわかっていた。
 問題は、駅構内であろう。
「……何で、こんなに人がいるんだよ……」
 券売機の前に並んでいる人々を見た瞬間、悟空は思わずこうつぶやいてしまう。
 と言っても、それほど並んでいたわけではない。列の長さで言えば、以前行った動物園の方が何倍も長いであろう。しかし、あの時と違って今日は自分一人なのだ。それだけで悟空には精神的な圧迫があるのだろう。
 しかし、ここで帰るわけにはいかない。光明が出かけると行ったのに、悟空は鍵を受け取っていないのだ。帰っても家の中に入れない可能性があると今更ながら気がついてしまった。
 だったら、我慢をして三蔵の所まで行った方がいいだろう。
 悟空は自分に言い聞かせるように心の中でこうつぶやく。そして、こわばった表情のまま券売機へと歩み寄っていった。
「……えっと……」
 小さくつぶやきながら、悟空は券売機の上に書かれてある料金表を眺める。
「260円……でいいのかな?」
 こう言いながら、財布の中から小銭を取り出す。そして、切符を買うと改札口へと向かう。
「で、これをここにいれればいいんだよね……」
 自動改札の使い方は、以前八戒に教わった記憶がある。それを引っ張り出した悟空はおそるおそる機会に切符を通した。そして、自分もその後を追いかけるように、改札口を抜ける。
「切符を取り忘れていますよ」
 そのまま行き過ぎようとした悟空の耳に、こんな声が届いた。
「……あ、りがとうございます……」
 そう言いながら悟空が振り返れば、見知らぬ男の人が切符を指さしながら微笑んでいる。悟空は慌ててその切符を手に取ると、男の人に向かって頭を下げた。
「いいよ。よくある失敗だしね……」
 その人は微笑みながら、自動改札を抜ける。そして、そのまま、人混みの中に紛れていった。
「……最初から失敗しちゃった……」
 本当に俺、三蔵の所までたどりつけられるのだろうか……と悟空は小さくため息をつく。それでも、いつまでもこの場にぼうっとしているわけにはいかないだろうと判断をして、ホームへと移動をすることにした。
 もっとも、それがまた悟空には難問だったりする。
 行きたい場所の駅名がしっかりと書かれているわけではないのだ。
 これがホームが二つしかないような駅であれば、それでもまだましだったろう。しかし、この駅はいくつかの路線が分岐する乗り換えの駅でもあるのだ。
「……どこに行けばいいんだろう……」
 どこに行く路線なのか書かれてある言葉は読めても、その路線にどのような駅があるかまでは悟空にはわからない。
 最後の手段として、悟空はホームの柱に書かれてある路線図を確認して歩き始めた。
 それを何回か繰り返したところで、悟空はようやく光明に教えて貰った駅名が書いてあるホームへとたどり着く。それだけでもう悟空は疲れ始めていた。
 だが、まだここは序の口なのだ。
 これから電車に乗って目的地の駅まで行かなければならない。
 果たして無事につけるのかと次第に不安がふくらんでいく。
 悟空が小さくため息をついたとき、目の前に電車が滑り込んできた。周囲の人が乗り込むのにつられて、悟空も車内へと進んでいく。
 だが、自分の体を支える場所を彼が見つけ出す前に電車が発進してしまった。
「あっ……」
 その衝撃に耐えかねて、悟空の体は大きくバランスを崩してしまう。
「坊や、危ない!」
 言葉とともに誰かが悟空の体を支えてくれた。
「あっ……」
 それの事実に、悟空は目を丸くする。
「気をつけないとね。席が空いているから座りなさいな」
 悟空の耳に柔らかな声が届いた。ようやく相手が女性なのだと悟空は判断できる。
「すみません……」
 言葉とともに悟空は小さく頭を下げた。
「礼儀正しいのね」
 彼女は涼やかな笑い声をたてると、悟空の体をいすの方へと押しやる。そして、自分は手すりを掴んで、その前へと立つ。
「一人でどこに行くの?」
 優しい口調でこう問いかけられて、悟空はなんと言うべきか悩んでしまう。
「……忘れ物を届けに……に、いさんの大学まで……」
 ようやく悟空の口から出たのはこんな言葉だった。もっとも、三蔵を『兄さん』と呼んだのは、その方が説明をする内容が減ると言うことを今までの経験からわかっていたからだ。
「そうなの。偉いわね」
 こう言いながら、彼女は微笑んでみせる。同時にそれで好奇心が満足したらしい。声をかけられることがなくなった悟空はほっとしながら視線を窓の外へと向ける。
 建物が次々と流れていく光景はほんの少しだが悟空の気持ちを浮上させてくれた。
 だが、それも次の駅に着くまでである。
 人が増えて行くにつれて、悟空の心の中で不安――あるいは恐怖と言い換えてもいいかもしれない――がふくれあがっていった。
 目的地の駅まで着けば三蔵が迎えに来てくれるから……と悟空は自分に言い聞かせるように心の中で何度も繰り返す。
 いくつか駅を通り過ぎて、ようやく目的の駅まで後一つと言うところまで辿り着いた。
「……次だ……」
 悟空は小さくつぶやくと降りる準備を始める。預かってきた封筒を抱えていることを確認して、いすから立ち上がるとドアの側まで移動した。今度はバランスを崩さないようにと、しっかりと手すりに掴まる。
 やがて、電車がゆっくりと速度を落とし始めた。
 同時に、流れるようだった景色が次第にはっきりとしてくる。その結果、悟空の瞳には、様々な人の顔が映し出されるようになった。
(やっぱ、人が多いとこはいやだ……な)
 待っている人の視線が、すべて自分に向けられているわけではないとわかっては来ていた。しかし、それでも何を考えているかわからない人が側にいるというのは、気持ち悪いを通り越して、怖いと思ってしまう。それが、施設時代にいきなり暴力をふるわれたときの後遺症であるのは言うまでもないであろう。
 それでも、いつまでもこれに乗っているわけにはいかない。車内も悟空にとってはあまり居心地がいい場所とは言えないのだ。
 意を決すると、悟空はドアが開くと同時にホームへと飛び出す。そして人の流れのない場所へと体を滑り込ませた。そうしてからポシェットの中からPHSを取り出す。
「……えっと……2番だっけ……」
 そう言いながら、悟空はボタンを押してみる。発信音が響いていたかと思ったら、
『悟空か』
 待ち受けていたかのように三蔵の声が悟空の耳に届いた。
「……う、ん……」
 その勢いに気圧されるかのように悟空は小さく答えを返す。
『今どこだ?』
 少しだけ口調を和らげて、三蔵が問いかけてくる。
「駅のホーム……今、降りたとこ」
 悟空はその事実に少しだけ安堵の溜め息を吐き出しながら、答えた。
『そうか……そこから南口という方に出て、改札の前にあるマクドナルドの前にいろ。すぐに行くから』
 三蔵は矢継ぎ早にこう言ってくる。
「わかった。南口のマクドナルドの前……だよね」
 悟空は確認するように三蔵のセリフを繰り返した。
『あぁ……いやでも逃げ出すんじゃねぇぞ』
 こう念を押すと、三蔵は通話を終わらせる。用をなさなくなったPHSをポシェットにしまうと、悟空は出口を探して視線を左右させる。すぐに、悟空は南口を書かれた案内表示を見つけた。そして、その方向へ向かって小走りに歩き出す。
 5分も経たないうちに、悟空は言われた場所へとたどり着いていた。しかし、そこは予想以上に人通りが多い場所だった。
「……三蔵、早く来ないかな……」
 中には悟空にあからさまな視線を向けてくるものもいる。その視線に、悟空は思わず肩をすくめながらこんなセリフを口にした。
 しかし、いくら三蔵でも、空を飛んでくるわけではない。大学からここまでの移動時間というものはどうしても生じるのだ。それほど長くない時間とはいえ、悟空に取ってみれば苦痛な時間だった。
「悟空」
 だからであろうか。三蔵の顔を見た瞬間、悟空は思わず泣き出しそうになってしまう。
「悪かったな」
 そんな悟空の心情を察したのか、三蔵はこう言いながら彼の頭を撫でてやった。
「その書類を提出したら、なんでも好きなもん喰わしてやっから」
 ご褒美だ……と付け加えると、三蔵は悟空の手を取る。そして、再び大学の方へと歩き出した。

 おそらく行きだけで許容範囲を超えてしまったのだろう。三蔵に好きなものをおごって貰う前に、悟空は沈没してしまった。
 そんな悟空に仕方がないというようにため息をつくと、三蔵は彼の体を軽々と背負う。
 そして、そのまま帰路へと着いた。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
 家に帰ると同時に、光明がこう声をかけてくる。
「何とか無事に辿り着いたようですけど……そこでダウンをしてくれました」
 おとなしく寝かせた方がいいでしょうね……と三蔵は付け加えながら、悟空の体を光明へと渡す。
「そうですか……でも、初めて一人で行ったのですから仕方がありませんね」
 途中で逃げ帰ってきませんでしたし……と光明は微笑んでみせる。
「……お父さん……」
 その光明の笑顔の裏に、三蔵は気になるものを見つけてしまった。
「何ですか?」
「……今回のこと、仕組みましたね?」
 三蔵は悟空を起こさないように声を潜めながら、光明に問いかける。
「どうしてそんなことを思ったのですか?」
 もちろん、その程度でしっぽを出すような彼ではないことは重々承知の上だ。
「駅前に悟空を迎えに行ったとき、うちの檀家さんを数人見かけたのですが……あれはただの偶然でしょうか」
「……それは秘密です。大切なのは、悟空が一人で貴方の元まで辿り着いた……と言うことでしょう?」
 三蔵の問いかけに、光明は意味深な微笑みとともにこう言い返してきた。
「ともかく、今日は悟空のご褒美と言うことで、何かおいしいものでも取りましょうかね。八戒にも骨休めが必要でしょうし」
 その前に、悟空をお布団に寝かせてあげないといけませんね……といいながら、光明は奧へと歩いていく。
「……まぁ、悟空が今回のことで自信をつけて、一人で出歩けようになればいいのか……」
 三蔵は盛大なため息をつくと、自分に言い聞かせるようにこうつぶやいた。

 翌日から、大学構内で三蔵の隠し子騒動が勃発していたのだが、それはまた別の話であろう。