「ずいぶんとお早いおかえりですね」
 玄関をくぐった瞬間、光明のとげを含んだ声が飛んできた。
「……申し訳ありません……ちょっと話が弾んでしまって……」
 三蔵は素直に謝罪の言葉を口にしながら靴を脱ぐ。そして、そのまま彼の脇をすり抜けようとした。だが、それよりも一瞬早く光明の手か三蔵の二の腕を掴んだ。
「貴方も大学を卒業して、なおかつ半年間のお勤めを終えてきた身ですから朝帰りぐらいでは何も言いませんけどね……連日、これでは悟浄よりもたちが悪いですよ?」
 よりにもよって悟浄と比べるか……と三蔵は思う。だが、確かにそう言われてもしかたがないことは自分でもわかっていた。
「……返す言葉もありません……」
 それ以上に、今は光明の視線が怖い。
 何もかも見透かしているような彼のまなざしは、心の奥に罪悪感を抱いている三蔵にとって痛いどころの話ではなかった。
「まぁいいでしょう……今から口論をしてしまえば、朝のお勤めに支障が出ますからね。それが終わってからなら時間はたくさんありますし」
 じっくりと話し合いをしましょう……と光明は付け加える。
「ですが」
「言い訳は聞きません。今日はどこにも出かけずに、私と話をするのですよ、三蔵」
 いいですね、と告げる彼の瞳には剣呑な光が見える。つまり、それだけ本気で怒っているらしい。
「……わかりました……」
 そんな彼に逆らうとどんな目に遭わされるか、三蔵にはおぼろげながらわかってしまう。
 だが、自分の心の中をすべて話すわけにもいかない……と三蔵は心の中で呟く。そんなことをすれば、彼は間違いなく悲しむであろう。あるいは、その影響は他の者へとも及ぶかもしれない。
 他の誰ならともかく『彼』には自分の心の奥底にわだかまっているどろどろとした物を知られたくないのだ。そのためには、完璧に隠し通す必要がある。
(他の誰かならなんとでもなったんだろうがな)
 相手が光明ではかなりまずい。三蔵を襁褓の頃から育ててきたのだ。彼のほんのわずかな表情の違いを読みとることなどお手の物だろう。
「……朝食後でかまわないでしょうか……」
 できれば、他の連中が出かけた後で……と三蔵は付け加える。
「残念ですがそれは無理ですよ。悟空が寝込んでいますからね。八戒は一日看病するのだそうです」
 光明のこの言葉に、三蔵はぎょっとしたような表情を作った。
「熱でも出したのですか?」
 そんな彼の顔に、光明は初めて笑みを浮かべる。
「二日酔い……だそうですよ。悟浄が飲ませてしまったそうで。まぁ、今回ばかりは八戒も共犯だそうですからね。理由を聞いてしまえば、怒るに怒れません」
 笑みを深めながら告げられた言葉に、三蔵の眉は次第に寄っていく。
「……あいつらは……」
「貴方に怒る権利はありませんよ、三蔵。二人とも、悟空のためにやったのですから」
 本来であれば、それは三蔵の役目だろうと光明は言外に付け加える。
 それに三蔵は何も答えることができなかった。

 朝食の時間はかなり重苦しい雰囲気だったと言っていい。いつもなら場を空気を和ませてくれるはずの悟空が沈没していた……というだけではない。悟浄と八戒の二人が意味ありげな視線を三蔵に向けてきたというのもその理由の一つであろう。
(ウゼェ……)
 黙々と箸を動かしながら、三蔵は心の中でそう呟く。
 だが、二人の視線の意味が悟空に関わっているらしいことはわかる。だから、あえてそれについて口に出すことはしない。
 そんな三蔵の態度をどう受け止めたのか。
 悟浄と八戒は同時にため息をつく。
 どうしたものかと目配せを交わせ会う彼らに、
「まだ、何も言わないようにしてくださいね」
 光明が先を征するように声をかけた。
「……わかりました……」
 渋々といった様子で八戒が引き下がる。どうやら三蔵に対して山ほど言いたいことがあったらしい。それでも納得できないのか恨めしげな視線を投げつけてきていた。
「大丈夫ですよ。とりあえずこの後、きっちりと話をつけますから。貴方は悟空の世話をお願いしますね」
 二日酔いなんて初めての経験だろう。苦しんでいるだけではなく動けないことに不安を感じているのではないか……と光明は言外に付け加える。
「……わかりました……」
 渋々といった様子で八戒が引き下がった。どうやら、あくまでも三蔵の出方次第だと考えたらしい。
(……まったく……)
 厄介なことだ……とは思う。思うが、悟空のことを考えればしかたがないのか。だからこそ、自分の本心に気づかれるわけにはいかない、と三蔵は心の中で呟く。
「そう言えば、悟空、起きたんだっけ?」
 話題を変えようと言うのか。おかゆをすすっていた悟浄が八戒に問いかける。
「まだだと思いますよ。さっき覗いたときは熟睡していましたし……あれだけ酔っていれば、お昼ぐらいまで寝ているかもしれませんね」
 まぁ、ちょくちょく覗きに行きますから……と八戒は付け加えた。
「そうしてください。しかし、初飲酒がこれでは、本当に強烈な印象でしたでしょうね。まぁ、これで節度も覚えるでしょうし」
 これからは過ごさないようにちゃんと注意をしてあげてくださいね……と光明は口にする。
「……ついでに、悟浄の監視もしておきます。飲ませないように」
「それよりも、飲ませないようにしてください」
「……それって、何なんだよ〜〜!」
 三人が和気藹々と言葉を交わしている。その光景に、三蔵はどこか苦々しい思いを感じていた。話題が悟空のことであるだけに余計にかもしれない。しかし、その中に入る権利を手放したのも、また三蔵自身の選択だ。
(……あきらめるしかないんだろうな……)
 このまま苦々しい思いを自分がすることになったとしても、その方がいいのだ、と三蔵は自分に言い聞かせる。そんな彼を見つめる光明の視線に彼は気づかなかった。

「では、私の部屋でじっくりとお話をしましょうか」
 食事が終わった瞬間、光明が三蔵の襟首を掴んでこういった。
「僕は、悟空の様子を見てきます。悟浄も付き合ってくださいますよね?」
 八戒はそう言いながら悟浄の腕を掴む。そして引きずるようにして出て行った。おそらく、それは三蔵と光明が気兼ねなく話ができるように……と思ってのことだろう。その心遣いがありがたいのかどうか、三蔵には判断が付きかねる。
「これで盗み聞きの可能性は減りましたね」
 だが、光明は違ったらしい。こう呟いていた。
 なるほどと納得できてしまうことに、三蔵は思わずため息をついてしまう。
「そうされたくないのでしょう?」
 違いますか、と言われれば頷かずにはいられない。
「では、安心して本心を話してくださいね」
 にっこりと微笑む光明の笑顔がこれほど怖く感じたのは初めてだった。これが八戒であれば何度か感じたことはあったのだが……やはり、八戒のそれは光明の影響だったのか、と三蔵は改めて思う。
 この光明相手に、いったいどれだけごまかせるだろうか。
(だからといって、話してしまうわけにはいかないんだよな)
 内心ため息をつきつつ、三蔵は光明の後を付いていく。
 そうしているうちに、四人とは少し離れた場所にある光明の書斎へと辿り着いてしまった。
「あちらよりこちらの方が良さそうですからね」
 何が……とは問いかけなくてもわかる。彼の私室よりも書斎の方が防音設備が整っているのだ。男の子ばかり3人を育てることになった彼のささやかな贅沢だと言っていいだろう。
「さて……」
 三蔵を自分の正面へと座らせると光明は口火を切る。
「貴方が悟空に隠したがっているのは何なのですか?」
 ズバリ、と図星を指されて、三蔵は自分の表情を取り繕うのを忘れてしまった。そんな彼の様子に、光明は慈悲深い笑みを浮かべる。
「伊達に二十年以上も貴方の父親をしているわけではありませんからね」
 こう言われては、三蔵にしても降参をしないわけにはいかない。
 だが、と三蔵は心の中で呟く。
(いくら、父さんでもなぁ……)
 真実を口にすることはできないだろう。
 さて、何を言えばごまかすことができるか……と三蔵は表情を変えないまま考える。
「三蔵。無駄なことはやめておいてくださいね」
 ごまかそうとしても無駄ですよ、と光明がそんな三蔵に声をかけてきた。
「貴方の表情を読むのはたやすいことですからね」
 今何を考えていたのかもお見通しです……と付け加えられれば、三蔵にあきらめるしかないだろう。
「……そう言うわけではありませんでしたが……」
 ため息と共に三蔵はここに来て初めて口を開く。
「ただ、どう言えばいいのか……と思いましたので」
 それを考えていたのだ、と三蔵は告げる。その言葉はある意味嘘ではないから、光明を納得させられたらしい。 「そうですか」
 光明は穏やかな表情で頷いてみせる。
「でも、ここは二人だけですよ。別に貴方にまとまった意見を口にしろ……とは言いません。思っていることをすべて口にしてください」
 はなしているうちに考えがまとまるかもしれませんから……と付け加えられては三蔵に逃げ道などなくなってしまう。
「……俺は……」
 だが、まだ自分の心を告げるのにはためらいがある。
「俺は、悟空の側にいるべきではないと思うんです」
 それでも何とかこのセリフだけを口にした。
「どうしてですか?」
 当然のように光明はさらなる言葉を求めてくる。
「……俺の存在は……アイツのためになりません……」
 ため息と共に吐き出された言葉の意味を、光明がどう受け止めるのだろう。それは三蔵にもわからない。だが、できればこれだけで察して欲しいとも思う。
「そうは思いませんけどね、私は」
 だが、光明の口から出たのはこんなセリフだった。どうやら、彼は納得してくれないらしい。予想はしていたが、はっきり言って辛いと思ってしまう。
「あの子が貴方を慕っているのは事実です。今までは貴方も無条件であの子を可愛がっていたではないですか。いきなり突き放されたあの子の心がまた閉じこもってしまうとは思わないのですか?」
 これが八戒や悟浄であればまた違っただろうが……と光明は付け加える。彼らも、この家に引き取られる前は好ましいとは言えない環境に暮らしていた。だが、そんな彼らには近くに無条件で守ってくれる人がいたし、家庭以外に逃げ道もあった。他人と関わる方法も身につけていたのだ。
 だが、悟空は違う。
 ごく限られた場所だけで過ごしてきた悟空が外界に目を向け始めて、まだほんの数年なのだ。その方面での彼の情緒はまだまだ未熟だと言っていい。そして、悟空の救いは、間違いなく三蔵であるのだ。
 そんな彼が自分を見捨てようとしていると知れば、悟空の精神状態がどうなるかわかったものではない。
 光明は言外にそう告げる。
「……わかっています……でも、このままではもっとアイツを傷つけることになるのではないかと思うのです……」
 三蔵は苦しげな口調で光明に言葉を返した。
 そう。このままではいつか間違いなく悟空を傷つけてしまうだろう。その前に離れることだけが、自分にできる最良のことだと三蔵は考えたのだ。
「……あの子が貴方のすることで傷つくとは思いませんけどね」
 例えどのような感情をぶつけられても……と光明は口にする。その言葉は、彼が三蔵の隠そうとしている気持ちに気づいているようにも思えた。だが、決してそんなことはないと三蔵は考え直す。
「いえ。間違いなく俺はアイツを傷つけます。このままでは……」
 自分の感情を押しとどめることができなくなるだろう。
 その時のことを考えれば、三蔵は恐怖すら感じるのだ。
「……貴方があの子に対してどのような感情を抱いているのか……だいたい想像が付きますけどね。今の貴方の行動はそれに関してマイナスだとしか思えませんよ。逃げてばかりいては何も答えは見つかりません」
 そんな三蔵に光明は穏やかな口調で諭し始める。
「それに、あの子の気持ちを考えたことがありますか? あの子が貴方と同じ感情を持っていないとは限らないのでは?」
 むしろそうだとしたならば苦しむのは悟空の方であろうと光明は付け加える。
「自分の感情がどういう意味を持っているのか、あの子は理解できないでしょうし……それを誰かに相談すると言うこともできないでしょう?」
 今までその役目をしてきたのは三蔵だ。
 そのせいか、彼は他の誰かにその役割を求めることは少ない。全くないとは言わないが、一番信頼されているのは三蔵だと言っていい。
「……そのうち、俺の手なんて必要なくなりますよ……アイツには」
 今のまま三蔵が近づかなければ、悟空は他の誰かに助けを求めるようになるだろう。そうなれば、自分のことも忘れてくれるのでは……と三蔵は淡い期待を抱いていた。
「それはありません」
 だが、光明はきっぱりと言い切る。
「あの子にとって、貴方というのは特別な存在です。ある意味、あの子があの子であるためには貴方が必要だと言ってもいいくらいに」
 だから、真正面から向き合え、と光明は三蔵に言った。それはある意味命令だと言ってもいいかもしれない。
「……その結果、悟空がどう出るか。それはあの子の気持ち次第です。ですが、今のままよりも貴方や悟空にとっていい結果が出るでしょう」
 それとも、それができないようなことなのですか? そう問いかけてくる光明に、三蔵は白旗を揚げるしかない。
「……俺は……アイツに情欲を感じるんです……今はまだ押さえていられますが……それもどこまで持つか、自分に自信がありません」
 だから、押さえられているうちにのがしてやろうと思ったのだ……と三蔵は白状をする。
「……本当に、貴方達は……」
 この告白を聞いて、光明はため息をつく。
「それは、単にあの子の体だけが欲しいと言うことですか?」
「違います……俺は……」
 悟空の体だけではなくその心までも欲しいのだ、と言う言葉は口に出すことができなかった。
 今でも、悟空の心を一番占めているのは三蔵の存在だろう。
 だが、それだけでは今の自分は満足できないのだ。
 そんな自分の感情は醜いと言うことはわかっている。だから、それを悟空に押しつけるのだけはやめなければ……と思っていた。
 だが、光明はそれがいけないという。
「ともかく、せっかく高校に入学が決まって喜んでいる悟空を悲しませるような真似はやめてください。どうしても離れたいというのであれば、ちゃんとその理由を悟空に告げること。それができないようでしたら、貴方をしばらく菩薩の所に行かせますよ」
 はっきり言って、これは最大級の脅し文句なのではないだろうか。
 三蔵はそれにため息で答えた……