「……三蔵……」
 悟空が学校から帰ってきた。そう思った次の瞬間、未だに小さな体がまっすぐに三蔵の腕の中へと飛び込んできた。
「どうした?」
 その体が小さく震えているのを感じて、三蔵は眉をひそめる。ひょっとしたら熱もあるのだろうか。ほんの少しだけ悟空の体が熱い。
「……出た……」
 ぎゅっと三蔵の体にしがみつく腕の力を強めながら悟空は呟くように言葉を口にした。
「出たって……幽霊でも出たって言うのか? 寺の息子が」
 わざとあきれたような口調を作ると、三蔵はこう問いかける。それに悟空は彼の胸に頬をすりつけるようにしながら首を横に振った。
「……そんなんだったら……こわくねぇよ……」
 俺だって、寺の子だし、と悟空は付け加える。
「じゃ、何が出たんだ?」
 三蔵はそんな悟空の様子に苦笑を浮かべると再び問いかけた。
「……学校に……教育実習の先生が来たんだけど……」
 そこまで言ったところで、悟空は体を大きく震わせる。
「その中に、誰かいたのか?」
 たぶん、今の怯えぶりはそのせいだろうと三蔵は判断をして言葉をかけた。これに悟空は素直に首を縦に振る。
「俺たちも知っている奴か?」
 さらに言葉を投げつければ、素直に同意をしてきた。
「誰だ?」
 教えろ……と言われて、悟空は目を伏せる。その様子は本気で怖がっていると誰でもわかるだろう。
(こいつがここまで怖がる相手って言うのを、俺は一人しかしらねぇよな)
 だが、その人物が悟空に接触できるはずはない。それに関してだけは確認してある。
「……神さん……」
「……そっちが来たか……」
 三蔵は思わず天を仰いでしまう。
 考えてみれば、悟浄と彼は同じ年だ。まだ大学生の彼が『教育実習』に来たとしてもおかしくはない。そして、その実習先が悟空の高校だとしても。
(おかしくはないが、作為的じゃねぇって言い切れねぇしな)
 いや、十分作為が感じられてしまう。
「ともかく、着替えてこい。それから、父さん達に相談をして、どうするか、決めるしかねぇな」
 学校を休むという選択肢もあるんだし……と三蔵は言いながら悟空の髪を撫でてやった。その声の優しさに安心したのか。悟空は小さく頷く。
「大丈夫だって……何なら、しばらく登下校に付き合ってやるから」
 何があっても守ってやるから、と三蔵が付け加えれば、悟空はようやく安心をしたようだ。さらにだめ押しというように、三蔵は悟空の唇に触れるだけのキスを送る。
「と言うわけで、着替えてこい。少なくとも、家の中だけは安全だし」
 そのまま額をくっつけた状態でこう言えば、悟空の口元にようやく微笑みが浮かぶ。
「そうだよな」
 大丈夫だよな、と付け加えるものの、悟空は三蔵の側から離れようとしない。
(ったく……余計なことを)
 心の中で三蔵はシンノ顔をぶん殴るイメージを思い描いていた。

「……それは困りましたね……」
 三蔵から話を聞いた光明がため息とともにこう口にする。
「悟空にとって、それだけ恐怖を感じさせる存在だったというわけですね、烏哭君は」
 あの頃の悟空ではちょっとしたことでも増幅されて受け止めてしまったのでしょうけど……付け加えながら、光明は考え込む。
「このままだと、登校拒否になりかねませんよ」
 悟空のあの怯えぶりでは、と、三蔵も眉を寄せる。
「だけならいいのですが、下手をすればまた外出が出来なくなるかもしれませんね」
 それだけは避けたいと思っているのは三蔵だけではなく光明も同じだ。
「しかし、教育実習とは……」
 そこまでチェックしていなかった……と光明が呟く。
「学校行事というか……それで単位を取るのですものね、教員志望の者たちは……と言うことは、神君をどうこうすることは出来ませんし」
 悟空にしても同じだ、と付け加える。
「……いっそ、学校を休ませるのが一番なのかもしれませんが……」
 教育実習が終わるまで、ほぼ二週間。
 そんな長い間休ませて、悟空の今後の学校生活に支障が出ないだろうか……と三蔵は思う。
「さすがにそれも問題がありますよねぇ」
 彼が悟空のクラスに配属されなければまだましなのだろうか、と考えてみる。。だが、校内にいると言うだけであれだけ怯えられてはそうとは言えないだろう。
「本当、困りましたねぇ……」
 一体どうすることが悟空のためなのか……と光明も本気で悩んでいるらしい。
「いっそ、入院でもしますか?」
「あの……誰が……」
 悟空が入院するのは難しいような気がする。って言うか、誰も信用しないぞ、あれは。
「私でも貴方でもいいですが……でも、介護を名目に学校は休めませんしねぇ」
 考えてみれば……と光明は笑い声を上げる。
「当たり前でしょう」
 これが立場が逆であれば通用するんだろうが、と三蔵は思う。
「かといって、故意に怪我をさせるわけにはいきませんしねぇ」
 烏哭君もいい加減諦めてくれればいいのに……と光明は呟く。だが、三蔵にしてみれば、彼のあのしつこさは早々簡単に治るわけはないものだと思えてならない。治るくらいなら、とっくの昔に治っているだろうと。
「朱泱に相談したくても、高等部まではフォローしていないだろうし……」
 むしろ口を出させたら問題が起きるのではないだろうか。
「……いっそ、天蓬さんに頼みましょうか。以前、悟空をストーキングしていた奴と関係がある人間だからって」
 何とかしてくれないかと学校側に話をとおして貰えば態度が変わるだろうか……と三蔵は光明に問いかける。
「そうですねぇ……」
 可能性は低いが、一応『弁護士』である天蓬の話なら高校側も耳を貸してくれるかもしれない。もっとも、そのためには天蓬に連絡を取らないと行けないわけだが。
「相談してみましょうか」
 光明も頷き書けた、まさにその時だった。
「悟空!」
 八戒の焦ったような声が彼らの耳に届く。
「何かあったのでしょうか?」
「わかりません」
 そう答えながらも三蔵は既に腰を浮かせている。
「確認してきます」
 そう叫ぶと同時に、三蔵は部屋を飛び出していた。

 八戒が悟空といるとすればリビングかキッチンだろう……
 そう判断をして、まずはキッチンへと飛び込む。
 予想通り、そこには八戒と脇腹を押さえながら床にうずくまっている悟空の姿があった。
「どうした!」
 しかも、その額には脂汗らしきものが浮かんでいる。
「急におなかが痛いと言って来て……で、詳しいことを聞こうと思ったら……」
 珍しくも八戒が動揺していた。もっとも、自分が同じ状況に置かれていたら間違いなく同じ行動を取っただろう、と三蔵は思う。
「押さえているのは、右の脇腹か……まさかと思うが、盲腸か?」
「……そう言えば、悟空はまだ持っていましたね、盲腸」
 可能性は否定できない……と八戒も頷く。
「救急車を呼びますか?」
「あるいは、金蝉さんに連絡をするかだ……どっちが早いか……」
 救急車を呼んですぐに病院に搬送されればいいが、そうでなければ、もう一人の悟空の保護者とも言える彼に連絡を取った方が早いだろう。
「車を出せるなら、金蝉さんに話を通した方がいいかもしれません」
 あれこれ便宜を図ってくれるだろう……というと同時に、八戒はリビングへと駆け出していく。そのまま金蝉を呼び出すために電話をかけ始めたようだ。
 その気配を背中で感じながら、三蔵は悟空の体をそうっと抱きかかえる。
「今、病院へ連れて行ってやるからな。もう少し我慢しろ」
 そう声をかけながら、汗で額に張り付いた悟空の髪の毛を指先でそうっと派がしてやった。
「……さんぞ……痛ぇ……」
 悟空がようやくそれだけを口にする。
「八戒が今手配をしている。終わり次第、連れて行ってやるから……それまでこうしていてやるよ」  そうすれば少しは楽だろうといいながら、三蔵は悟空が少しでも楽なようにと体勢を整えてやった。
「おれ、死ぬの?」
 痛みと不安に彩られた瞳が三蔵を見上げてくる。
「ば〜か。誰がそう簡単に死なせてやるかよ。心配するんじゃねぇ」
 言葉とともに、三蔵は悟空の唇に触れるだけの口づけを落とす。
「それに、死んじまったら気持ちいいことが出来なくなるぞ」
 それはいやだろうと問いかければ、悟空は素直に首を縦に振ってみせる。
「もう少しだからな」
 しかし、八戒の奴は遅いな……と三蔵が顔だけリビングへと向けた。それとタイミングを合わせるかのように八戒が受話器を置く。
「すぐに病院へ連れてきてくれとのことです。三蔵は車の用意をしてきてください。僕は保険証その他を用意したら、悟空を連れて行きますから」
「いやいい。このまま俺が運んでいく」
 言葉とともに三蔵が悟空の体を抱き上げる。そして、歩き出した。
「悟空? どうしたのですか?」
 どうやら気になって追いかけてきたのだろう。廊下で光明がこう問いかけてくる。
「どうやら、盲腸か何からしいので……このまま病院に」
「金蝉さんが待っていてくださるそうなので」
 三蔵の言葉を八戒がフォローをした。
「そうですか……気をつけていってください。私は待機していますから、もし入院と言うときには、すぐに連絡をしてください」
 全員で言っても邪魔なだけだと判断したのだろう。光明がこう言ってきた。
「わかりました」
 頷くと同時に、三蔵達は再び動き始めた。

「……間違いなく急性盲腸炎……だな」
 悟空の検査結果を眺めていた金蝉がため息とともに告げる。
「とりあえず、今は薬で痛みを止めている。出来ればすぐにでも入院して、明日手術したいが……かまわないか?」
 そう言いながら視線を向けられたのは三蔵だった。
「あぁ。それはかまわない……ついでに、言っちゃ何だがある意味都合がいいし……」
 この言葉に、当然のように金蝉は不審そうなまなざしを向けてきた。
「……ババァから聞いているかな。悟空のトラウマの原因のやばい奴の話」
 周囲をはばかるかのように、三蔵は声を潜めると言葉を口にする。
「烏哭のあほか」
 どうやら、目の前の相手も何か迷惑をかけられたらしいと三蔵はこの一言から推測をした。
「あぁ。その義理の息子が、今、悟空の学校に教育実習できていてな。そのせいで、今日、怯えながら帰ってきたんだよ。そのせいで、また再発してはまずいからどうするか……って言う話になっていたところで、倒れたもんだから……」
 入院している最中なら、学校を休ませてもあいつが文句を言ってくることはないだろう……と三蔵は付け加える。
「ババァの話から想像はしていたが……かなりまずいわけだ、あいつの存在は……」
 わかった、と金蝉も頷き返す。
「そいつらが悟空に面会に来ても追い返すように言っておこう。婦長をはじめとして、あいつがここに連れてこられたときのことを覚えている人間も多いからな」
 それを繰り返させたくないと思っている人間も多いだろうと付け加える金蝉に、三蔵はほっとする。
「お願いします。明日には父もあいさつに来ると思うので……」
「心配するな。あいつは俺にとっても息子みたいなもんだし……そうだ。一応完全介護だからな。家族といえども面会時間以外付き添いは出来ない規則だが……様子を見て許可を出すかもしれん」
 あいつの場合は特別だからな……という金蝉の言葉の意味がわからない三蔵ではない。
「お願いします」
 ともかく、悟空に不安を感じさせないことが先決だ、と三蔵は彼に頭を下げる。
「じゃ、病室の方で看護士から入院の手続きその他を聞いてくれるかな? 保険証を持ってきて貰ったから、あとは入院中の必要品ぐらいですむと思うが……それと、明日、2時から手術だから……その前にあれこれ説明をしたい。君だけではなく、出来れば光明さんにも来て欲しいんだが……」
「伝えておきます」
 無条件で駆けつけるに決まっている、と心の中で思いながら三蔵が頷いた。
「では、あいつの顔を見てから帰るんだな。執刀は俺が担当するし」
 今日の所は、明日の準備のために体を休ませておけ……という彼に、礼を言うと、三蔵は悟空の病室へと向かうために診察室をあとにした。

「これも怪我の功名……というのでしょうかね」
 無事に手術を終えた悟空の枕元で、光明が苦笑混じりに言葉を口にした。
「ですね。退院して登校していいという許可が出る前に教育実習が終わるはずですから」
 あいつの顔を見なくてすむぞ……と三蔵は悟空の頭を撫でてやる。
「……これって……ずるなのかな?」
 悟空がぼけっとした口調で問いかけてきた。
「違うだろう、馬鹿。さすがに誰もそんなことおもわねぇよ」
 病気だけはいつなるかなんてわからないんだから……と微笑んでやれば、悟空は納得したようだ。
「そうですよ、悟空。仏様が悟空がかわいそうだと思われたのでしょう。でも、さすがにこれがいつも通用するとは思わないようにと痛い思いもさせただけですよ」
 さすがは住職……というようなセリフを光明が口にする。それに、三蔵は内心で苦笑を浮かべた。
「……なのかな?」
 悟空に問いかけられて、三蔵は仕方がなく首を縦に振ってみせる。もちろん、自分が信じていないと悟空に悟られないように表情を作ってだ。
「そう思っておけ。鰯の頭も信心って言うだろう」
 その言葉もなんだか、と即座に光明が苦笑を浮かべる。
「三蔵。それは檀家さんの前では言わないでくださいね」
 と言っても、三蔵の性格を知っている光明だ。この程度の注意だけで納めておく。
「わかっていますよ。それより、悟空。傷は痛くねぇな?」
 苦笑とともに頷き返すと三蔵はそのまま視線を悟空へと向けた。
「……まだ、足の方の感覚ねぇんだけど……」
「麻酔が切れていないのでしょうね。まぁ、ご飯も点滴でいいようですし……おトイレの方も今日の所は心配ありませんね」
 その言葉に、悟空が複雑な表情を作る。
「諦めるんだな、今日は。麻酔が効いている間は動けねぇんだから」
 相手は慣れているんだからといいながら、三蔵はまた悟空の頭を撫でてやった。
 その時だった。
「大丈夫か、悟空!」
「無事に手術は終わったようですね」
 そう言いながら、大学生組が病室に駆け込んでくる。
「ウルセェ! 病院だぞ、ここは!」
 少しは周囲に配慮しろ! と三蔵が注意の言葉を口にした。
「すみません……悟空のことが気にかかったので」
 八戒がすかさず謝罪の言葉を返してくる。
「……テメェじゃねぇだろう、問題なのは」
 そっちの馬鹿だろうが、と三蔵が視線を向けたのは悟浄の方だった。しかし、その視線も彼には気にならなかったらしい。
「そられたんだろう? きれいなお姉さんだったかぁ?」
 なぁ、見せろよ……と口にしながら、悟浄は悟空の布団をはぎ取ろうとしている。
「やめろよ! 見るんじゃねぇ!」
 それを阻止しようと悟空はがんばっているが、まだ麻酔が完全に切れていない上に腕には点滴、股間にはカテーテルが差し込まれている状況ではままならないらしい。
 だが、そんな悟浄の行動を他の者たちが許すわけがなかった。
「悟空は病人なんですよ!」
「何考えているんだ、この馬鹿!」
「……貴方という人は……」
 悟空から引きはがしながら、三人はそれぞれ悟浄へ向かってお小言を口にし始める。それを耳にしながら、悟空は早々に眠りの中へと逃げ込むことにしたのだった。


ちゃんちゃん