電話機が置かれているチェストの前に悟空はたたずんでいた。そして、手の中のメモを悟空は何度も開いたりたたんだりしている。 「悟空。そんなことをしていても電話はかかってくれませんよ」 そんな悟空をおもしろそうに眺めていた光明が、こう声をかけた。 「……でも……」 悟空は困ったような表情で光明を振り返る。どうやら、本当にかけてもいいのかどうか悩んでいるらしい。その悩みの根底には、電話に対する恐怖もあるのだろう。それを何とかしなければいけないと光明は判断をする。 (その第一歩としてはいい機会だと思うのですけどね) 行動を起こすために乗り越えなければならないハードルが高いと言うところだろう。 「大丈夫ですよ。三蔵がいいと言ったのですから、迷惑だとは思わないでしょう」 かけても怒られません……と光明は付け加える。 その言葉に少しだけ励まされたのだろうか。悟空はおそるおそるという様子で電話へと手を伸ばす。 しかし、タイミングがいいのか悪いのか。 悟空の指が受話器を持ち上げようとした瞬間、電話機が自己主張を始めてしまった。 次の瞬間、まるで何かに驚いた子猫のように、悟空は大きく後ろへと飛び跳ねる。 「おやおや……」 悟空の過剰なまでの反応に苦笑を浮かべつつ、光明は腰を上げた。そして、そのまま電話へと歩み寄ると受話器を持ち上げる。 「はい、隼寺ですが」 そしていつものように穏やかな口調でこう言った。だが、彼の耳に届いたのは檀家の人の声ではなかった。 『……悟空はいますか?』 何と言っていいのかわからない複雑な口調で三蔵がこう問いかけてくる。 「いますよ。今、貴方に電話をかけさせるところだったのですが……」 先に駆けてきては意味がないでしょう……と光明は苦笑を浮かべた。 「あの子の場合、『電話』にかなり抵抗があるとわかっているでしょう?」 正確に言えば、電話に『も』抵抗があるのだが、それを指摘するのは悟空のためにならないと光明は心の中で付け加える。 『いえ……そう言うことではなくて……ちょっとこれからしばらく電話を受けられなくなるので、かけるなら3時以降にしてくれと……』 言おうと思っただけだ……と三蔵は伝えてきた。そのセリフに、光明は自分が勇み足をしてしまったのだと判断をする。 「そうですか。わかりました……ところで、今、まだ時間はありますか?」 光明がふっと何かに気がついた……というように三蔵に問いかけた。 『数分でよければ』 こういう時の光明に逆らわない方がいいことは重々承知している三蔵は、素直に言葉を返す。 「わかりました。悟空、三蔵からですよ」 光明は振り返ると部屋の隅まで逃げてしまった悟空を手招く。それに悟空はおずおずと近寄ってきた。その手に光明は受話器を渡す。 「あまり時間がないそうですので、早くね」 さらにこう言われて、悟空は困ったような表情を作った。だが、相手が三蔵だからだろうか。受話器を耳元へと当てる。 「……三蔵……あの……」 とっさに何か言わないといけないと判断したのだろうが、言葉がうまく出てこないようだ。 『話したいことはゆっくりと考えておけ。3時までは電話にでれないからな。時間は十分あるだろう? あぁ、なんなら喰いたいもんでも探しておけ』 帰りに買ってってやるからというと、三蔵は通話を終わらせた。悟空の耳にツーッツーッと無機質な音が伝わってくる。 その音はどうしても好きになれないな……と思いつつ、悟空は受話器を戻した。 「……顔を見て話す方がいいんだけどな……」 その時、無意識のうちに悟空はこうつぶやいてしまう。 「それが電話が嫌いな理由ですか?」 だが、悟空のつぶやきはしっかりと光明の耳に入っていたらしい。こう聞き返されて、悟空は初めて自分が心の中のセリフを口にしてしまったのだとわかった。 「悟空?」 固まってしまった悟空に、光明は言葉を促すように再び声をかける。 「……だって、顔が見えないと、どんな表情をして話しているのかわかんないから……」 悟空はしばらく考えた後にこう口にした。 「そうですね」 三蔵を見ていればよくわかると苦笑を浮かべつつ光明は頷いてみせる。彼の場合、声と感情が連結していないことが多いのだ。かすかな表情の違いで感情を推測していた日々のことを光明は思い出してしまう。 (それと比べれば、悟空がきてからのあの子の表情は実にわかりやすいですね) はっきり言って、光明ですら三蔵があれほど感情豊かだとは思っていなかったのだ。八戒と悟浄をそれぞれ引き取ってきたときですら、淡々とした態度を崩さなかった。 だが、悟空がきてからというもの、怒鳴る――これは悟浄がきてからだったかもしれない――笑うと言った普段とは違った表情がそこここで見られた。そして、それに比例するように悟空の表情も豊かになっていく。 二人が出逢ったことによって、何か忘れられていた歯車が動き始めたようだ。 「ですが、三蔵は貴方には嘘を言いませんでしょう?」 そんな二人をもっと成長させてやりたいと思いつつ、光明はこう話しかける。この言葉に、悟空は素直に頷いて見せた。 「ですから、三蔵相手ならそんなに心配をしなくても大丈夫ですよ。三蔵に連絡が取れるようになったら、今度は八戒にも協力して貰いましょう。そうして少しずつ慣れていけばいいのです」 焦る必要はないのだと光明は付け加える。 「……でも……」 「いいのですよ。貴方は他の人たちが何年もかかって身につけてきたことをこれから身につけていかなければならないのですから。ですから、少々ゆっくりでもかまわないのです。それに関して文句を言う相手の方がおかしいと思っていいのですよ」 貴方は貴方なのですから……という光明の言葉を悟空はすべて理解できたわけではなかった。それでも、少しずつでも変わっていけばそれでいいのだと言われて、ほんの少しだけだが気持ちが楽になったような気がする。 「……おじさんがそう言うなら」 悟空はこういうとかすかに微笑んで見せた。 「悟空はいい子ですね」 そんな悟空の頭を光明は優しく撫でる。 「ところで、三蔵はなんと言っていたのですか?」 それを教えてもらえれば、後で電話をかけるときになんと言えばいいのか、今から一緒に考えられますよ……と光明は微笑んで見せた。 「食べたいものがあったらさがしておけって……後で買ってきてくれるって言ってた」 ほかにも何か話したいことも考えておけって言われたけど……と悟空は素直に口にする。 「そうですか。それでは、それについて一緒に考えてみますか? それとも一人でがんばってみますか?」 光明のこの問いかけに、悟空は小首をかしげた。自分一人でうまく考えられるかどうかを悩んでいるのだ。 「……一人じゃ無理かも……」 手伝ってくれると付け加えられて、光明はうれしそうな表情を作った。 「もちろんですよ」 そして大きく頷いてみせる。滅多に自分に向かってこんなセリフを言わない悟空であるだけに、光明の喜びも一塩のようだ。 「一つ一つゆっくりと整理しながら考えてみましょうね」 その前に座りましょう……と提案する光明に悟空も反対はしない。二人は再びリビングの真ん中に置かれた座卓の所へと移動をすると腰を下ろした。 「好きなものを買ってきてくれると言ったわけですね……では、まず悟空の好きな食べ物を並べてみましょうか?」 言葉とともに光明はメモ帳を取り出す。 「……好きな食べ物……って、俺、なんでも好きだけど……」 改めて考えてみると、嫌いなものを探した方が早いかもしれない……と悟空は付け加える。 「悟空はいい子ですからね。好き嫌いはしませんけど……でも、これなら毎日食べてもいいというものはありませんか?」 苦笑を浮かべつつ、光明は悟空の思考を誘導するような質問を口にした。この言葉に、悟空は思いきり考え込んでしまう。 「ご飯とおみそ汁は毎日食べても飽きないけど……それじゃだめなんだよな?」 いくらなんでも三蔵が買ってきてくれるわけないし……それにそれだったら八戒が作ってくれるものも十分おいしいのだ。 「……言い方を間違えましたね。毎日でも食べたいおやつはありませんか?」 食べ物と言えば、当然ご飯やおかずも入るのだ……という事実にようやく思い当たったというように光明は苦笑を浮かべながらこういう。 「おやつ?」 おやつで食べたいもの……と悟空は小さくつぶやいている。 「んっと……昨日食べたのはおいしかったけど……あれって売っているの?」 やがて何か思いついたのか、こう問いかけてきた。 「昨日のおやつ……と言いますと、ホットケーキでしたか……あれは八戒が作っているからおいしいので、お店で売っているのはあれほどおいしくないと思いますよ?」 なんか、隠し味があるそうですし……と光明は付け加える。 「そうなの? 俺、あれが普通なのかと思ってた……」 光明のセリフに、悟空はただでさえ大きな目をさらに丸くした。 「家で八戒が作っているおやつは、だいたいそうだそうですよ」 にっこりと微笑みながら『あの子は凝り性ですから』と光明は口にする。 「……じゃ、家で食べてるのはだめなんだ……」 悟空はかなり残念そうな口調でこうつぶやく。 「そう言うことになってしまいますね……」 おかげで、なかなか外食をする気にならないのだ……と今更ながら思い当たった光明である。 「お外で食べたものって、何かあったっけ?」 ここに来てからは、ほとんどおやつは八戒の手作りだ。そうでないものは、というと菩薩の差し入れや三蔵が買ってきてくれるものだけである。 「……あの、白くてふわふわの皮の中にお肉とかあんこが入っているのって、なんて言うんだっけ?」 悟空がふっと思い出したのが、この家に引き取られてからすぐの頃、三蔵が買ってきてくれたおやつだった。 「おわん型の……ですか?」 だが、光明にはすぐにイメージがわかなかったらしい。さらに情報を求めるかのようにこう問いかけてくる。 「うん。でもって、下になんか薄い紙がついていたと思うんだけど……」 悟空も改めて質問されると自信がなくなってしまうのだろう。最後の方は次第に声が小さくなってしまった。 「たぶん、中華まんだと思いますよ。確かにあれは八戒も作ってくれませんね」 作れと言えば作れるのだろうが、かなり手間がかかるのではないだろうか……と光明は苦笑を浮かべながら頷いてみせる。受験生である彼にそこまで要求するのは酷というものだろう。 「あれなら、三蔵、買ってきてくれるかな?」 光明がそんなことを考えているとは知らない悟空が、無邪気な口調でこう問いかけてきた。 「もちろんですよ。3時になったら自分で電話をかけて頼んでみてご覧なさい。喜んで買ってきてくれますよ」 微笑みながら、光明は確約する。それに悟空は微笑んで見せた。 だが、意欲と現実はやはりうまく連結しないようだ。 2時50分をすぎた頃から、悟空は落ち着かないというか、不安だというような表情を作り始める。 「悟空。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」 普通に話すことと同じです、と光明は悟空を落ち着かせるように声をかけた。 「……わかってんだけど……」 でも、やっぱり怖いのだ……と悟空は言外に告げる。 「そうは思っていても、やってみれば簡単だと思うことも多いのですよ。私にだまされたと思って、電話をかけてください」 ね、と光明に促されて、悟空はのろのろと電話の方へ移動をし始めた。そして、まるでいつ爆発するかわからないものを手にするかのように、受話器を取り上げる。 そのままおそるおそるというようにプッシュボタンを押し始めた。どうやら、何度も何度もメモを見ていたせいで、番号は暗記してしまったらしい。 そんな悟空を逃げ出さないかどうかと不安そうな視線で光明は見つめている。 室内が緊張とともに静まりかえる。 光明の耳にまで発信音が聞こえたほどだ。 『悟空か?』 それが途絶えると同時に、三蔵のこの声が悟空の耳に届く。 「えっと……あの……」 何でわかったのだろうか……と悟空はパニックに陥る。 『約束を守ったのは、偉いな。で、もう一つの方も覚えてるよな?』 見えなくても、そんな悟空の反応がわかっているのか。三蔵は優しい口調でこう問いかけてきた。 「えっと……んっと……」 三蔵が怒っていないのはわかったが、一度パニックになってしまった思考はすぐには戻らない。焦りのせいもあって、悟空の頭の中からは完全に先ほどの光明との会話は吹き飛んでしまっていた。 「中華まんでしょう?」 光明がとっさに助け船を出してやる。その瞬間、悟空はぱっとうれしそうな表情を作った。 「そうだった。あのね、中華まんって言うの、食べたいんだけど……」 ほっとした口調で悟空はこう告げる。 『中華まんっていっても、種類がたくさんあるぞ』 だが、次の問題が悟空の前に立ちふさがってしまう。 「えっと……えっと……お肉とタケノコが入っている奴……」 甘いのも好きだが、たまにはこんなものも食べたいと思ったのも事実だ。だが、こう口にしたのは、本当に無意識だった。 『って言うと、肉まんの方か……わかった。あぁ、父さんに替わってくれ』 三蔵の最後の一言に、悟空はほっとした表情を作る。そのまま光明の方へと視線を向けると、 「三蔵が替わってくれって」 受話器を差し出しながらこう告げた。 「はいはい。がんばりましたね」 受話器を受け取るのとは反対の手で、光明は悟空の頭を撫でる。それに、悟空はつかれたというような微笑みを浮かべて見せた。そして、そのまま窓の方へと移動していく。 「私ですが、何かありましたか?」 光明が電話線越しに三蔵と何かを話している。だが、今の悟空にはそれに耳を傾ける気力はなかった。 「電話って、疲れるものなんだ」 悟浄あたりが聞けば、たかだか電話で二言三言話しただけで何でそんなに疲れるんだと言われるだろう。だが、実際疲れているのだから仕方がない。 「でも、ちゃんと三蔵と話せたからいいか」 三蔵、おみやげ買ってきてくれるよな……とつぶやくと、悟空はそのままころんと畳の上に横になる。そのままいつしか眠ってしまった。 それからどれくらい時間が経っただろうか。 「いたっ!」 悟空は誰かに踏まれて目を覚ましてしまった。 「……悟浄……足元はちゃんと見て歩いてください」 寝ぼけ眼で周囲を見ていた悟空は、光明のセリフからそれが悟浄だと知る。視線を向ければ、確かにあの真っ赤な髪の毛が飛び込んできた。 「……悟浄の馬鹿……」 恨めしそうな瞳で、悟空は悟浄を見上げる。 「んなところで寝ている方が悪いんだろうが!」 即座に悟浄がこう言い返す。寝起きで機嫌が悪い悟空が、そのセリフに納得するわけがない。むっとした表情で悟浄につかみかかろうとした。 「おやおや。ちゃんとわかりやすいように布団を掛けておきましたのに……八戒だけではなく貴方にも眼鏡が必要ですか?」 だが、それよりも先に光明がのほほんとした口調で二人の間に割ってはいる。そんな彼の仕草に、悟浄は完全に毒気を抜かれてしまったようだった。 だが、悟空の方はそうはいかない。さらにむっとした表情で悟浄をにらみつけている。 「悟浄」 まずは言うことがあるでしょうと光明は無言のプレッシャーを彼に与えた。はっきり言って、その怖さは八戒の比ではない。この点が年長者二人ににそれぞれ受け継がれているのかと思うと同時、悟浄は自分がどうしてこうなのかと悩まずにはいられない。 「……悪かったな……」 渋々といった様子で、悟浄は悟空にこう声をかけた。それでようやく悟空は機嫌を直したらしい。今まで自分がかけていた布団をたたむと部屋の隅へと運んでいく。 「でも、どうしたわけ? いつもはんなところで昼寝なんてしねぇじゃん」 「いろいろとあったのですよ」 悟浄の問いかけに、悟空が答えるよりも早く光明がこう言葉を返す。にこやかなその言葉の裏には、それ以上質問をしないようにと言う言葉が見え隠れしている。 「……まぁ、お義父さんがそう言うなら……」 ひょっとして、このうちの中で一番立場が弱いのは自分なのかもしれない……と内心嘆きつつ、悟浄は頷いて見せた。 「でも、あの毛布は……」 「あぁ、私が持ってきたのですよ。起こすのがかわいそうだったのでね」 そう言えば、昔貴方は……と付け加えられて、悟浄は慌てて光明の口を塞ぐ。悟空にだけはばらされたくないことも山ほどあるのだ。 「おや、言って欲しくないのですか? では、黙っていてあげる代わりにお買い物に行ってきてくれますか?」 やはり、自分は虐げられているのかもしれない……と悟浄が盛大にため息をつく。 その時だった。 玄関から三蔵と八戒の声がする。どうやら、玄関のところで顔を合わせたらしい。 「三蔵! 八戒もおかえり!」 それを耳にした瞬間、悟空がうれしそうな表情でこう言いながら廊下へと飛び出していった。 「ずいぶんな差じゃねぇ?」 そんな悟空の様子に、悟浄は盛大なため息をついてしまう。 「今日は特別ですから」 光明がこういうと同時に、手に紙袋を抱えた悟空が他の二人と一緒に戻ってくる。 「お、いいもんもってんじゃん」 紙袋の中身に気がついた悟浄が、当然のように手を伸ばそうとした。 「だめ!」 悟空が慌ててそれを隠そうとする。同時に、三蔵の肘が悟浄の後頭部に落ちた。 「これは今日のご褒美だから、悟空のだ。てめぇは喰いたければ、自分で買ってこい」 痛みにうずくまっている悟浄の頭の上に三蔵の声が降り注ぐ。 「今日、悟空はものすごくがんばったんですってね」 一方で、八戒の柔らかな声が追い打ちをかけるように悟浄の耳に届いた。 「……やっぱ、俺って虐げられている?」 悟浄がぼそっとつぶやく。 だが、それに答えてくれる者は誰もいなかった…… 終
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