桜は既に盛りを迎え、風と共に花びらを散らし始めている。 その下を、新しい制服を身にまとった悟空となんだかんだと保護者役を押しつけられた三蔵が歩いている。 「お義父さん、来たがってたのにな」 自分に話しかけてくれない三蔵にほんの少し焦れながらも、悟空はいつもの口調で言葉を口にした。 「八戒も、悟浄も、みんな今日に限って忙しいのはどうしてなんだろうな」 だが、その問いかけにも三蔵は何も答えてくれない。その事実が悟空の心に苦いものを広げた。だが、そのくらいでめげてはいられないと思い直す。 「三蔵が来てくれて、マジ、嬉しいんだけど」 そして、ふっと三蔵の方に体ごと視線を向けながらこう言った。だが、三蔵からの返事はない。それでも、かすかに彼の眉が反応を返してくれたことで悟空は満足をする。少なくとも、自分の話をまったく聞いていないと言うわけではないらしいことに気がついたのだ。 「でも、三蔵には迷惑だったのか? やっぱ、俺、一人で行った方がよかったのか」 ならば、少しでも反応を引き出したくてこんなセリフを口にする。それが三蔵の耳に届いた瞬間、彼はわずかに眉をひそめた。それでも、まだ三蔵は口を開くどころか視線も合わせてくれない。 その事実が、悟空の心の中に重苦しいものを生み出す。 「ごめん」 やっぱり、三蔵は自分と一緒にいたくなかったんだ……とその態度から悟空は判断する。それに耐えきれなくなって悟空は瞳を閉じた。 「うわっ!」 その瞬間、石につまずいてバランスを崩してしまう。 そのまま思い切り地面に転がってしまうのか……と悟空が思ったときだった。 「馬鹿!」 言葉と共に三蔵の腕が悟空を引き戻す。そのまま悟空は後ろにではなく三蔵の胸へと倒れ込んでしまう。 「ちゃんと前を見て歩け、この馬鹿」 その事実に悟空が目を丸くしていると、さらに三蔵のこんな声が降ってくる。 「……だって……」 三蔵が……と悟空は口にしながら視線を上げた。そうすれば、三蔵のそれとぶつかる。複雑な思いを含んだそれは、だがすぐにそらされてしまった。 「三蔵、俺のこと、見てくれねぇじゃん……」 その三蔵の仕草の意味がわからなくて、悟空は悲しげに顔をしかめる。 「俺、三蔵が一緒に来てくれて、とっても嬉しかったのに……三蔵、何も言ってくれねぇし」 だから、自分で三蔵を見ていたのだ……と悟空は口にした。 「……悪かった……」 三蔵の口から今日初めての言葉がかけられる。だが、それはどこか悟空と距離を置こうとしているようにも受け取れるものだった。 「……ご、めん……やっぱ、迷惑だったんだよな……」 悟空は小さく呟く。 「……俺、三蔵、大好きだけど……」 言葉と共に、悟空は三蔵の腕から抜け出す。 「俺が三蔵に嫌われてるなんて思わなかった……ごめん……」 うつむいたままこう言うと、悟空はうつむいたまま駆けだした。 「悟空!」 咄嗟に三蔵はそんな悟空の背に向かって手をさしのべる。だが、その手は彼を捕まえることはできない。 二人の間を分かつかのように、桜の花びらが風に舞い散る。一瞬それに視界を奪われた三蔵がようやく周囲を確認できたときにはもう、悟空の小さな姿はどこにも見えなかった。 「……誰が……嫌ってるって……」 伸ばした手を引き寄せながら、三蔵は苦しげに呟く。 「人の気もしらねぇで」 そうは思うものの、悟空に自分の気持ちを悟られないようにしていたのは自分自身だ。それでいいと思っていたのに……と三蔵は心の中で付け加える。 「……馬鹿……」 それは悟空へ向けられた言葉なのか。 それとも自分に向けてのものなのか。 三蔵自身にもそれはわからなかった…… どうしよう。 三蔵に嫌われた…… その想いが悟空の中で渦巻いている。 自分がどうしたらいいのかわからない。 こんな事、光明達にも相談することはできないだろう。 では誰に…… そんな悟空が頼れるのは一人しかいなかった。 明らかに寝起きとわかる様子で、金蝉はマンションのドアを開ける。これが訪問販売とか何からだったら無条件で怒鳴っていただろう。だが、今目の前にいたのはそんな人々ではない。 「……悟空、どうしたんだ?」 悄然とうちひしがれている悟空の様子に、金蝉はさすがに驚いたらしい。慌てた様子でこう問いかけてきた。 「……こ、ぜん……」 ひくっと悟空がしゃくり上げる。だが、次の言葉は彼の口からは出てこない。 「……ともかく、中に入れ……」 手放したとは言え、可愛いことは代わりがない。金蝉は手を伸ばすとくしゃりっと悟空の髪をかき回す。そしてそのまま自分の方へ引き寄せた。 玄関のドアを閉めると靴を脱ぐように促す。 素直に悟空が靴を脱ぎ捨てたのを見て、金蝉はそのまま抱えるようにリビングへと移動をした。普段、寝るためにしか帰ってこないせいか、そこは生活感がまったく見られない。モデルルームに置かれている未だ新品のままのように見えるソファーに悟空を座らせた。 「……制服を見せに来たってわけじゃなさそうだな」 よくよく見れば、真新しい制服を身につけているらしい悟空に、そう言えば今日は入学式だったなと金蝉は思い出す。見せに来るからと言われていたから、今日は開けていたのだと言うことも。 だが、悟空の表情はどう見てもそのためだけにきたとは思えない。 しかし、今の悟空に問いかけても答えは得られないだろう。 どうするべきか……と金蝉は悩む。そして、とりあえず自分用にコーヒーを淹れてくるかとキッチンへ向かいかけた。 「悟空。コーヒーでいいか?」 そして、自分だけ飲むのでなんだと思い直したらしい。そのまま顔だけ振り向いて悟空に問いかける。すると、その頭が小さく動いたのが見えた。 その仕草に少しだけほっとすると、金蝉は今度こそキッチンへと消える。 冷凍庫から豆を取り出して二人分をコーヒーメーカーへとセットした。その間にもちらちらと視線を悟空へ向ける。そうすれば、悟空がソファーの上で膝を抱えてうずくまるのが見えた。 「ったく……何があったんだか……」 あれを部屋の隅とかソファーの影でやっていたのなら、間違いなくであった頃と同じ行動だ。まだ金蝉の目が届く範囲でそれをしているだけマシなのかもしれない。 「……あちらに連絡を取る必要があるかな……」 最近何があったのかと問いかけなくても、ここに来ていることは伝えなければならないだろう。少なくとも、悟空の保護者は自分ではなく光明なのだから……と金蝉はため息をつく。 だからといって、悟空に対する愛情がないわけではない。むしろ、一番大切な相手だとは思う。もちろん、それは恋愛感情ではなく父性愛という意味でだが。 悟空にしても、控えめに見ても光明と同じ程度には自分を慕ってくれているはずだ。 手元に置いておけなかったことはしかたがない。 離れていた期間を埋められないことも同様だ。 ならば、それ以上の愛情を注いでやればいいだけのこと。こうして悲しんでいるときに慰めてやればいいのだ……と金蝉は開き直る。 こんな所を菩薩に見られればまた何を言われるかわかったものではないが、既に気にするつもりはない。 そんなことを考えているうちに、コーヒーができた。 カップにそれを注ぎ入れると、金蝉は砂糖と共にそれを持ってリビングへ戻る。 「ほら。ミルクなんて上等なものは家にはないからな」 砂糖だけで我慢しろ、と付け加えながら、金蝉は悟空へとカップを差し出す。ちらっとだけ顔を上げると、悟空は彼の手から片方だけカップを取り上げた。 しかし、それを握りしめたまま口を付けようとはしない。 その様子に、金蝉は小さくため息をつく。そして、自分の分を一気に飲み干した。 とんっと音を立ててカップを置くと、金蝉は立ち上がる。 「……こん、ぜん?」 そのまま電話の方へ向かった彼に、悟空が不安そうな声をかけた。 「お前がここにいると言うことを伝えておかないと、光明さん達が心配するだろうが」 違うのか、と口にした瞬間、悟空の大きな目に涙があふれる。 「悟空?」 その悟空の様子に、金蝉は驚いてしまう。どうしたんだといいながら、彼の元へ駆け寄ると、その涙をぬぐってやる。それでも悟空の涙は止まる気配を見せない。 「……金蝉、どうしよう……」 それでも、彼の仕草にようやく悟空の重かった口が開いた。 「俺、三蔵に嫌われちゃった……」 と…… 「はい、わかりました……申し訳ありませんが、もう少し預かって頂けますか? えぇ。こちらの方をきっちりとケリ、つけさせますので」 光明はこういうと受話器を置いた。そして、そのまま振り返る。その表情ははっきり言って怖いものだった。 「あ、あの……」 ひょっとして、自分に関係あることだろうか。 光明の表情を間近で見てしまった悟浄は焦ってしまう。だが、それでは先ほどの電話での会話がつじつまが合わなくなる。その事実に気がついた彼は、ほっと胸をなで下ろした。 「悟浄、三蔵は今どこにいるか知っていますか?」 そんな悟浄の気持ちを知っているのかいないのか。内心のいらだちを隠すことなく光明がこう問いかけてくる。 「……へっ……っと……」 急に声をかけられて、悟浄は焦ってしまった。いったいどう言えばいいのか、わからない、と言うように変な声を出す。 「三蔵なら、さっき、自分の部屋に行きましたよ」 そんな悟浄に助け船を出したのか。それとも、単に自分が光明の側にいたくなかったのか――おそらく後者だろうと悟浄は判断をする――八戒がこんなセリフを口にした。 「そうですか……あぁ、八戒。悟空は今日、金蝉さんの所にお泊まりをさせて頂くそうです。ご飯は必要ありませんから」 そのまま三蔵の部屋へ向かおうとした光明が思い出したようにこう口にする。 「えぇ! せっかく入学式のお祝いにごちそうの準備をしていたのに……」 反応をするところが違うのではないか、と悟浄は思う。だが、光明も八戒もそれには気づいていないようだ。 「文句は三蔵に言ってください。あの子の優柔不断さが悟空を追いつめたらしいので」 「……わかりました……おつき合いさせてかまわないでしょうか?」 自分の努力を無駄にされた……と言うよりはおそらく三蔵の行動が悟空を傷つけたと言うことに八戒も怒っているのだろう。はっきり言って、笑顔の下に怒りが渦巻いている。 その隣では同じような表情を浮かべている光明が…… 自分に向けられたものではない……とは分かっていても怖い。 頼むから、そうそうに俺を解放してくれ、と悟浄は心の中で叫ぶ。 その願いが二人に聞こえたのだろうか。つれだって出て行く彼らに、悟浄はほっとため息をつく。 「……悟空に何をしたかはわからねぇが……三蔵も馬鹿だよなぁ」 あの二人を本気で怒らせるなんて……と呟く悟浄の声は誰の耳にも届かなかった。 いや、聞こえていたところで、あの二人は気にすることはなかっただろう。 「まったくあの子は……何のために猶予を上げたと思っているんですか……」 光明のつぶやきに、八戒が問いかけるような視線を向けた。 「それが、どうしてこういう結果になったのか、きっちりと聞かせて貰わないといけませんね」 せっかく気を利かせて二人だけの時間を作ってあげたというのに……と光明は呟く。 「それで、僕たちに悟空の入学式に行くんじゃないとおっしゃったのですか?」 八戒はそのセリフに思わずこう問いかけてしまう。 「……それもありましたが……あなた方も今日それぞれ用事があったことも事実でしょう?」 それに、悟空が三蔵と一緒にいたかったようですので……と光明は付け加える。ここしばらく彼に避けられていることを気に病んでいた様子が見られたのだ。だから、これで関係が少しでも改善されれば……と思ったこともまた事実だと光明は付け加える。 「それが、まさか裏目に出るとは思いませんでしたが」 とため息をつく。 「それが普通だと思います」 三蔵が悟空をどう思っているのか、八戒もうすうす気づいてはいた。それについて、彼が悩んでいたことも分かっている。 しかし、三蔵のことだからうまく処理できると思っていたのもまた事実だ。 悟浄が彼らの気持ちに気づいていたかどうかわからないが、彼にしても同じ結論に行き着いただろうと思う。 「ともかく、今日、三蔵が何をしたのか確認しないと駄目だ……と言うことですね」 悟空がそれでショックを受けたのだから……と八戒は口にする。 「そう言うことです」 それによって、今後のことを考えなければいけないと光明は思う。最悪の場合、悟空の心に大きな傷が付くだろう。そうなった場合、あの子供が昔の状態に戻らないとは言い切れないのだ。それだけ、過去、心の傷を負ったものは弱いとも言える。 そんな悟空にとって三蔵がどのような存在なのか、光明はしっかりと彼に伝えてきたつもりだった。 しかし、今回のことでそれが彼に伝わっていなかったのだとわかった。いや、自分自身の思いにとらわれて、それを忘れていたのか…… おそらく後者だろうとは思うが、それでも許せるわけではない。 「三蔵、入りますよ」 ノックもせずに光明が三蔵の部屋のドアを開ける。その瞬間、部屋の中からあふれ出てきたたばこの煙に、光明と八戒は同時に眉をひそめる。 それだけではない。よくよく見れば、三蔵の周囲にはビールの空き缶が散乱していた。 「……何かしましたか?」 それでも、光明の姿は認識できたのだろう。三蔵はけだるげな仕草で視線を向けるとこう問いかけてくる。 「えぇ、大変なことをしてくれましたよ、貴方は」 そんな三蔵に光明はこう言い返す。 「悟空が、貴方に嫌われたと言って金蝉さんのところで泣いているそうです。いったい、貴方は何をあの子に言ったのですか?」 最悪の場合、もう帰って来ないかもしれませんよ……と付け加えられて、三蔵だけではなく八戒も驚きに目を丸くする。 「金蝉さんはそれでもかまわないと言っていますが……本当にいいのですか?」 ある意味、貴方の望んだ状況ですけどね……と光明は付け加えた。 「……その方がいいと……悟空が言ったのだったら……」 しかたがないことだ、と三蔵は呟く。本心からの言葉でないことは、その表情からもわかる。だが、彼は故意に自分はそう思おうとしているようだ。 「……その理由が、貴方に嫌われたからだ……と言うものだったとしても、そういえますか?」 光明はそんな三蔵にさらに問いかける。 「まぁ、貴方にしてみればその方が好都合なのかもしれませんけどね。自分でももてあましている感情を悟空に悟られずにすむのでしょうから。でも、あの子はどうするのですか? また、あのころのように人間不信に陥る可能性も否定できないでしょう?」 あの子にまたそんな生活を送らせたいのですか、と光明は言外に三蔵を非難した。 知らない人を見るたびに震えていた少年。 家から出ることができずに、楽しいという表情すら作れなかった。 そんな悟空をまた見たいのか、と告げる彼に三蔵は眉をひそめる。確かにあのころの悟空の姿は見たくない……と三蔵も思う。 自分たちの行動の一つ一つに一喜一憂していた悟空のそれは、本当にかわいそうだったと言っていい。 だが、今の自分の気持ちを告げても同じことなのではないだろうか……と三蔵は悩む。 「……悟空の一番側にいた貴方ですから、彼に対する認識が小さな時のままだとしてもしかたがないでしょう。でも、あの子だっていつまでも幼い子供ではないのですよ」 あの子が貴方の本当の気持ちを知ったとしても傷つくとは限らない、と光明は付け加える。 「……ですが……」 三蔵はそれでもまだ腰を上げようとはしない。その様子に、八戒は思わずいらいらしてきてしまう。 「本当に、普段のあの唯我独尊ぶりはどこに行ったのですか。みっともない」 悟空のことでただでさえ怒りまくっていた八戒は、普段の穏やかな口調などまったくどこかに行ってしまったらしい。とげを隠すことなく言葉を口にし始めた。 「あの子が貴方をどう思っているのか教えてあげますよ! あの子は貴方のことを考えると胸が痛くなるんだそうです。その意味は、ご自分で考えてください」 それも理解できないようなら、もう、兄弟とも思えませんね……と八戒は付け加える。 「……何だと?」 だが、三蔵の方はその八戒の言葉をすぐに理解できないらしい。何度も八戒のセリフを口の中で繰り返している。 「本当なのですか、それは」 「残念ですが……本当ですよ、お義父さん。悟空が口にしたのを僕だけではなく悟浄もしっかりと耳にしています」 三蔵が特別だといった言葉を……と八戒は付け加えた。 「……と言うことは、三蔵の気持ち次第……と言うことですね。しかし、どこをどうすれば嫌われていると思うのでしょうか」 相思相愛じゃないですか……と付け加えながら、光明は大きなため息をつく。 まさか『悟空』まで『そう』だったとは思わなかったのだ。これで悟空が昔のようになる可能性はなくなった。だが『父親』として考えてみれば複雑な心境だと言っていい。 「悟空が……俺を?」 ぶつぶつと呟いていた三蔵がいきなり硬直をする。 「まさか」 信じたいが信じられないと言う表情で三蔵が呟く。 「……本人に確かめてみればいいでしょうが」 そんなところで腐っていないで、さっさと行ってきなさい! と光明は三蔵を蹴飛ばす。それは彼だけではなく自分自身にも踏ん切りをつけさせるための行動だったのかもしれない。 「連れてこなければ、家に入れませんからね!」 さらに八戒がこんなセリフを口にする。 三蔵はまだ信じられないようだが、それでも家の外へと出て行った…… 「……で?」 三蔵にとって最後の難関は金蝉だったかもしれない。 玄関に仁王立ちになった金蝉は冷たいまなざしで三蔵を睨み付けている。それは冷徹な医師の目でもあった。 「だから、悟空の誤解を解きに来たって言ってるだろうが。その結果、テメェが嫌われてもかまわねぇって覚悟でな」 悪いか、と三蔵はそんな金蝉をにらみ返す。 「……これ以上、アイツを泣かせるわけじゃねぇな?」 だったら、殴ってでも会わせない、と金蝉は告げる。 「……どういう意味で泣かせるか……という問題は別にして、少なくとも、嫌なことでは泣かせる気はねぇよ」 そんな彼に一歩も引く様子を見せずに三蔵が言い返す。 次の瞬間、金蝉の目がふっと細められた。 「なら入れてやるよ。ただし、悟空が本気で嫌がったら遠慮なく追い出すからな」 この言葉と共に金蝉がようやく三蔵を招き入れる。 「悟空は奥の部屋にいる。話したいことがあるなら好きなだけ話せ」 俺はここで待っているから……と告げられた金蝉の心遣いを、三蔵はありがたいと思う。 「すまん」 ぶっきらぼうな礼を口にしながら、三蔵はドアをくぐっていく。 「……まだまだガキ、だな……あれも」 その背に向かって金蝉は小さく呟いた。幸か不幸か、それは三蔵の耳には届いていない。実際の所、三蔵にはそんな余裕がなかったと言うべきなのかもしれない。 三蔵の紫暗の瞳に映っているのは、ソファーの上で膝を抱えて小さくうずくまっている少年の姿。 三蔵の気配を察したのか、大地色の髪の毛が揺れた。 ゆっくりと黄金の瞳が現れる。 それが三蔵の姿を捕らえた瞬間、悟空の体が今までと違った意味で固まってしまった。 「……さ、んぞ……」 悟空の唇から信じられないと言うような声がこぼれ落ちる。 「テメェが勝手に誤解して大騒ぎをしてくれたんでな。一応、それだけでも正しておこうと思っただけだ」 そんな悟空へ向かって、三蔵はできうる限り優しい微笑みを浮かべて見せた。そしてゆっくりと近づいていく。 「俺はお前を嫌ってなんていねぇ。あの時、お前を無視したような形になったのは、迂闊に自分の気持ちを口に出さないようにだ」 でねぇと、嫌われると思ったんだよ……と三蔵は付け加える。 「三蔵?」 そんな彼に向かって、悟空は訳がわからないと言う表情を向けていた。 悟空はおそらくこの鈍感さで、そして、自分は自分の感情だけを見つめていたせいで、お互いの気持ちに気がつかなかったのだろうと三蔵は苦笑を浮かべる。 「……何、言ってんだよ……」 彼らしくないその仕草に、悟空は思わず問いかけの言葉を口にした。 「簡単だ。俺はお前を好きなんだよ。家族とかなんかと言ったそれではない意味でな」 嫌ってなんていねぇ……と付け加えられた言葉に、悟空は大きく目を見開く。次の瞬間、その瞳から大粒の涙があふれ出した。 「……この場合、妥協してやるしかねぇんだろうな」 俺も好き、といいながら三蔵に抱きつき盛大に泣き出した悟空の声を聞きつつ、金蝉がくしょうを浮かべる。 「まぁ、それなりに収支返しはさせて貰おうか」 そう呟く。 これが金蝉だけの思いでなかったことを三蔵が知るのはしばらく後のことだ。 とりあえず今は、悟空をどうやって泣きやませるか。 これから自分たちはどうするのか。 そのことだけで彼の頭はいっぱいだった…… 終
|