電話が終わった瞬間、光明は盛大にため息をつく。
「……どうかしたの?」
 そんな彼の様子に、そばで計算の練習帳を開いて問題を解いていた悟空が声をかける。
「何でもありませんよ、とりあえず……それよりも終わりましたか?」
 こう言いながら、光明はいつものように微笑んで見せた。だが、その口元が微妙に引きつっていたのは悟空の見間違いではないだろう。
「んっと……これ、わかんない」
 だが、それを聞いてもうまくはぐらかされてしまうことはわかっている。だから、悟空は別の問題の方へと意識を移した。
 学校に通えるようになる前に年齢に応じた最低限の学力だけはつけさせたい……という光明の願いの元、悟空はあれこれ問題集をやっているのだが、どうしても算数だけは苦手なのだ。今も、わり算でてまどっている。
「どれですか?」
 その事実がわかっているから、光明もすぐに悟空のそばへと戻ってきた。
「これ」
 そう言いながら、悟空は問題の一つを指さす。
「あぁ、これはちょっと難しいかもしれませんね。でも、やり方は同じですよ。大きい方から順番に計算していけばいいのです」
 そうすると、今までのものと同じでしょう? と説明をする光明に、悟空は素直に頷いてみせる。そして、促されるまま隣に書かれてあった同じような問題に取りかかった。
「あぁ、今度は一人でちゃんとできましたね。悟空は物覚えがいいですよ」
 光明はこういうと、悟空の頭を撫でてやる。このぬくもりにもようやく慣れてきた悟空は目を細めてうれしそうな表情を作った。
「なぁ、なぁ……三蔵に見せたらほめてくれるかな?」
 そして、期待に満ちたまなざしをしながらこう問いかける。
「えぇ、きっと喜んでくれますよ」
 光明は優しい口調で答えを返す。
「でも、本当に悟空は三蔵が大好きですね。ちょっと妬けますよ」
 同じくらい、私も好きになってくださいね……と付け加える光明に、悟空は小首をかしげてみせる。
「だって、おじさんはおじさんで、三蔵は三蔵だろう?」
 どっちも大好きだよ、俺……と付け加える悟空の言葉には裏の意味などないだろう。ということは、三蔵と他の三人とを区別しているという自覚が悟空にはないということである。これ以上指摘しても悟空を困らせるだけだと光明は判断をした。
「そうですね。でも、いつかでかまいませんから『おじさん』ではなく『お父さん』と呼んでくださいね」
 それでも期待を込めてこう口にする。悟空が素直に頷いてくれるものだと思っていたのは言うまでもないだろう。
「……あのさ……三蔵たちがよく言ってるけど、『お父さん』って何?」
 しかし、悟空の口から出たのはこんなセリフだった。
「……悟空? ひょっとして『お母さん』という言葉も知らないとか……」
 光明のこの問いかけに、悟空は何のためらいもなく首を縦に振ってみせる。
「それは困りましたねぇ」
 いきなり突きつけられた現実に、光明は思わず盛大なため息をついてしまった。

「どうしたんだ、あれは……」
 バイトのせいで、帰るのが遅くなった三蔵が八戒に向かってこう問いかける。
「どうって……何がですか?」
 悟空の様子なのか、それとも光明の様子なのかと言外に八戒は聞き返した。
「父さんの様子だよ。何かものすごく疲れていないか?」
 第一、この部屋に今は悟空がいないだろうと三蔵は付け加える。
「……あのですね……悟空に『お父さん』と『お母さん』について説明をしたのだそうですよ……」
 僕が帰ってきたときも、延々とやっていました……と八戒は苦笑をしながら付け加えた。
「ってことは……悟空は『お父さん』と『お母さん』って言う言葉を知らなかったって言うのか?」
 さすがのことに三蔵も思わず唖然としてしまう。
「らしいですよ。というか、言葉は知っていてもその意味までは知らなかった……といった方が正しいようですけどね」
 でなければ、今までの僕たちの会話を耳にしていて、おかしいと思ったのではないですか、と八戒は付け加える。
「……マジで、あいつを育てた人間はどういう教育をしてきたんだ……」
 三蔵は思わずため息をついてしまった。
「本当、悟空の知識はある意味偏っていますからね。国語や社会はそこそこ理解しているのに、算数と理科は壊滅状態ですから」
 あるいは、家の中で与えられた本から得た知識なのかもしれないと八戒は付け加える。というのも、比較的ましな国語や社会にしても間違えて覚えている事柄もいくつか見られるのだ。
「まぁ、こうなったらきちんとたたき込むのが年長者の役目……ということだな」
 悟空の学力に関しては自分で責任を持つと言ったのはあの人だし……と三蔵は付け加える。
「そうですね。悟浄になってしまっては遅いですものね」
 それは問題が違うのではないだろうかと三蔵は苦笑を浮かべた。だが、確かにあれのまねをされては困るだろうという思いもある。
「それに関しては大丈夫だろう。エロ河童以外の目があるからな」
 第一、その手のことに関しては、まったく知識がないという状態なのだ。だから、悟浄があれこれ吹き込む前に正しい知識を与えてしまえばいいだけだと三蔵は判断している。そして、今の状況であれば十分それが可能であろう。
「ようは二人きりになる時間を作らせなければいいだけですし」
 八戒も納得したらしい。にっこりと微笑むと頷いてみせる。
「……おや、帰っていたのですか?」
 その時、ようやく三蔵の存在に気がついたらしい光明が、いつもの口調でこう言ってきた。
「帰ってきたのか、じゃねぇだろう……」
 ったく、今まであれだけしゃべっていたのに気がつかなかったのか……と三蔵は思わずため息をついてしまう。
「貴方が帰ってきたら、相談しなければ……と思っていたことがありましたのでね」
 だが、そんな三蔵の様子を無視して彼はこう口にする。
「何なんですか?」
 それはある意味いつものことだ。三蔵はあきらめたかのようにこう聞き返す。
「日曜日、悟空を連れて外出してくれる気はありませんか?」
 疲れた微笑みを浮かべながら、光明が言葉を口にした。
「はっ?」
 予想もしていなかったこのセリフに、三蔵は思わずこんな声を上げてしまう。その彼の隣で、八戒も不審そうな表情を浮かべている。
「烏哭君が来ると連絡があったのですよ。まさか正攻法を使われるとは思っていなかったので、反射的にOKをしてしまいましたが……どう考えてもまだ彼に悟空を会わせない方がいいのではないかと……」
 三蔵の視線が険しくなるのと比例するかのように光明の声は小さくなっていく。
「そういうことは、後で都合を聞いてから返事をすると言ってくれ……といつも言っているだろうが」
 光明が口を閉じたのを確認して、三蔵はため息混じりにこう言い返す。
「ついでに言えば、俺は日曜、バイトが入っている」
 悟空を連れて行くのは不可能だ……と付け加える三蔵に、光明は困ったという表情を作った。
「日曜日と言えば、僕は模試の日ですね」
 さらに追い打ちをかけるように八戒がこう口にする。
「本当ですか?」
 光明が本気でしまったという表情を作るとこう聞き返した。
「えぇ、事前にちゃんと報告していましたよね」
 まさか忘れていたのですか、と八戒は付け加える。その瞬間光明がさりげなく視線を泳がせたところから、その言葉が図星だったのだとわかった。
「って事は何だ? 家に残るのは父さんと悟浄と悟空ってことか」
 それは思い切りまずいだろうと三蔵は口の中でつぶやく。その隣では八戒も盛大にため息をついていた。
「悟浄じゃ、全然押さえになりませんしね……」
 それどころか間違いなく烏哭のおもちゃになってしまうだろう。
「ったく……どうするか、だな……」
 悟空をそんな場所に残しておくのはまずいだろう。しかし、自分たちも身動きはできない状況だし……と思ったときだった。ふっとある事実に三蔵は気がつく。
「八戒」
「何ですか?」
 三蔵の問いかけに、八戒は言葉を返す。
「お前の模試は何時に終わる?」
「……今回は三教科だけですので……午前中には終わりますが……」
 三蔵が何故こんなことを聞いてくるのか今ひとつわからないまま八戒は答える。
「……俺のバイトが2時からだから……何とか途中交代できるか」
 だが、三蔵のこのセリフで何を考えているかわかったらしい。
「それなら十分ですね。1時までには帰ってくるつもりですから」
 悟空にお昼を食べさせないといけませんし……と付け加える八戒が、悟空においしいものを食べさせるのを最近の楽しみにしていると言うことは、三蔵も知っていた。しかし、まさかこれほどまでだとは……と苦笑を浮かべる。
「俺の分はいいぞ。お前が帰ってきたら即出るから」
 その分、悟空に喰わせろと言うあたり、どっちもどっちだろうと光明は思う。だがそれを口にして、二人に機嫌を損ねられては困ると判断したのか、あえてコメントをつけなかった。
「ただいま」
 ようやく近くのコンビニ程度には一人で行けるようになった悟空が、勢いよく飛び込んでくる。しかし、その目的地はお使いを頼んだ光明ではなく三蔵の背中だった。その事実が別の意味で光明を落ち込ませる。
「あのね……」
 そして、悟空の口から出る報告に、すぐに三蔵がうんざりしてしまったこともまた事実だった。
 だが、悟空にしてみれば三蔵に話してしまいたいらしい。
「……そうか、がんばったな……」
 三蔵はともかく悟空のセリフを止めようとこう口にする。だが、その一言が悟空は欲しかったらしい。
「えへへへっ……三蔵にほめられちゃった……」
 うれしそうに微笑むとこういったのだった。
「……愛されてますね、三蔵」
 何と言っていいのかわからないという表情で八戒がこう言えば、そばで光明も頷いてみせる。これには返す言葉もない三蔵だった。

 そして、日曜日の朝である。
「今日、烏哭がくるんだとよ。責任もってあいつの面倒を見ろよ」
 ようやく起きてきた悟浄に向かって三蔵がこう宣言をした。
「マジ? 何で今になって言うんだよ……」
 事前にわかっていればとっとと逃げ出していたのに……と悟浄は付け加える。
「だから誰も言わなかったにまっているだろうが……悟空の負担を軽くするためだ。あきらめろ」
 八戒も、模試が終わり次第戻ってくると言っていたしな……と付け加えた瞬間、
「……俺も受ければよかった……」
 とつぶやいたのを、三蔵は聞き逃さなかった。
「まさしく後悔先に立たずだな……」
 こういうと同時にせせら笑う。むくれた悟浄が実力行使に出ようかとしたときだった。
「……悟浄、朝ご飯、喰うの?」
 キッチンの方からとことこと歩み出てきた悟空が、こう問いかけてくる。
「飯? お前がつくんのか?」
 まさかと思いつつも、光明や八戒があれこれ教えているのであればあり得ない話でもない……と思ってしまう悟浄だった。
「違うよ……八戒が作ってったから。レンジでチンなら俺でもできるし……」
 みそ汁を温めることもできるようになったと悟空は付け加える。もちろん、そのくらいは悟浄だってできる。だが、まじめな表情でそう言う悟空の様子がかわいくてついつい、
「じゃ、頼むわ」
 と言ってしまう。
「わかった!」
 悟空は大きく頷くとまたキッチンへと戻っていく。
「……確かに、あいつを直接会わせるわけにはいかないはな……」
 その後ろ姿を見送りながら悟浄がぽつりとつぶやいた。
「納得したなら、せいぜい防波堤になってやれ」
 これで決まりだな……と三蔵が唇をゆがめる。
「へぇへぇ……って、俺一人だけ?」
 それだけは勘弁して欲しいと悟浄はため息をつく。
「父さんと午前中は俺もつきあうしかねぇだろうな。午後からは八戒と交代するが」
 その前に帰ってくれれば一番いいかもしれないと思うが、今までのパターンからすればその可能性は少ないだろう。
「ともかく、悟空への被害だけは避けたいってことか」
 あの強烈な毒気に当てられたら、せっかく何とかなりかけてきた悟空の対人恐怖症が悪化してしまうだろうと、悟浄はため息をつく。
「あいつのあの人見知りが完全に直ってねぇ以上、自分からは近づかねぇとは思うがな」
 しかし、向こうからはちょっかいをかけられかねない――いや、絶対かけられる――と考えた瞬間、三蔵は頭痛を感じてしまう。
「用意できたよ。どこで食べるんだ?」
 そんな二人の会話など知らない悟空の無邪気な声がキッチンから響いてくる。それを耳にした瞬間、二人は顔を見合わせるとうなずきあった。
「そっちで喰う」
 と悟浄が言えば、
「コーヒー淹れるから、お湯沸かしとけ」
 と三蔵も付け加える。
「わかった」
 手伝いができるのがうれしいらしい悟空は、即座にこう言葉を返してきた。

 自宅用の玄関のチャイムが鳴ったのは、10時になるとほぼ同時だった。
「悟浄」
「わぁってるって」
 三蔵の言葉に、悟浄がさっさと立ち上がる。
「……三蔵……」
 二人の様子に不安を感じたのだろうか。悟空が三蔵にすり寄る。
「心配するんじゃねぇって」
「お客様がついただけでしょう。挨拶が終わったら、悟空は三蔵と一緒にお部屋に帰っていいですからね」
 三蔵だけではなく光明もこう言って悟空を安心させようとした。しかし、玄関の方から聞こえてくる悟浄の声がそれを否定しているらしい。悟空の表情はますますこわばってしまった。
「ったく……あのばかは……」
 どうせ、またからかわれたのだろう。それを聞き流せないあたり、悟浄もまだまだ子供だというのだ。と言っても、相手があの烏哭である以上、自分でも受け流せるかというとかなり問題だったが……
「様子を見てきます」
 三蔵は光明にこう断ると、腰を上げようとした。しかし、それを悟空の手が遮る。
「父さんがいるから大丈夫だろうが」
 そんな悟空の仕草に、三蔵はあきれればいいのかそれとも怒るべきなのか判断できないままこう言った。
「……やだ……」
 そばにいて欲しいと悟空は視線で訴える。どうやら悟浄の口調の厳しさを耳にして、かなり精神的に不安定になっているらしい。このまま突き放すと、後々やっかいなことになるのではないかと言うことは三蔵でもわかってしまった。
「仕方がありませんね。そのうち来ますから、それまで待っていましょう」
 にこやかな表情でこういうものの、実は光明が怒っていると言うことを三蔵は気がついてしまう。それが悟浄に対してなのか、それとも、烏哭たちに対してのものなのか……まではさすがの三蔵も判断できなかったが……
「……父さんがそう言うなら……」
 だが、今の悟空を放っておくのはまずい、と言うことは三蔵も同意見だ。仕方がなく、せっかく浮かせかけた腰を元の場所へと戻す。次の瞬間、悟空がしっかりと抱きついてきた。それは、初めてあったときのことを思い出させる行動である。
「仕方ねぇな」
 だが、このままではいざというときに動きにくい。不本意だという表情のまま、三蔵は自分の膝を叩いた。
「こっち来い」
 その瞬間、悟空がほっとしたような表情を作る。そして、ものすごいスピードで三蔵の膝の上に移動をすると抱きついた。
 それとほぼ時を同じくして、悟浄が客を案内してくる気配が廊下から伝わってくる。
「案内してきました」
 そして、やたらと疲れた表情の悟浄がふすまを開けるとこう言ってきた。
「お邪魔します。お久しぶりですね」
 その肩越しに、下卑た笑いを口元に浮かべた男の姿が見える……だけではなく、端正な顔の半分を髪の毛で覆い隠した青年の姿もあった。
「おや? 神君も来たのですか?」
 その姿を認めた光明がこう問いかければ、
「久々に悟浄君に会いたいと言ってきましたので……予定外とは思いましたがつれてきました」
 と言い返す。そのセリフは、ある意味普通なものなのだが、口調がどうしてか嫌悪感を与えるのだ。
「だそうだ、悟浄。ちゃんとお相手をしろよ」
 もう自分と悟空にさえ災難が降りかかってこなければいいとまで思い始めていた三蔵は、さっさと悟浄を人身御供に差し出すことにする。もちろん、本人の意思は関係なく、だ。
「……三蔵、てめぇ……」
「悟空に相手をさせるよりましだろう?」
 悟浄が当然のように反論してこようとするのを、三蔵はこのセリフで黙らせてしまう。実際、二人が来てからと言うもの、まるでニホンザルかチンパンジーの子供のようにしっかりと三蔵にしがみついている悟空を見ては、何も言えなくなるだろう。あるいは、三蔵の腹に大きなポケットがあったらカンガルーのように中に潜り込んでしまうかもしれないとまで思えるほどのおびえようだ。
「だからといって、俺が何で……」
 見かけはともかく、性格に難がある神の相手をさせられるのはごめんだと、悟浄はまだ口の中でつぶやいている。
「そりゃ、ご指名かかったからに決まっているだろう」
 さらりと言い返すと、三蔵は視線を光明たちの方へと移した。今までの会話は、どうやら彼らの耳には届いていないらしい。それにしても、烏哭たちを相手にしても、いつもの態度を崩さない光明はさすがだ……と三蔵が考えたときだった。
「で、この子が悟空君?」
 こう言いながら、烏哭が悟空の顔を覗き込もうとしてくる。それが嫌だったのだろう。悟空は三蔵の胸にしっかりと顔を埋めてしまった。
「おやおや……ひょっとしたらうちの子になっていたかもしれないのにねぇ」
 どうしてこうも警戒されるのだろうかと烏哭は首をひねっている。もっとも、三蔵や悟浄に言わせればこれは当然の反応だとも言えた。
「その子は人見知りが激しいと言いましたよね? いきなり声をかけられたせいで驚いてしまったのですよ」
 なおもじろじろと悟空を観察している烏哭に、光明が穏やかな口調で制詞の言葉を投げかける。
「一応、話は聞いていましたけどね……ここまでひどいとは思いませんでしたよ」
 そう言いながら悟空を見つめる視線は、たとえるなら実験動物を見つめるようなものだった。
(……まずいな……)
 その視線に悟空の体が小さく震え出したのが三蔵に伝わってくる。このままではせっかくよくなりかけた悟空の人見知りがまた元に戻ってしまうのではないだろうか。三蔵は思わず光明へと視線を向ける。
「悟空の具合が悪いのですか?」
 それだけで状況を察したのだろう。光明がさりげなく言葉を口にする。
「朝から熱っぽかったようですしね。三蔵、部屋で寝かせてあげてください。烏哭君、そう言うわけですから」
 悟空は部屋に下がらせます……と光明は言い切る。
「残念ですねぇ……是非とも、外界から切り離されて育った子供の精神構造というのを調べさせていただきたかったのに……やはり、無理をしてでも引き取るべきでしたか」
 もったいなかった……と付け加える烏哭を三蔵は蹴り飛ばしたい心境におそわれた。しかし、それを実行しないだけの理性がかろうじて残っている。それ以上に悟空の様子が心配だったと言う理由もあった。
「そう言うことですので」
 それでも怒りを隠しきれない口調で三蔵はこう告げると、悟空を抱えたまま立ち上がる。光明に視線で合図を送ると、そのまま廊下へと出て行く。
 後ろ手で三蔵がふすまを閉めると、悟空は心底安心したというように溜め息を一つついた。だが、まだ顔色はよくない。
「大丈夫か?」
 三蔵がこう声をかければ、悟空は小さく頷いてみせる。
「……三蔵、ごめん……」
 そして、小さな声でこう言った。
「何を謝ってんだ、てめぇは」
 謝らなきゃねぇ事はしてねぇだろうと付け加えると、三蔵は悟空の部屋の戸を足で開ける。そしてそのまままっすぐに悟空のベッドへと歩み寄った。
「それよりも、父さんが言ってたように一眠りした方がいいな。顔色が悪い。それに、寝ていれば、あいつらに会わなくてすむ理由になるぞ」
 三蔵のこの言葉に悟空は納得したようだ。素直に服を脱ぐと、ベッドの上にたたんでおいてあったパジャマへと着替え始める。
「三蔵……」
 それを確認して飲み物を取りに行こうとした三蔵の服の裾を悟空が掴む。
「どうした?」
「ここ、いて」
 すがるようなまなざしとともに悟空はこう告げてくる。どうやら、一人残されている間に何かあると思っているようだ。
「すぐ戻るから……心配するなって。父さんが相手をしてるんだし」
 悟空を安心させるようにこう言えば、仕方がないと判断したのか素直に手を離す。だが、さすがに長時間一人にしておける精神状態ではないと言うことが三蔵にもわかっていた。
(ったく……父さんの知り合いでなきゃ、たたき出してる所だぞ)
 悟空をこんなにおびえさせて……とつぶやきながら、三蔵はドアを開ける。
「げっ!」
 そこでまるで部屋の中の様子をうかがっていたような烏哭と視線が合ってしまう。
「やっ……やぁ……」
 憮然とした表情で自分をにらみつけている三蔵に、烏哭はとってつけたような微笑みを浮かべると、口を開く。
「トイレ、どこだったかな?」
 明らかに口実としか思えないこのセリフに、三蔵の視線がさらに剣呑なものへなっていく。
「トイレでしたら、反対側ですよ」
 無愛想などというものではない口調でこう言ったが早いか、三蔵は目の前のドアを勢いよく閉めてしまった。
「……三蔵、今の……」
 悟空が完全におびえているとわかる口調で呼びかけてくる。
「気にすんじゃねぇ。夢を見ただけだ」
 無視しろ、無視……と言いながら、三蔵は再び悟空の側へと戻ってきた。
「ともかく、寝ろ。顔色、マジで悪ぃぞ」
 そして、半ば強引に悟空を布団の中に押し込む。
「でも……」
「いいから寝ろ! 仕方がねぇから、見張っててやるから」
 この言葉に安心したのだろう。悟空はほっとしたような表情を作って瞳を閉じる。
 そして、やはり疲れていたのだろう。すぐに寝息がその唇からこぼれ落ちた。
「……やっぱ、かなりきてたか……」
 烏哭相手では仕方がないとは思いつつ――彼はどうしたわけか、存在だけで周囲に悪影響を与えてしまうのだ――もこんな悟空の姿はあまり見ていたくないと思ってしまう。というか、せっかく人慣れしたのに、これでは元の木阿弥に戻ってしまいかねないと三蔵は本気で思ってしまった。
「……ともかく、バトンタッチする前に八戒とよ〜く話し合っておかねぇとな」
 本格的な嫌がらせは光明に影響が出るだろうが、少しぐらいは収支返しをしてもかまわないだろう。三蔵はそう考えるとほくそ笑んだ。

 結局、悟空は八戒が帰ってきても目を覚まさなかった。
「……起こしとかねぇと、後々面倒だな」
 知らないうちに三蔵がバイトに行ってしまった……とわかったら、悟空のショックはさらに増大してしまうだろう。よく寝ているところを起こすのもかわいそうだが仕方がない……と三蔵は彼の体を揺り動かす。
「……な、に?」
 もう朝……とつぶやきながら、悟空は薄く目を開ける。
「バイトに行ってくる。後のことは八戒に頼んであるから、心配するな」
 ぼうっとしている悟空がどこまで理解できているか不安は残るが、バイトの時間ぎりぎりである以上、もう時間はとれない。
「何なら、夜まで寝てろ」
 そう言うと、三蔵は悟空の胸を軽く、二三度叩いた。そして、悟空と自分用の昼食を戻ってきた八戒と入れ違いに部屋から出て行く。
「悪ぃが、後を頼むぞ」
「わかっていますって」
 僕もちょっとキていますから……と付け加えつつ微笑んでみせる八戒の周囲に剣呑な空気が漂っていることに気づいて、三蔵も苦笑を浮かべた。
「と言うわけですので、悟空? どうしますか。お昼ご飯を食べます? それともまだ寝ていますか?」
 だが、それは悟空へ向けられることはない。
 八戒の豹変には気づかない様子で、悟空はぼうっとベッドの上から三蔵を見つめている。
「三蔵、行ってらっしゃい」
 それでも何とかこう口にした。それだけで、三蔵は悟空が自分のセリフを理解したことを知る。
「晩飯までには帰る」
 この言葉を残して、三蔵は部屋を出て行った。
「晩ご飯の前に、お昼ご飯はどうします?」
 食べた方がいいですよ……と付け加える八戒に、悟空は小さく頷く。
「食べる」
 そして、八戒の手からおにぎりを一つ受け取った。
「たくさんありますからね。でも、無理はしなくていいですよ」
 こう声をかけると、八戒も同じようにおにぎりに手を伸ばす。
「……八戒……」
 そして彼が今にもかじろうとした瞬間、悟空が声をかけてくる。
「どうしましたか?」
 優しい問いかけに、
「……あの、お水……」
 悟空はさらに小さな声でこう言った。
「お水ですか? お茶ならありますけど……いいですか?」
 八戒は言葉とともに、悟空に冷たい麦茶が入ったコップを手渡す。悟空は小さく例の言葉を口にすると、それを口に含んだ……

「……まだいやがったのか……」
 言葉通り夕食の時間帯に帰ってきた三蔵が、玄関にあるくつを見てこうぼやく。
「無視だな、無視」
 こうなったら、悟空と八戒を連れて外食に行くか……と三蔵はつぶやいた。そして、そのまま自室に向かおうとした彼の瞳に、靴箱の脇に置かれたあるものが飛び込んでくる。それは、逆さにしたほうきに手ぬぐいをかぶせたものだった。
「……八戒もきてんな」
 それが確か気に入らない客が早々に帰るようにさせるまじないだったはず。少なくとも外面だけはいい八戒――ここで悟浄と思わないのは、彼の場合もっと直接的な行動に出るからである――があからさまに『帰れ』と言っているのと同じ行動を取ると言うことは、噴火一歩手前なのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、三蔵は自分の部屋へと向かいかけて、その手前の悟空の部屋へとコースを変える。
「悟空?」
 こう呼びかけながら、三蔵は悟空の部屋のドアを開けた。
「三蔵……」
 次の瞬間、頭から布団をかぶって部屋の隅に隠れている――つもりらしい――悟空の姿が目に飛び込んでくる。しかも、なにやら用事を言いつけられたのは、八戒の姿は部屋の中にはない。
「……お帰りなさい……」
 三蔵の顔を見た瞬間、悟空が泣きそうな表情でこういった。
「あぁ。ただいま……」
 そう言いながら、悟空の側へと歩み寄れば、すかさず悟空が抱きついてくる。その体をいつものように膝の上に抱き上げてやった。
「で、どうだったんだ?」
 三蔵は自分がいなかった間の事を悟空に問いかける。八戒がこの場にいないのは時間的に判断をしておそらく夕食の支度をしているからだろうが、それだけでこれだけ悟空がこんなにおびえるとは考えられない。
「……なんか、ドアを開けるたびに部屋の外に誰かいるの……」
 それが怖くて、ドアを開けられなかったのだと悟空は訴えてくる。
「……マジかよ、そりゃ……」
 光明と悟浄が見張っていてそんなことが可能なのかと三蔵はつぶやく。だが、悟空がここまでおびえていたと言うことは嘘とは思えない。
「烏哭ならやりかねねぇか」
 と言うことは、早々に悟空を避難させるのが一番いいだろう。後で八戒にメールでも入れておけば心配させないだろうし……と三蔵は心の中で付け加えた。
「悟空」
 三蔵の呼びかけに、悟空は『何』というように見上げてくる。
「逃げ出すぞ。着替えてこい」
 三蔵の言葉を耳にした瞬間、悟空はものすごい勢いで昼間脱いだ服に着替えた。
「どこ行くの?」
 支度を整えてから聞く事ではないのでは……と三蔵は考える。だが、悟空にしてみれば早々に避難したいという思いが強いのだろうと判断した。
「ともかく、飯を食える場所だな。その後は……適当にぶらつくか」
 うかつなところには悟空を連れてはいけないが、映画ぐらいなら大丈夫だろう。そう判断すると、三蔵は悟空の手を握って部屋から出て行った。

 その後、烏哭がいつ帰ったのか二人は知らない。
 ただ、その後彼の気配を消そうと夜中にいきなり掃除を始めた八戒が、悟空の部屋から盗聴器を見つけたことだけは事実だった。