「すみません、悟空……」
 ベッドの上に横たわりながら、八戒は苦笑を浮かべていた。
「仕方ないじゃん。誰だって、自分が病気になるなんて考えないんだから」
 これが風邪や何かなら話は別だが、今回、八戒が入院したのは《盲腸》なのだから、と悟空は笑ってみせる。
「んっと……パンツとタオルを洗濯して持ってくればいいんだよな? あとは、読む本……って、本棚にあるのを適当に持ってくればいいわけ?」
 そして、八戒に頼まれたことを確認をした。
「えぇ……どの本でもかまいませんよ」
 どうせ暇なんだし……と八戒は付け加える。
「それよりも、ご飯とかきちんと食べていますか?」
 そちらの方が心配だ、と八戒は問いかけた。
「うん。朝は父さんが作ってくれるし……お弁当は無理だけど、晩ご飯は俺も手伝っているから」
 ちゃんと食べてる、と悟空は笑う。
「でもさ……父さんが作るとお醤油味かみそ味で……お肉が出ないんだよね」
 野菜はたくさん出るし、おいしいんだけど……と悟空は付け加えた。
「この前も、鳥カラだと思ったら違ったし。あれ、小麦粉で作ったんだってさ。味も歯触りもそっくりだったのに」
 この言葉に、八戒は笑みを深める。
「精進料理の一つですよ、それは。お義父さんらしい……と言うべきなんでしょうね」
 悟空にこう説明をしながら、
(悟空を驚かせることを楽しんでいますねぇ。お義父さんは)
 と八戒は心の中で呟く。もっとも、悟浄のようなそれではないだけ、マシだと言えるだろう。それに、光明が作る精進料理にだけはどうあがいても勝てない、と八戒は自覚している。
「他にもあるはずですから、作って貰えばいいですよ」
 蒲焼きもどきとか……と八戒が付け加えた瞬間、悟空が目を輝かせた。だが、それは直ぐに消えてしまった。
「でも、父さん、明日からお出かけだって言ってたからなぁ……」
 八戒が退院する方が早いかもしれない……と悟空は残念そうに付け加える。
「……そう言えば、そう言う話がありましたね……と言うことは、ご飯は?」
 どうするのですか、と八戒は問いかけた。
(他の二人はともかく、悟空にだけはちゃんとご飯を食べさせないと……)
 と言うのが彼の主要命題になっているのは言うまでもないだろう。
「三蔵が作ってくれるって言ってたけど?」
 悟空がけろりと答えを返す。
「なら、大丈夫ですね。バイトでそれなりに料理をしていたはずですし」
 少なくとも、誰かと違ってその事実を忘れることはないだろう、と八戒は胸をなで下ろした。
「それに、悟空が好きなお肉も作ってくれると思いますよ」
 この言葉に、悟空も嬉しそうに笑って見せた。
「あとは掃除と洗濯ですが……」
「……できるトコはしておくけど……八戒みたいにうまくできそうにないや」
 それは俺の仕事だから、と悟空が即答してくる。
「それに……悟浄の部屋には入りたくねぇし……」
 さりげなく視線を泳がせた悟空の態度から、よほど恐ろしいことになっているのか……と八戒はため息をつく。
「それに関しては、僕が退院をしたら何とかさせます。悟空はできる場所からしてくださいね」
 無理はしなくていいですから……と付け加える八戒に、悟空はしっかりと首を縦に振ってみせる。
「でも……三蔵がキレル前には何とかしねぇといけないんじゃないかな……」
 ウジがわくって騒いでいた……と告げる悟空に八戒は盛大にため息をついて見せた。
「本当にあの人は……」
 想像がつくだけにあきれてしまう……と八戒は呟く。
「少しも成長していないのですね、全く」
 昔は本当に虫を発生させたのに、と言いながら笑う八戒の表情は、はっきり言って怖いとしか言いようがないものだ。悟空がそれに思わず腰を浮かしてしまう。
「あぁ、すみません、悟空。貴方を怒ったわけではないのですよ」
 悟空はいい子ですからね、と表情を和らげる八戒に、悟空はそれでも警戒を解くことができないようだった。

 八戒が帰ってきても、直ぐにあれこれできるわけはない。そう思っている悟空は、できるだけ掃除や洗濯をがんばっていた。と言っても、悟空が手を出せるのは学校から帰ってきてからだから、大部分は三蔵の仕事だったと言っていいだろうが。
 それでも、悟空が一生懸命自分の役目を果たそうとしていたのは事実だった。
「それに比べて、この馬鹿は……」
 何の役にも立っていやがらねぇ……と三蔵は目の前で惰眠をむさぼっている悟浄を睨み付けながら呟く。
「……だけならまだしも、逆に厄介事ばかり増やしやがって……」
 こいつは……といいながら、三蔵はどうしてやろうかと心の中で考え始める。
 手伝えと言っていないわけではない。むしろ、毎日のように言っているのだが、まさしく馬耳東風。のれんに釘押し状態なのだ。しかも、やらない理由が『バイトで疲れている』とあっては三蔵も黙っていられない。これで多少なりとも家にお金を入れているなら妥協のしようもあるが、悟浄の場合、全部自分で使っているのだ。
「ったく……悟空の爪の垢でものんで見習えってぇの」
 せめて自分の部屋ぐらい腐海を解消させろ、と。
「……と言っても、こいつに付き合ってたら悟空に飯を食わせてやれなくなるか」
 八戒が帰ってきてから、一緒にお仕置きを考えればいいだろう……と三蔵は結論を出す。それでも、せめてもの腹いせ……というように彼の上を通ってキッチンへと向かった。もちろん、しっかりと踏みつけたことは言うまでもない。
「何すんだよ!」
 これで目を覚まさないほど、悟浄は寝穢くなかったらしい。怒りが滲んだ声が三蔵の背に向かってとんできた。
「……いたのか……ゴミだとばかり思っていたな」
 なんせ、テメェの周囲はゴミの山だ……と三蔵は付け加える。
「なんだよ、そりゃ!」
 どういう意味だよ、と悟浄が叫び返してきた。その瞬間、三蔵の口元に壮絶な笑みが浮かぶ。
「本当に聞きてぇのか、テメェは」
 その表情のまま三蔵は悟浄に問いかけた。
 とたんに、悟浄がしっかりと凍り付く。どうやら、自分にとってやばい状況が待っている……と言うことだけは理解したらしい。ただ、それが何なのであるか、までは彼にはわかっていないようだが。
「……イエ、ケッコウデゴザイマス、オニイサマ……」
 かくかくとした動きで首を横に振りながら、悟浄はこう口にした。もっとも、それで勘弁してやるほど三蔵は優しくない。だからといって、無視をするほど冷たくもないのだが……
「そうか? じゃ、予告だけしておいてやるよ。明日、テメェの部屋を掃除するからな。ゴミと思うものは全部捨てる。覚悟しておきやがれ!」
 服だろうと何だろうと遠慮はしねぇ、と三蔵は言い捨てる。
「マジ!」
 それは困る……と言いながら、悟浄が起きあがった。
「何が困るんだ? いらねぇから部屋の中をゴミだらけにしているんだろうが、テメェは」
 悟空でさえ、ゴミと必要な物とは区別しているぞ……と三蔵が吐き捨てる。それから逃れるように悟浄はリビングから逃げ出していった。
「ったく……使えねぇやつだ」
 あんな奴に飯を食わせるのも業腹だが仕方がないな、とため息をつきながら三蔵は改めてキッチンへと向かう。
「ただいま〜」
 そんな彼の耳に、悟空の声が届いた。
「お帰り。着替えてきたら、飯の支度手伝え!」
 廊下へ向かってこう怒鳴れば、
「うん、わかった……あぁ、八戒のトコにも寄ってきたぞ。おなら出たって」
 こんなセリフが返ってきた。どうやら、学校帰りに顔を出して、ついでに洗濯物を預かってきてくれたらしい、と三蔵は判断する。
「わかった。その話も飯の支度をしながら聞かせてくれ」
 自分自身の判断でしてくれた悟空は偉い、と思う。それに比べて……とまたため息が出てしまった。
「うん。今日の晩ご飯、何?」
 リビングに顔を出しながら悟空が問いかけてくる。
「中華だ」
 好きだろうと言ってやれば、悟空は嬉しそうな表情を作った。
「直ぐに着替えてくるからな」
 そして、こう言い残すと足音も高く駆け出していく。その牛濾紙方を、三蔵はほほえましいという表情で見送った。

 悟浄の部屋の腐海は解消されたのか。
 それとも、ますますひどいことになっているのか。
 そんなことを思いながら、八戒は自分の荷物をまとめ始める。
「本当……退院するというのにこんなに憂鬱でいいのでしょうか」
 我が家の惨状が怖い……というのがその理由だった。悟空――もちろん三蔵もだ――ががんばってくれていたことは間違いないだろう。しかし、それ以上に問題の人物が一人いる。それを考えればため息しか出てこないのだ。
「八戒! 迎えに来たぞ」
 そんな八戒の耳に、悟空の元気な声が届いた。視線を向ければ、入口の所に悟空の顔がある。
「ありがとうございます……ところで、一人で来たのですか?」
 悟浄はともかく、三蔵は一緒に来ると思っていたのに……と八戒は言外に問いかけた。
「三蔵は、今、お金払ってる」
 それが終わってからこっちに来るって……と悟空が笑った。
「あぁ、そうなんですか」
 それなら納得だ、と思ってしまう。いや、それに気がつかなかったことは恥ずかしいかもしれないとも。
「で、荷物は?」
 まだ傷が完全にふさがっていないんだから、といいながら悟空は八戒に駆け寄ってくる。そして、彼の手元にある鞄を指さす。
「大丈夫ですよ。これは着替えだけですから」
 見た目より軽いから……と言っても、悟空は納得しない。
「でも、また何かあると駄目だろう? 荷物持ちをするつもりできたんだし」
 そのくらいしかできねぇからさ……と悟空ははにかんだような微笑みを作る。
「そんなことはありませんよ。毎日来てくれましたし……一度も顔を出さなかった人もいますのにね」
 そう言いながら、八戒は思わず視線を窓の外へと向けた。
「……まぁ……あれはなぁ……」
 誰のことを言っているのか、悟空にもわかったのだろう。フォローのしようもないよな、と呟いている声が八戒の耳に届く。
「……どうやら、僕がいない間に羽を伸ばしまくっているようですね、あの人は」
 さて、どうしてやりましょうか……と八戒が低く呟けば、悟空は思わず後ずさってしまう。
 まるでそれにタイミングを合わせたかのように三蔵が中に入って来た。当然のように悟空は彼にぶつかってしまった。
「何してんだ、お前は」
 その肩を両手で押さえながら、三蔵が悟空に問いかけの言葉を投げかける。だが、それに悟空は答えを返すことができない。ただ、視線で八戒を示すのが精一杯だ。
「……なるほどな……で? 何が気に入らないんだ?」
 三蔵は質問の矛先を八戒へと向ける。
「別に、悟空がどうこうした、と言うわけではありませんよ……こんな日に迎えに来てくれない薄情な義弟にどう礼を言ってやろうか、と思っただけです」
 確かに、盲腸なんて肺炎よりもマシかもしれませんけどね……と八戒は壮絶な笑みを作りながら答えを返した。
「そうか……まぁ、それに関しては家に帰ってからだな。これ以上ここでやっていれば、今度はこいつが入院するはめになるぞ」
 悟空がいないところでゆっくりと相談しよう……と三蔵が笑う。
「そうですね。がんばってくれた悟空に被害を及ぼすわけにはいきませんしね」
 悟空には感謝してもしたれないのだ、と八戒は身にまとっていた雰囲気を和らげた。それに気づいて、悟空もようやく恐怖心を振り切ることができる。
「ところで、今日のご飯は……」
 どうなっているのか、と八戒は即座に問いかけてきた。必要であれば、帰りに買い物をしていかなければならないだろうと。
「大丈夫だ。ちゃんと考えてある。今日はデリバリーを頼んでおいた」
 明日からは少しずつやって貰わないといけないが……と言う三蔵に、了解というように八戒は頷き返す。
「じゃ、帰るぞ」
 言葉と共に三蔵は八戒の荷物を取り上げた。八戒も彼の行動に異を唱えることはしない。そのまま、三人は病室を後にしたのだった。

 そのころ、悟浄は激しい悪寒に襲われていた。それが表情に出たのだろう。店員が不審そうに見つめてくる。
「……そう、それと……後、これをセットで包んでくれる?」
 そう言いながら彼が店員に差し出したのは最近発売されたばかりのゲーム機と悟空が欲しがっていたタイトルのゲームだった。
「わかりました……リボンのお色は……」
「男の子だから、青で頼むな?」
 即答をする。同時に、悟浄は心の中で悟空を味方につければ多少はマシになるのではないか、と思っていた。そのためにバイトをしていたのだから、あれこれ手伝えなかったのだ、と言えばあのお子様は騙されてくれるのではないか、と。
 それが無事に功を奏したのかどうか。
 それはまた別の話であろう。


ちゃんちゃん