「……本当に、大丈夫なのか?」 珍しくも自分から起きてきた悟浄が、悟空に向かってこう問いかけている。 「……たぶん……」 一瞬、考え込んだ後、悟空はこう言葉を返す。 「教室、先生と二人だけだって言うし……今日は三蔵が一緒にいてくれるから……」 きっと大丈夫だろうと悟空は付け加える。 「そっか。三蔵が一緒なら大丈夫か」 まぁ、無理するんじゃねぇぞ……と口にした瞬間、悟浄は大きなあくびをした。その様子から、ひょっとしてこれを確かめたくて無理矢理起きてきたのだろうか……と悟空は推測をする。 「悟浄……あの……」 悟空がそれを確認しようかと口を開きかけたときだった。 「悟浄! ようやく帰ってきたのですか、貴方は……土日はともかく、平日の朝帰りはやめなさいと前に言いましたよね!」 八戒の厳しい声が飛んでくる。 「……何言ってんだよ。俺はちゃんと夜明け前に帰ってきたぞ」 しっかりと朝帰りではないと反論をするが、はっきり言ってその意味があるのだろうか。むしろ、八戒の怒りに火を注いだだけかもしれない。 「五十歩百歩でしょう! どちらにしても、高校生が帰ってくる時間じゃありません!」 そういう八戒のセリフはもっともな物なのだろう。だが、悟空は先ほどの一言から今は悟浄に味方をしてやりたいと思ってしまう。 「……八戒、あのさ……」 だからというわけではないのだが、おずおずと彼に声をかけてみた。 「あぁ、悟空。ご飯ができましたよ、と呼びに来たんでした」 どうやら、ここに来た目的を思い出したらしい。八戒は表情を豹変させるとこう声をかけてくる。 「今朝のご飯、何?」 無邪気な口調を作って、悟空はそんな八戒に聞き返した。 「今日は洋食ですよ。オムレツ、好きでしたでよね」 「何でも好き! 八戒が作ってくれるご飯、おいしいもん」 悟空は本当にうれしいという表情を作って、言葉を返す。それは間違いなく悟空の本心なのだ。 「では、大きめのを焼いてあげますよ」 既に悟浄の朝帰りのことは八戒の頭から抜け落ちているらしい。優しい口調でこういうと、悟空をリビングへと導いていく。その二人の後からついて行きながら、悟浄は悟空の背に向かって拝むような仕草をしていたのを、丁度トイレから出てきたばかりの三蔵が目撃したのだった。 「ったく……」 しょうがない奴だ……と言いながら、三蔵も彼らの後を追いかける。少し足を速めるだけで、簡単に悟浄へと追いついた。 「悟空にかばわれてんじゃねぇよ、この馬鹿」 そして、追い抜きざまにその後頭部を軽く殴る。 悟浄は一瞬むっとした表情を作った。だが、三蔵の言葉が否定できないのか、口を開くことはない。黙って三蔵の後に続いてリビングへと足を踏み入れた。 そこではもう悟空と光明が朝食を口にしている。 三蔵と八戒の分らしいものも用意できているのだが、どう見ても悟浄の分はない。 「……マジ……」 いくら何でもこれはないだろうと悟浄はその場に立ちつくしてしまう。 「何やっているんですか、悟浄。そんなところに突っ立っていると邪魔ですよ」 三蔵と自分の分のオムレツを用意してきたらしい八戒が、冷たい口調でこういった。 「んな事言われても、俺の飯……」 悟浄はショックを隠しきれない口調でこう呟く。 「寝不足の人に消化の悪いものは食べさせられませんでしょうが。ちゃんと用意してありますよ」 意地悪をするならもっと他の方法を使います、といいながら八戒はわざとらしいため息をついてみせる。 「そうですよ、悟浄。朝食をぬきにするのは体にも悪いですからね。安心して座りなさい」 光明にまでこう言われては座るしかないだろう。もっとも、その言葉の裏に隠れているものがあることに気がつかない悟浄ではない。彼の口からもまた溜め息がこぼれ落ちた。 「悟浄、喰う?」 ただ一人、悟空だけは本気で悟浄の朝食が用意されていないことを心配しているらしい。自分の皿からウィンナーを一つ箸でつまみ上げると悟浄へと差し出す。 「サンキュ」 反射的に悟浄はそれにかぶりついていた。 「まったく……マジで同レベルだな、テメェらは……」 あきれたように三蔵が言えば、 「悟空から食べ物をわけて貰うなんて、本当、あきれますね」 悟浄の分を持って戻ってきた八戒が冷たい口調で追い打ちをかける。 「二人とも。いいじゃないですか。悟空の優しい気持ちを大切にしてあげなさい。悟浄だって、悟空相手だから貰ったのでしょうし」 雰囲気が悪くなると判断をしたのだろう。光明が慌てて口を挟んできた。その言葉の裏には、せっかくの悟空の初登校に水を差すような真似はしないようにという無言の圧力があった。 「悪かったな……」 三蔵が仕方がないと言う口調で謝罪の言葉を口にする。それでも、一度おかしくなった雰囲気はすぐにはよくならない。 「悟浄、早く一緒に食べよう」 それに続いた悟空の明るい声でようやく元の雰囲気が戻ってくる。 「どうやら、飲酒もしているようですからね。おかゆにしました」 これなら消化もいいでしょう……と言いながら、八戒は悟浄の前にどんぶりを置く。その中には卵入りのおかゆが入っていた。 「お手数をおかけしました」 これ以上騒動を起こすつもりは悟浄には全くない。いただきますと付け加えると、おとなしく食事を始める。その隣で、八戒もまた朝食を食べ始めたのだった。 「気をつけて行ってきなさい。無理はしないようにね」 学校に行く準備を整えた悟空に向かって、光明がこう声をかける。 「大丈夫……だよな」 その言葉に、悟空はきっぱりと言い切ろうとして失敗した。その代わりというようにと隣に立っている三蔵を見上げる。 「行く前から不安になってんじゃねぇよ。大丈夫だと思っていれば大丈夫だ。第一、今日は2時間だけだしな」 それに俺も付いているだろうと付け加えられて、ようやく悟空はほっとしたような表情を作る。 「そうですね。三蔵が一緒でした。本当は、わたしもついて行きたいところなのですが……」 さすがに、法事がある以上それは無理だろう。仕方がないというようにため息をつく彼に、三蔵だけではなく八戒達も苦笑を浮かべる。 「お義父さん。そんなに心配していたら、悟空に不安が移ってしまいますよ」 八戒がさりげなくこう言えば、光明は微苦笑を返した。 「そうですね。でも、どうしても心配になってしまって……あなた方三人はいい性格をしていましたから、さほど心配はなかったのですが、悟空は素直ですからねぇ」 それに、この時間帯の電車に乗るのも初めてだろうと光明は口にする。 「途中までは僕たちも一緒ですし……悟浄がちゃんと体を張って守ってくれるはずですから」 もちろん僕もですけど……と付け加えるあたり、八戒も抜け目がないと言っていいのだろうか。 「と言うことだ。何も心配することはねぇぞ」 そんなことを思いながら、悟浄は悟空に笑いかける。 「うん」 その言葉に、悟空はうれしそうに笑って見せた。その表情を見て、悟浄は八戒の態度もまぁいいかと思ってしまう。 「みんなが一緒なら、大丈夫だよな」 安心してと言うよりは自分に言い聞かせるように悟空は口にする。どうやら、心の中ではやはり不安が渦巻いているらしい。だが、それを指摘すれば、悟空は学校に行くことをやめてしまうだろう。 「いざとなったら、寝てろ。着いたら起こしてやるから」 最終手段を伝授すると、三蔵は光明へと視線を向ける。 「と言うことですので、行ってきます。今日の様子は、帰ってきてから報告しますから」 言葉と共に、三蔵は他の三人に出かけるぞと合図をした。そして、先頭を切って歩き出す。八戒と悟浄もそれに遅れまいとするように歩き出した。 「行ってきます」 悟空は光明に挨拶をすると玄関を出て行く。 「いってらっしゃい」 光明の声がそんな四人を送り出した。 隼寺から駅までの道は悟空にしても歩き慣れた道である。その足取りに不安は見られない。 「悟浄、眠そうだよな」 あくびをした悟浄の様子をめざとく見つけられるだけの余裕もあった。 「しょうがねぇだろう。女が……」 それに言い返そうとした悟浄のセリフは最後までつづられることはなかった。 理由は簡単。 他の二人がそれ以上悟浄が何かを言う前に彼の口を封じたからである。 「女の人がどうしたんだ?」 だが、悟空にはどうしての彼ら悟浄のセリフを封じたのかわかっていないらしい。小首をかしげながら三人の顔を見つめている。 「……菩薩のババァが出てきて、買い物の山を持って追っかけてきたんだよ」 苦し紛れに、悟浄はこんなセリフを口にした。 「おばちゃんが? でも、それって、いつものことじゃないか」 別段怖くも何ともないよ、と悟空は真顔で答える。そのセリフにいったいどのような反応を返せばいいのか、三蔵は悩んでしまう。 「そうなのですか? てっきり、僕たち相手の時だけだとばかり思っていましたよ」 もっとも、八戒はそうではなかったらしい。軽い口調で言葉を返していた。 「うん。金蝉がそういってた。買い物に行ったときに、金蝉がついてって……でも、荷物を持ちきれなくなって天ちゃんを呼び出したんだってさ。それが毎回なんだって」 だが、次に言われた言葉にはさすがに絶句している。 「……捲簾先生も彼らと仲がいいのでしたよね……ひょっとして呼び出されなかったのは、学校があったからなのでしょうか……」 きっと彼も被害を被っているに違いないと呟きつつ、八戒は三蔵へと視線を向けた。 「機会があったらお聞きしてみてくれませんか?」 興味津々という表情で八戒は言葉を口にする。 「機会があったらな。あくまでも、メインは悟空だって言うのを忘れんじゃねぇ」 悟空が学校に行きたくないと言い出さないようにする方が先決だろうが、と付け加えられて、八戒もようやく我に返ったようだった。 「そうでしたね。そのことに関しては、家庭訪問の時にでもお聞きできますし……余計なことをお願いして悟空に『学校に行きたくない』なんて言われたら困りますね」 八戒は優しい微笑みを悟空に向ける。その視線に、悟空は少し困ったような表情を作った。 「俺、言っちゃいけないこと言ったのか?」 その表情のまま問いかけたのは、三蔵ではなく悟浄だった。どうやら、今の会話に参加していなかった……というのがその理由らしい。 「んなことねぇって。八戒はご近所のおばさま方とあれこれお話ししているから、ついつい思考がそっち方面に向いちまうんだろう」 俺としても興味がない訳じゃないんだけどな……と付け加えることで、八戒をさりげなくフォローする。元々は自分の失言が発端だとわかってたのだ。ついでに、ここで八戒を怒らせると、悟空達と分かれた後で何をされるかわかったものではないという理由もあったりする。 「……本当?」 悟浄のセリフにほんの少しだけ励まされたのだろう。悟空は三蔵達にも問いかける。 「……否定できねぇな……」 「悟浄に指摘されたのは、ちょっとショックですけどね」 二人とも、悟空の手前か――それとも図星を指されたからか――さらりと受け流した。 「……ならいいけど……ケンカするなよな」 最後の一言は八戒に向けてのセリフである。 「もちろんですよ」 内心どう思っているのかはわからないが、八戒はとっておきの笑顔付きで即答する。その事実に悟浄はこっそりと胸をなで下ろした。ついでに、また悟空に借りができたと心の中で呟く。 「だから安心して学校に行ってくださいね」 八戒の言葉に悟空は素直に頷いた。 そんな悟空の側に三人はさりげなく壁を作り始める。駅が近くなったとたん、人が増えたのだ。 「悟空、気持ち悪くなったらそうそうに言え」 改札口の前まできた瞬間、悟空の足取りが重くなった。それに気がついた三蔵がいつもの口調でこう話しかける。 「……大丈夫だと思うんだけど……」 この人の多さに緊張を隠せない様子で悟空が答えた。同時に、さりげなくその小さな体を三蔵へとすり寄せていく。 「確かにこの光景は、慣れている俺らでも怖いもんがあるからな」 悟空を励まそうというのだろう。悟浄がこう言いながら悟空の頭に手を置いた。 「まぁ、俺はでかいからな。つぶされることはねぇだろうよ。しっかりと後を着いてくるんだな」 三蔵に着いてきて貰えば、間に人が割り込んでくることはねぇだろうし……と続ける言葉に、八戒も頷いてみせる。 「定期の使い方は覚えていますよね? 大丈夫ですよ」 そして、悟空を安心させるように微笑みかけた。 「うん」 まだどこかいつもの笑顔とは違う表情を浮かべた悟空は、それでも八戒の言葉に頷いて見せる。 「結局、これも慣れだからな」 三蔵は言葉と共に悟空の背を押す。それに促されるように悟空は歩き始めた。 自動改札を抜け、ホームへと向かう。その間にも、悟空は思わず人混みにさらわれそうになってしまう。そのたびに三蔵が手を伸ばして、その体を自分の方へと引き寄せた。 そのせいだろうか。 電車に乗ったときにはもう、悟空は疲れ切ったような表情を作っている。 しかし、この混雑の中では、悟空が座れるわけはない。 「悟空、大丈夫ですか?」 八戒が心配そうに問いかける。そんな彼も、体を張って悟空を他の人間から話すための空間を作っているために、うかつなことができない。 「悟浄に寄っかかってろ」 三蔵は周囲の様子を確認してこう言う。 「ですね。悟浄は丈夫ですから、大丈夫ですよ」 八戒も同意したのを聞いて、悟空は斜め後ろにいる悟浄を見上げる。 「そういうこと。学校に着いたとたん倒れるのはつまんねぇだろう?」 言葉と共に、悟浄の手が悟空を自分の体へと寄りかからせた。背中から伝わってくる悟浄の体温に安心したのか、悟空は小さくため息をつく。 「この混雑も、僕たちが降りる駅までですから。これからもちゃんとついたてがありますから安心してくださいね」 「……ついたてって俺のことかよ」 八戒のセリフを耳にした瞬間、悟浄は思わずぼやいてしまう。そのセリフは、しっかりと八戒の耳に届いた。 「当然でしょう? それ以外、何の役に立つんですか、貴方は。悟空よりもお手伝いできないでしょう?」 一言言えば十倍になって返ってくる……と言うほどではないが、それでも倍にはなっているのではないだろうか。 「できないんじゃなくて、しないんだよ!」 無駄とは知りつつも、悟浄は反論を試みる。 「悟空の前だからと言って、見栄を張らなくてもいいんですよ」 含み笑いと共に八戒がこう言い返す。そんな彼の態度に、悟浄は憮然とした表情を作った。同時に、これが今朝の仕返しかもしれないとも思う。 「見栄なんか張ってねぇよ」 しかし、ここでケンカをするわけにはいかないだろう。第一、そのようなことをしたら悟空が悲しむと、悟浄は必死に自分を押さえてこういった。 「じゃぁ、証拠を見せて貰いましょうか。そうですね。今度の日曜日、掃除と洗濯をお願いしましょう」 当然できますよね……と言われて、悟浄はまんまと八戒にのせられたと悟る。 「ったく……やらせて頂きますよ、やらせて」 まだ、飯の支度まで押しつけられなかっただけでもましか……と思い直して悟浄は言葉を口にした。ついでに、デートの約束がなかったことも理由の一つであったことは否めない。 「だそうですよ、悟空。悟浄の仕事ぶりを見せて貰いましょうね」 めまぐるしい会話の内容に眼を白黒させていた悟空に、八戒が声をかける。しかし、それにどう答えていいのか、悟空には判断できないようだった。困ったようなまなざしで三蔵を見つめてくる。 「悟浄のお手並み拝見と言うところだな。そういえば、父さんと出かける約束をしていたんじゃねぇのか? 安心して押しつけろ」 丁度よかったろうと言われれば、そうかもしれないと悟空は考えた。 「でも、出かけたら、悟浄の仕事ぶりみれねぇんじゃ……」 だが次の瞬間、思い出したというように呟く。 「俺と八戒がみてれば大丈夫だろう。父さんも楽しみにしているんだから、行ってこい」 とっさに三蔵が口にしたセリフで、ようやく納得したらしい。悟空は素直に頷いた。 まるでそのタイミングを待っていたかのように、車内にアナウンスが流れる。 「悟空、三蔵にしがみついていてください。みんな降りますし……悟浄も僕もここで降りますから」 「三蔵、ほれ」 八戒の言葉と共に悟浄の腕が悟空を三蔵の方へと押し出す。突然のことにバランスを崩した悟空は、八戒の言葉通り三蔵へとすがりつくはめになってしまった。 「と言うことで、またな」 「夕飯も、悟空の好きなものを作ってあげますから、がんばって勉強してきてくださいね」 ドアが開くと同時に、二人はこう言い残して電車を降りていく。いや、彼らだけではなく、この駅でほとんどの乗客が降りていった。逆に乗り込んできた者もいたが、車内の人口密度は十分の一ぐらいになってしまっただろう。 「次の次だ。具合は悪くないな?」 動き出したことを確認して、三蔵は悟空の体勢を整えてやる。そして、彼の顔を覗き込みながらこう問いかけてきた。 「うん……なんか、ぼぉっとしてて、気がついたらここまで来てたしさ」 でも、ちょっと疲れたかも……と笑う悟空に、三蔵もうっすらと微笑み返す。 「って事は、悟浄と八戒のどつき漫才もたまには役に立つってことか」 まぁ、ほめてやろうという三蔵の言葉が適切なのかどうか、悟空には判断つきかねた。 その後、具合を悪くすることなく学校に最寄りの駅で降りた悟空と三蔵だった。しかし、学校が近づくにつれて、悟空の様子がおかしくなってくる。 「どうした?」 こう問いかけながらも、三蔵にはその理由がだいたい想像着いていた。前回、ここに来たときのあれこれを思い出したのだろう。同時に、また同じような状況になったらと不安になっているらしい。 「……何でもねぇ……」 こう言いながらも、悟空はすがりつくように三蔵の服の裾を握りしめてきた。その指が細かく震えていたことに、三蔵はしっかりと気がついてしまう。 「初めからそんなに身構えるんじゃねぇ。余計具合が悪くなるぞ」 気楽にいけ、気楽に……といいながら、三蔵は上から悟空の手を包み込んでやる。ついでに自分がいると言うことを教え込むかのように力を込めた。 「わかってんだけど……」 何か怖いのだと悟空は正直に口にする。 (……門をくぐってしまえば、少しはマシになるか……) 段階を踏んで不安を解消してやらなければならない。その第一関門が目の前にある校門なのだろう。しかも、今は他の生徒達も登校する時間なのだ。知らない生徒がたくさんいると言うことも悟空の不安を煽っているのかもしれない。 (失敗したな。今週ぐらいは時間をずらして貰うべきだったか) 三蔵が心の中でこう呟いたときである。 「悟空!」 二人の耳に那托の声が届いた。視線を向ければ、校門のところで大きく手を振っている彼の姿が見えた。 「那托?」 その瞬間、悟空の体から震えが消える。 「何で?」 言葉と共に、悟空は三蔵から離れて彼の方へと歩み寄っていく。 「捲簾先生がさ。今日から悟空が学校に来るって教えてくれたから、待っててやろうと思って」 朝から待ってたんだ……と那托は笑ってみせる。 「そっか……ごめん」 「何言ってんだよ。友達なら当然のことじゃだろう」 那托の存在だけで悟空から不安がきれいに消えていた。おそらく、それをねらって捲簾は那托に声をかけたのだろう。その配慮に、三蔵は感心してしまった。 「それより、早く中はいろうぜ。注目を浴びたいって言うなら、話は別だけどさ」 このセリフとともに、那托は悟空の腕を引っ張って昇降口の方へと歩き始める。 「悪い、那托。今日は昇降口ではなく、来賓用玄関からだ」 そのまま昇降口から入られては困ると、三蔵は慌てて止めた。 「そうなのですか?」 「あぁ。事務室で手続きをする関係でな。回ってきてくれるとありがたいんだが」 でなければ、玄関まで付いて来てくれるだけでも、悟空にとってはいいだろうと三蔵は考えていた。 「わかりました。事務室の前で待っててくれればすぐに行きますよ」 でないと、不安だろうし……と那托は笑ってみせる。 「いい子だな、那托は」 受け答えを聞いても、気持ちがいい。だから、ついついとっておきの笑顔を向けてしまうのだろう。 「だったら、こっちから行った方が近いぞ」 今度こそ、と那托は悟空を引っ張って走り出す。引きずられるように悟空も走り出した。 「お子様は元気だな」 そんな二人の後を追いかけながら、三蔵の頬には柔らかな笑みを浮かべる。そして、二人に置いて行かれないようにと歩を早めた。 校庭を大きく回っていくコースを選んだのは、悟空にあまり注目を集めないためだったらしい。誰からも声をかけられることなく、三人は来賓用の玄関まで辿り着いた。 「じゃ、俺はあっちから回ってくるから……ちゃんと待ってろよ。教室までつき合うことにしてるんだし」 いいな、と言い残すと那托は昇降口へ向かって駆け出していく。 「……三蔵……」 待ってていいのか、と悟空の視線が問いかけてきた。 「手続きに時間がかかるだろうからな。あの調子だと、こっちが待たせることになるかもしれねぇぞ」 ぽんっと悟空の頭を叩くと、玄関の脇に作られている事務室との連絡用の小窓に三蔵は近づいていく。 「すみません。今日から特別教室の方でお世話になることになっている玄奘ですが……こちらにまず顔を出すようにと言われまして……」 そして、中に向かってこう声をかける。その背を見つめながら、悟空は所在なげに立ちつくしていた。 「……早く、那托が来るとうれしいかもな……」 少なくとも一人じゃなくなるし……と呟く悟空は、半年前までは一人でいることが普通だった事に気がついているのだろうか。 (まぁ、いい傾向なんだろうな) そのつぶやきをしっかりと聞き取った三蔵は、心の中でそう呟いた。 「……疲れた……」 お昼前に自宅に帰り着いた悟空がぼやく声が三蔵の耳に届く。 「確かに、あれじゃな」 その悟空の体を引きずるようにして廊下を歩きながら、三蔵は同意の言葉を漏らす。 悟空が注目をされていないと思ったのは、まったく誤解だったのだ。二時間目と三時間目の間の休み時間、クラスメート達を引きつれて那托が教室までやってきたことで、その事実が二人にもしっかりとわかってしまった。 「ごめん……みんなにばれちゃって……」 那托が本気ですまなそうに呟く。しかし、悟空はそれに答えることができなかった。初対面の面々を目の前にして、思い切り硬直していたのだ。 「こらこら。こちらに来るには許可がいると知ってるだろう? 那托には許可を出しているが、それ以外には出していない。さっさと戻りなさい」 捲簾がこう言ってくれなければ、間違いなく悟空はパニックを起こしていたことだろう。 (これで、明日から悟空が学校に行きたくないと言い出さなければいいんだが……) 三蔵が真っ先に心配したのはそのことだった。しかし、捲簾と那托のおかげでそれだけは避けられたらしい。明日もとりあえず行くと悟空は約束をしたのだ。 その事実にほっと胸をなで下ろしつつ、今日は一日甘えさせてやろうと三蔵は考えている。 「ともかく、飯喰ったら、昼寝でもしろ。父さん達が帰ってくれば、間違いなく今日のことをあれこれ聞かれるに決まっているからな」 悟空の部屋の前までたどりついたところで、三蔵はこう口にする。 「三蔵は?」 自分が寝ている間に、どこかに行ってしまうのだろうか……と悟空は言外に問いかけてきた。 「レポートが書き上がる間ぐらいは、側にいてやるよ」 だから安心しろ……と言われて、ようやく悟空は微笑みを返してくる。 「毎日、三蔵が一緒に行ってくれるなら、学校、続けていってもいいな」 この言葉に、三蔵が複雑な表情を作ったのは言うまでもないであろう。 終
|