「そろそろ悟空もかなり慣れてきたようだし……学校に行ってみませんか?」
 光明のこのセリフを聞いた瞬間、悟空の表情がこわばる。
「あぁ、すみません。言葉が足りませんでしたね」
 その表情を見た光明が慌てて次の言葉を口にした。
「朱泱は覚えていますよね?」
 この前のキャンプの時に知り合った相手の名前に、悟空はこくんと頷いてみせる。
「彼が責任者を務めている学校が、うちの宗派にはあるのですよ。そこに、いろいろな都合で学校に行けない子供達のための教室もあるのです。そこを覗いてみませんか、と言うことなのですが……」
 別段、通学をしなさいと無理強いをする気はありませんよ……とあくまでも穏やかな口調で告げた。しかし、悟空の表情はまだこわばったままである。
「丁度三蔵が、校外実習で行くことになっていたのですよね?」
 こうなったら最後の手段というように光明は話題を三蔵に振った。すると、予想通り悟空は――まだぎくしゃくとした動きだが――視線を三蔵へと向ける。
 本当なのかと問いかけてきた視線に、三蔵は小さくため息をついた。そして、自分を巻き込んでくれた光明を恨めしそうににらみつける。それを光明は平然とした表情で受け止めていた。
 そのままどのくらい二人はにらみ合っていたのだろうか。
「……三蔵……」
 不安になったらしい悟空が、おずおずと声をかけてきたほどだ。
「なんでもねぇ」
「すみません。貴方の話なのに無視をしてしまいましたね」
 慌てて二人は言葉を口にする。
「俺が行くのは、あくまでも授業の一環だ。だが、お前が行ってみたいって言うのであれば、別の日に都合をつけてつきあってやるが?」
 そして、三蔵はすかさずこういった。
「……もう少し、考えてもいい?」
 悟空は小さな声でこう問いかける。どう考えてもすぐには答えが出せないと悟空は結論を出したのだ。
「もちろんですよ。嫌々行ってもいい結果は出ませんし、貴方も楽しくないでしょう? ゆっくりと考えて、行ってもいいと思えたら行ってみればいいのです」
 悟空が否定をしなかったという事実にほっとしながら、光明は言葉を口にする。
「自分だけで判断できなくなったら、誰でもいいですから相談をしてくださいね」
「でも、悟浄だけはやめておいた方がいいかもしれないな」
 せっかくの光明の言葉だが、三蔵は悟空にこう注意をした。
「……それは……そうかもしれませんねぇ……」
 学校なんて行くのは面倒だ……と言っている悟浄のことだ。あるいは学校に行く必要はないとまで言いかねないと思い当たった光明も頷いてみせる。
「時間はまだまだありますし、ゆっくりと考えてみてください。あぁ、那托君に学校のことを聞いてみるのもいいかもしれませんね」
 それに関しては逆効果になるかもしれないな……と三蔵は心の中でつぶやく。だが、あえて口にしなかった。
「……うん、そうしてみる」
 それはもっともだと判断をした悟空が素直に頷いたからだ。彼が自分でそう判断した異常、自分が口を出すことではない。ただ、いつでも手助けはできるようにしておいてやろうと心の中でつぶやいた。

「学校? あんなもん、楽しくねぇぞ」
 悟空の質問に対し、那托が返したのはこんなセリフだった。
「自分たちとちょっと違うだけでさ、あれこれ陰口は言うし、仲間はずれにはしてくれるし……まぁ、今の学校ではんな事ねぇけど」
 でも、やっぱりなんか疎外感があるんだけど……これって、転校したせいかもしれない、と那托は付け加える。
「……そう、何だ……」
 その瞬間、悟空は不安そうな表情を作った。
「でも、お前が来てくれたら、少なくとも休み時間は楽しくなるかもしれないな」
 慌てて那托はこう付け加える。悟空が学校のことを聞こうとしたのは、ひょっとして彼が学校に行ってみようかと思ったのではないかと判断したのだ。そして、その決意を自分が打ち砕くことはしてはいけないと思う。
「……どうして?」
 自分が行けば休み時間が楽しくなるのだろうと悟空は小首をかしげる。
「どうしてって、お前が行く学校って、俺と同じ所だろう?」
 この前のキャンプのこともあるし……と那托は付け加えた。しかし、悟空にはどうしてそれがイコールなのか理解できない。
「……だって、あれは朱泱さんとおじさんが知り合いだから……」
 無理を通してもらえたって……と悟空は付け加える。
「だからだよ。俺が行ってる学校の校長って、朱泱さんだもん」
 おじさんだって、その方が安心だろうし……と言う那托のセリフも悟空にはもっともらしく思えた。しかし、それと那托のセリフとの関連性が学校に行ったことのない悟空には理解できないのだ。
「でも……クラスがいくつもあるんだろう?」
 悟浄達のセリフからこの程度の知識はある。だが、クラスが違っても遊べるものなのだろうか……と悟空は言外に問いかけた。
「あそっか……学校、行ったことがないって言ってたっけ」
 それ以外にも、家から外に出るようになったのも最近のことだし、友達ができたのも、那托が初めてなのだ。
「学校って言うのは、時間で区切られてんだよ。だから、休み時間はみんな一緒。他のクラスのやつとも遊べるってわけ」
「そうなんだ」
 ようやく納得できた、と言うように悟空は頷いてみせる。
「でも、知らない人がたくさんいるのは、やっぱ、苦手……って言うより、いやかも……」
 ほっとしたせいか、ついつい本音まで漏らしてしまう。
「だけどさ。お前の場合はすぐに普通のクラスには入らないと思うぞ。慣れるまでは特別教室の方だろうし……」
 俺もそっちの方がいいんだけどな、と那托は笑って見せた。
「……だめだ……わけわかんねぇ……」
 学校という仕組みがよくわからないのに、さらにあれこれ言われて、悟空の頭は完全に飽和状態になってしまったらしい。苦笑を浮かべつつ頭を振っている。
「やっぱ、実際に体験してみるしかねぇんじゃねぇの? それなら一発だぞ」
 結局、那托もそう言う結論に達してしまったらしい。
「何なら、俺が案内するからさ」
 ひょっとしたら、授業がさぼれるかもしれない……と那托が言いだしたその瞬間である。
「だめですよ。小学校の頃からそんなことを言っちゃ」
 おやつが乗ったお盆を持ってにっこりと微笑んだ八戒が、彼の背後に立っていた。
「うわっ!」
 そのタイミングの良さに、那托は思わず叫び声をあげてしまう。
「ひどいですね。せっかくおやつを持ってきてあげましたのに」
 那托の行動に苦笑を浮かべつつ――だからといって、何をしようと言うわけではないらしい――八戒はお盆を二人の前に置いた。
「だって、急に声をかけてくるんだもん……」
 驚くだろう、普通……と那托は主張をする。
「すみませんね。でも、授業をさぼるなんて言われるとどうしても注意をしなければ……と思ってしまったので」
 でないと、悟浄になってしまいますから……と付け加える八戒に反論をする気力は二人にはなかった。

 実際に見てみれば……という那托のセリフで、悟空は学校を見学してみようか……という気持ちになったようだ。
 悟空がおずおずとした口調でそう告げると、光明はうれしそうな表情で頷いている。
「わかりました。では、見学の許可を取ってあげましょうね。三蔵も、予定を空けておいてくださいね」
 言葉が終わらないうちに光明は腰を上げた。そして、そのまままっすぐに電話へと歩み寄っていく。
「ずいぶんとまぁ、うれしそうだな」
 それ以外なんと言えばいいのかわからない……というように悟浄が口にした。
「悟空が自分から人が多いところにいってみたい……と、口にしたからでしょう。僕もお義父さんの気持ちはわかりますね」
 最初にあったときのことを考えれば、余計に……と八戒は微笑んでみせる。
「まぁ、言われてみればそうだけどぉ……逆効果にならねぇといいよな」
 学校にいるやつは本当に千差万別だし、中には悟空の目を気味悪がるやつもいるのではないか……と悟浄は言外に付け加えた。もっとも、それがわかったのは悟空以外の人間だけだったが。
「だから、俺が着いてくんだろうが」
 一気に不安そうになった悟空を自分の膝の上に引き寄せながら、三蔵は悟浄をにらみつける。
「第一、てめぇがそうだったからと言って、こいつまで不安がらせるんじゃねぇ!」
 その言葉に、悟空は目を丸くすると三蔵を見上げた。そして、その表情のまま、今度は悟浄へと視線を移す。
「どうしました、悟空?」
 それを見つけた八戒がこう問いかけてくる。
「那托は仲間はずれにされたことがあるって言ってたけど、悟浄もあるのか? それって、普通にあることなの?」
 不安を通り越して恐怖すら覚えているのだろう。悟空は泣きそうになりながらこう口にした。
「普通にはありませんよ。悟浄と那托が特殊な例だっだと言うだけです。実際、僕はいじめられたことも仲間はずれにされたこともありませんし……」
 慌てたように八戒が口を開く。
「俺もないぞ」
 だから安心しろと三蔵も付け加える。
「那托の事情は知らないが、悟浄が仲間はずれにされたのはな、小学校の頃から手当たり次第女に声をかけていたせいだ。言動のせいだから、あまり気にするんじゃねぇ。それに、目立つと言えば、俺の髪や目の色だってかなり目立つだろうが」
 言われてみれば、三蔵のようなきれいな黄金の髪というのを悟空は見たことがない。目立つと言えばかなり目立つだろう。それでもいじめられなかったというのであれば、自分も大丈夫なのだろうか……と悟空は考える。
 本当のところは、彼のあの無関心さで、いじめられようが仲間はずれにされようが気にしなかったというのが正しい。しかし、それを口にした場合、三蔵と八戒からどのような目に遭わされるかわかっている悟浄は、賢明にも口をつぐむ。
「来週の火曜日に案内をしてくれるそうですよ」
 そこに、電話を終わらせた光明が戻ってきた。
「ところで、どうかしたのですか? 雰囲気がおかしいようですが……」
 そして四人の姿を見たところでこう問いかけてくる。
「ちょっと悟浄が悟空をからかっただけです」
 それで悟空がむくれてしまったのだと八戒はしれっとした口調で口にした。
「……悟浄……どうして貴方はそう言うことをするのですか」
 即座に光明の注意が悟浄に飛ぶ。
「いくら三蔵達にいじめられているとは言え、小さな子供に当たることはないでしょう?」
 いったいどうすればそう言うことになるのか……と三蔵は頭を抱えたくなる。
「三蔵と八戒、悟浄いじめてんのか?」
 その上、悟空が知らなかったというようにこう聞いてきたからなおさらだ。
「違いますよ、悟空。悟浄が馬鹿なことをするから注意をしているだけです」
 八戒の言葉に、悟空はそうなのかと納得をしかける。しかし、もう一方の当事者にしてみれば納得できないないようだ。
「嘘つけ! どう考えてもいじめだろうが!」
 光明の注意がとぎれたのをいいことに、しっかりと反論を返す。
「……三蔵……」
 いったいどちらが正しいのか……というように悟空は三蔵に問いかける。
「ほっとけ……あれはただのじゃれあいだ」
 好きでやっているんだから、といいながら三蔵は悟空の体を膝の上から下ろした。そしてそのまま腰を上げる。
「三蔵?」
「部屋行くぞ」
 いったいどうしたのだろうと不安そうな視線を向けてきた悟空に、三蔵はこう言葉を返す。
「うん」
 三蔵の部屋に行くのは久しぶりだ……と言いつつ、悟空も立ち上がる。そして、まだ口論を続けている悟浄と八戒を尻目に廊下へと出て行った。

「……おばちゃんに天ちゃん?」
 学校に着いた瞬間、出迎えに出てきた人々の中に顔見知りの人間を見つけた悟空はただでさえ大きな瞳をさらに丸くした。
「よぉ」
 その声に答えるかのように、菩薩が笑いながら片手をあげる。
「ちびが学校を見に来るって聞いてな、俺もつきあおうと思っただけだ」
「僕の方は、ちょっと相談事があると呼び出されまして」
 菩薩のセリフの後に天蓬がにこやかに付け加えた。
「……ガキ一人に何人大人が着いてくる気だ……」
 二人のセリフを聞いた瞬間、三蔵があきれたようにこう口にする。実際、このセリフで光明も着いてくると言ったのを押しとどめたばかりなのだ。
「いいじゃねぇか」
「よくねぇだろうが。こいつが目立ちすぎる」
 それでいじめの対象になったらどうするんだ……と三蔵は菩薩をにらみつける。
「そう言う児童はこの学校にはいないと思うがな」
 なぁ、と菩薩は側にいた朱泱と天蓬に同意を求めた。
「もちろんだとも」
「少なくとも、捲簾からは聞いたことがありませんね」
 自信満々な口調で朱泱が言えば、天蓬も親友の名をあげて同意を示す。
「とはいうものの、悟空のためにはあまり目立たない方がいいだろうな。特別教室の教師で手が空いているやつに案内させる。悟空と三蔵と三人で見学をしてくればいい」
 その間に、俺はこちらの用事を済ませるから……と朱泱は磊落に笑って見せた。その心遣いに、三蔵は素直に礼を口にする。
「気にしなくていいって。光明様だけではなく、こちらの方からも脅迫混じりに頼まれているし……それに、悟空がいい子だとわかっているからな」
 どうせなら、ここに通学して貰いたい……といいながら朱泱は足を職員室へと向けた。その言葉に、嘘はないだろう。
「……三蔵……」
 悟空が困惑したような表情で三蔵を見上げてくる。
「本気だな、あの口調だと……まぁ、決めるのはテメェだ。本気でいやなら、父さんも無理に行けとは言わないさ」
 だから安心しろ……という彼に、悟空は違うと首を横に振って見せた。
「悟空?」
「……おばちゃん、まだいるのかな……帰るとき、一緒じゃないよね?」
 三蔵の呼びかけに悟空が不安そうに口にしたのはこんなセリフだった。その口調から、菩薩が自分たちの所へつれてくる前に悟空に何かろくでもない――これはあくまでも三蔵の常識からしてである――ことをしたのではないかと推測をする。
「……天蓬さんも一緒だから、大丈夫だろうが……何か言ってきたらタクシーでまっすぐ帰ればいいだろう」
 だから余計な心配までするな、と三蔵は付け加えた。でないと、悟空の脳が許容範囲を超えてしまって知恵熱で倒れてしまいかねないのだ。
「わかった」
 悟空の方は悟空で、三蔵に任せておけばいいと判断したのだろう。ほんの少しだけほっとしたような表情を作る。
「待たせたな」
 そこに朱泱が戻ってきた。
「悟空はこいつと顔見知りだったんだったかな? こいつが捲簾だ」
 朱泱にこう言われて、悟空はその斜め後ろにいる男に視線を移す。
「前に天蓬と一緒に会ったよな?」
 こう言って笑いかけてくる相手に、悟空は頷いて見せた。
「釣りのお兄ちゃんだ」
 そして、確認をするようにこう言葉を口にする。
「おうよ。覚えていてくれたか」
 悟空の言葉に、捲簾はにやりと笑って見せた。
「あん時は楽しかっただろう? また今度、時間があったら一緒に行こうぜ」
 言葉とともに天蓬の手が悟空の髪を撫でる。その感触にどこか違和感を感じているのか、悟空は目を丸くしていた。
「捲簾先生、個人的な話は後でもいいだろう? とりあえず、休み時間にならないうちに案内をしてやってくれ」
 でねぇと、知らねぇ子供達に囲まれて、悟空が困るだろうと朱泱が付け加える。
「ですね。まぁ、そう言うことは俺の教室でやればいいのか……」
 じゃ、早々に案内をしますか……と捲簾は二人を手招く。そして、そのまま歩き出した。三蔵もまた悩んでいる悟空の背を押して促すと歩き始める。
 学校の中というのは、どんなところでもほとんど代わり映えがしない。まして、ここは三蔵にとっても母校に当たる。今更案内をして貰う必要はないのだが、今回の主役はあくまでも悟空だ。彼にしてみれば、すべて珍しいものであるようだ。
「好奇心いっぱいだな。いいことだ」
 理科室のたなをあれこれ興味深げに眺めている悟空に、捲簾はこんな感想を抱く。
「すみませんが、お聞きしてもかまいませんか?」
 そんな彼の耳に、三蔵の言葉が届いた。
「何かな?」
 悟空から目を離すことなく捲簾は三蔵に言葉を返す。
「……あいつと釣りに行かれたんですよね?」
「あぁ」
「その時、貴方を怖がりませんでしたか? あいつ、初対面の相手を怖がったと思いますけど……」
 いったい何をと思っていた捲簾の耳に、三蔵の問いが届いた。
「あぁ、そう言うことね。俺が連れてったときはもう何度か顔を合わせた後だったし……金蝉が紹介してくれたから、あいつの態度もかなりましだったな。それに、釣りの時はほとんどしゃべらねぇし」
 未だに初対面の相手はだめなのか? と捲簾は逆に聞き返す。
「側に来られるのはかなり我慢できるようになりましたけどね。話しかけられたり触れられたりするのはだめだ」
 相手が教師だからとできるだけ丁寧な口調で話すつもりだったのだが、最後にぼろが出てしまう。だが、捲簾は気にした様子を見せない。
「やっぱ、十年近く他人とほとんど接触しない生活を送っていたせいだろうな。って事は、一対一でじっくりと相手をしつつ、少しずつ交友関係を広げていく……というのがいいのか」
 口にしている内容は、悟空が通学してからの交友関係らしい。その事実に苦笑を浮かべつつ、
「那托とは仲がいいですよ」
 と三蔵は脇から口を挟んだ。
「那托……というと、あの子か……あの子もいい子なんだが……周囲から浮き上がっているからな」
 それでも、友達が一人いるのといないのとでは雲泥の差か……と捲簾は付け加える。
「悟空?」
 ふっと気がつくと、三蔵達の目の前から悟空の姿が消えていた。慌てて三蔵が彼の名を呼べば、
「……ここ……」
 小さな声が下の方から答えを返してきた。視線を向ければ、実験台のあいだで震えている悟空の姿が見える。
「どうした?」
 予想もしていなかった彼の態度に眉をひそめながら、三蔵は大股に彼の元へと歩み寄った。そして、その体を抱きかかえる。
「……いるの……」
 三蔵の問いかけに、悟空は泣きそうな声でこう口にした。
「いる? 何がだ??」
 ゴキブリや何か程度では悟空はこんな態度を示さない。と言うことはもっとやっかいなものがいると言うことだろう。それが何なのか……というように三蔵は視線を捲簾へと移した。
「何がいるって言うんだ」
 もっとも、捲簾の方もすぐに思い当たるものはないらしい。
「人体模型はここのたなの中だし、別段、解剖標本もなにもこちらにはおいていないぞ」
 首をひねりながら、悟空が先ほどまでいた場所へと捲簾は移動する。そして周囲を見回した。
 その動きが不意に止まる。
「いったい……」
 こうつぶやきながら、三蔵は捲簾の視線の先を探る。
「げっ!」
 次の瞬間、三蔵も思わず固まってしまった。
「なんであいつが……」
 確かに悟空が隠れたがった理由もわかる……と頷くと同時に、こんな疑問が湧き上がってくる。
「ともかく、すみません。あいつに気づかれないように移動したいのですが」
 しかし、それを確認するよりも悟空の存在を気づかれないことの方が先決であろう。そう判断して、三蔵は捲簾へとこう告げる。
「あぁ……その方がいいだろうな……しかし、どっから……」
 捲簾のこのセリフから、彼がこの校内でも要注意人物であるらしいと言うことが伝わってきた。
(しかし、こんなところであいつと遭遇してしまうとは……悟空が学校にきたがらねぇだろうな)
 困ったものだ……と三蔵は内心ため息をつく。こうなると、煙たい存在であった菩薩がいてくれてよかったかもしれない。あれの処理を押しつけてしまえるからだ。
「三蔵」
 三蔵の腕の中で悟空が泣きそうな声で呼びかける。
「大丈夫だ。菩薩が何とかしてくれる」
 例え烏哭でも彼女にはかなわないはずだ……と三蔵は悟空を安心させるように口にした。それを信じているのかいないのかわからないが、悟空は小さく頷いてみせる。
 そのまま、二人は捲簾に導かれるまま、もし悟空が通学するとした場合、当面使うであろう教室へと足を向けたのだった。

「……三蔵、何があったのですか?」
 光明が帰ってきた二人を出迎えた瞬間、悟空は『学校に行きたくない』と主張をしたのだ。朝の様子と違うそれに、光明は不審そうに三蔵へと問いかける。
「烏哭さんがいたのですよ、校庭に。それを見つけて、悟空が完全に怖がってしまいまして……」
 もし、また烏哭の顔を見ることになったらいやだ、と言い出したのだ……と三蔵は説明をする。
「彼にも困りものですね……本当に」
 そこまでは光明も想像していなかったのだろう。あきれたようにこう口にした。
「悟空を説得するのが本当に大変ですね……本当にどうしてくれましょうか」
「……ちょうど菩薩さんが来ていましたので、彼女に後のことは押しつけてきましたが……」
 それはそれで問題がありそうだと三蔵は苦笑を浮かべる。
「少なくとも、捲簾先生は好きなようですからその点さえ何とかなれば、悟空を説得するのは可能だと思いますけどね」
 ストーカーよりたちが悪い烏哭をなんとかできるであろうか……と思いつつ、光明を慰めるようにこう付け加えた。
「それが一番難しいのですけどね」
 光明はこういうとため息をつく。
「本当に、どうしてくれましょうね」
「ともかく、悟空をなだめる方が先決だと思いますよ。あるいは、学校にはいつも烏哭さんがいると思いこんでいるかもしれませんし」
 別段問いかけられたわけではないが、三蔵は自分の考えを口にした。
「そうですね。で、悟空は?」
 お疲れ様も言わなければならないでしょうし……といいながら光明は腰を上げる。
「キッチンでおやつを食べていますよ」
 疲れたようですし、甘いものを食べたがっていましたから……という三蔵に、光明はさもありなんと言うように頷いて見せた。
「ともかく、烏哭君の一件だけは何と誤解を解かないといけないでしょうね」
 本当、やっかいですよ……と付け加えられたセリフが光明の本心であったろう。
 もっとも、三蔵にしても同じ思いなのだ。たった一度しか直に対面していないと言うのに、あれだけ悟空にトラウマを残してくれた相手を、殺せるものなら今すぐ殺してやりたいと思っても、罪はないだろう……と三蔵は心の中で付け加える。
 ともかく、悟空が学校に行くまでの道のりは、間違いなくまだまだ長そうだった。