「ちょっと相談があるのですが」
 朝食の席で、いきなり光明がこう言い出した。その瞬間、三蔵、八戒、悟浄の三人は思わず顔を見合わせてしまう。彼がこんな表情でこう口にしたと言うことは、ろくな内容ではないと想像できるからだ。
「話だけは聞きましょう」
 三人を代表して三蔵がこう答える。
「そう難しい話ではないのですよ。もう一人、男の子を引き取ることになったと言うだけで……」
 次の瞬間、三蔵たちが厳しい視線を彼に投げつけた。
「どこが難しい話じゃないって言うんですか!」
「そうですよ。準備もしなければならないでしょう」
「第一、これ以上、男が増えて、どうすんだよ」
 三者三様の反応に――と言っても、全く意味が違うのは一人だけだが。それが誰のセリフかなどと言うことはあえて公言する必要はないだろう――光明は穏やかな微笑みを浮かべる。
「確かに、状況としてはそうかもしれませんね。でも、内容としてみれば単純明快な事柄だとは思いませんか?」
 そしてこう言い返す。
「どうして、家が引き取る必要があるのか、教えてもらえますか? 確かに、ここにいる全員が血のつながりはないとはいえ、何の相談もなく決められてうれしいわけがないでしょう?」
 違いますか、と光明に問いかけたのは三蔵だった。
 もっとも進んでこういう役目をしたいわけではない。こう言うときに、彼に面と向かって文句を言えるのは三人の中では三蔵だけだから仕方がないのだろう。何故なら、単に里子になっている他の二人と違って、彼だけが正式に光明の養子となっているからだ。
「それに関しては申し訳ないと思っていますが……なにぶんにも、話が回ってきたのが夕べのことでしたし、話がまとまったときにはもう、みんないませんでしたでしょう?」
 この言葉に、思い切り視線をそらせたのは悟浄だった。他の二人まで出かける羽目になったのは、間違いなく自分が原因であるという自覚があるのだろう。
「では、何故家で引き取ることに?」
 他のご家庭ではいけなかったのですか、と控えめに問いかけたのは八戒だった。
「そのお子さんがかなり特殊な生育歴の持ち主だから、なんですよ。出生届すら出されていなかったそうで、年齢も大まかにしかわからないとか……しかも、ずっと家の中に閉じこめられていたらしく、育てていた母親らしき女性以外と接したことがないらしいのです。その女性も身寄りがなかったようですし……彼女が亡くなったので職場の方がご自宅に伺ったところ、その少年を見つけたのだそうですよ」
 その内容に、三蔵たちは思わず言葉を失ってしまう。
 赤ん坊の頃に光明に引き取られた三蔵以外はそれなりにハードな環境にあったと言えるだろう。しかし、ここまでひどくはなかったのではないかと、八戒と悟浄は自分の記憶を振り返る。
 そんな二人と違って、三蔵はあくまでも冷静な表情を崩さない。
「それで、お父さんが引き取らなければならない理由というのは?」
 確かにその子供はかわいそうだとは思うが、だからと言って、光明が引き取らなくてもいいのではないか、と言外に付け加える。
「そう言う事情ですので、収容された施設で長期のカウンセリングが必要だと判断されたのですよ。幸か不幸か、私は資格を持っていますし……それに、私の他に引き取ってもいいと名乗りを上げたのが、烏哭君だったのでね」
 その瞬間、三蔵たちはどうして光明が自分たちに相談することなくその子を引き取ることにしたのか理解してしまった。
「……それでは、仕方がありませんねぇ……」
「あの人んとこ行くと、間違いなく性格歪むもんな……」
 悟浄にしてみれば、一時同じ施設にいた少年が、彼のところに引き取られていたせいでどうなったかを見ているから、言葉に実感がこもっている。
 三蔵にしても、それならば仕方がないだろうというようにため息をついて見せた。
「で、いつ来るんです?」
 そして、気持ちを切り替えるとまず聞かなければならないと思われる事柄を質問する。悟浄も八戒も、ようやく落ち着いてきたらしく、朝食へと箸をのばしかけた。そんな彼らの気持ちを、光明の次のセリフが打ち壊す。
「たぶん、今日のお昼には来るんじゃないかと……」
 次の瞬間、三蔵は思わず光明を怒鳴りつけ、八戒はあわてて部屋の準備をするために立ち上がり、悟浄はそれにつきあわされたのだった。

 実際に光明とともにその子供を出迎えることができたのは三蔵だけだった。
 理由は簡単。
 まだ高校生の二人と違って、大学生の三蔵は授業に関してはかなり融通が利くのである。悟浄はそのことに関してかなり文句を言っていたが、こればかりは年齢が関係しているのだから仕方がないと言って三蔵が追い出した。その彼を同じ高校に通う八戒が襟首をつかんで引きずっていったから、途中で脱走してくることはないだろうと思う。
「しかし、面倒くせぇな……」
 いっそ、自分も出かけてしまおうかと思わないわけではない。しかし、そうなると光明一人を残していくことになる。一応、子供を三人ここまで育ててきたのだから、それなりの経験は持っているだろう。だが、どこか信用できないのもまた事実だった。
「父さんに任せとくと、何をしでかすかわからないからな」
 自分を納得させるように三蔵がつぶやく。その時だった。
「お〜い! 誰もいねぇのか?」
 玄関からこんな声が響いてくる。それを耳にした瞬間、三蔵の機嫌は氷点下まで下がってしまった。
「クソババァかよ……」
 その声は、聞き間違えようがないだろう。三蔵が唯一苦手としている菩薩のものだ。
 思わず、このまま居留守を使ってしまいたいと三蔵は本気で考える。だが、そんなことをしても彼女には無駄だろう。しかも、
「おや、早かったですね」
 光明が何のためらいもなく出迎えたのだ。
「まさか……」
 ということは、その子供を光明に押しつけたのは彼女なのではないだろうか。
「その可能性は……否定できねぇな……」
 ため息をつきつつ、三蔵は立ち上がる。そして、そのまま自室から廊下に出た。
 玄関のところに、予想通りの人物の姿を見つけて三蔵は眉をひそめる。だが、もう一つ小さな人影があることに気がついて、その表情を打ち消した。自分のそんな表情が子供受けしないことを彼は知っていたのだ。
「何だ、いたのか」
 しっかりと三蔵の姿を見つけた菩薩が、嫌みが混じった声でこう言ってくる。三蔵はそれを無視して光明へと視線を向けた。
「子供用にジュースを持ってきた方がいいでしょうか?」
 こう問いかければ、
「そうですね。飲みますか?」
 菩薩の背後に隠れるようにして立っている少年へとさらに問いかける。しかし、そんな光明の言葉すら怖いというように、彼は身を縮めていた。
「困りましたね……」
 まさかここまでとは……と光明は苦笑を浮かべる。
「仕方がねぇだろうな。大人の男とつきあった経験がほとんどねぇし……そのほとんどが施設だったからな。あそこの応対は最低だったと言っていいんだよ」
 ただでさえ家の中だけしか知らず、しかも育ててくれた女性以外とはろくに接したことがない少年に、大人の男は怖いものだとたたき込むのに十分なくらいに……という菩薩の憤りが副音声として聞こえたような気がした。
「そうですか。では仕方がありませんねぇ」
 のほほんとした光明の口調の裏にも、やはり同じような憤りを三蔵は感じてしまう。
「ともかくリビングに移動しましょう。それからでも話し合いはかまわないのではないですか? その子だっていつまでも突っ立っていると疲れるでしょう」
 だからといって、このままでは……と判断した三蔵は、せめて場所を移そうと提案をする。
 その瞬間だった。
 今まで菩薩の陰で小さくなっていた少年が三蔵へと視線を向けてくる。その双眸が、明るい黄金であることに、三蔵は初めて気がついた。しかも、今までとはうってかわって、彼は三蔵の顔を凝視している。
「俺の顔がどうかしたのか?」
 思わずこう問いかけてしまった三蔵は、次の瞬間思い切り後悔をしてしまう。自分でもそんな行動を取っていると思わなかった少年が、あわてて菩薩の陰に隠れてしまったのだ。
「何遠慮してんだよ。そいつは今日からお前の兄貴になるんだ。それに、同じ色の瞳だろう?」
 ところが菩薩はこういうと、少年の体を三蔵の方へと突き飛ばす。
「悟空、そう言うわけだから、そいつにジュースを出してもらえ。俺はこいつと話があるからな」
 そして、勝手に周囲を仕切ると、菩薩はそのまま光明を促して応接間へと入って行く。
「これは、ついでに茶を淹れろって事か……」
 残された三蔵はこうつぶやくと、困ったように自分に抱きついている少年へと視線を落とした。
「悟空……というのか?」
 菩薩が呼んでいた名前を確認するように三蔵は口にする。すると、少年――悟空は小さく頷いてみせた。
「そうか。俺は三蔵だ」
 三蔵はできるだけ優しい表情を作ると、少年に自分の名前を告げる。
「三蔵?」
「あぁ」
 オウム返しに自分の名を呼んだ悟空に、三蔵は頷いてやった。そうすれば、彼は安心したようにうっすらと微笑んでみせる。どうやら、気に入られたらしいと判断をすると、三蔵は表情を崩さずに、
「ついて来い」
 こう言う。そのままきびすを返せば、悟空の手が三蔵の服の裾を握ってきた。
(さて、どうするかな……)
 まさかこれだけのことでこんなになつかれるとは思っても見なかった……というのが三蔵の偽らざる心境である。しかし、これから一緒に暮らすのであればこの方がよいと言うことは分かり切っていた。
  (ともかく、後はババァに詳しい事情を聞いてからだな)
 詳しい事情を聞いてからでないと、うかつなセリフを口にする可能性がある。せっかくなつきかけたのだから、そんなつまらないことで駄目にしたくはない。
「……あの……」
 そんなことを考えていた三蔵の耳に、悟空のつぶやきのような声が届いた。
「何だ?」
 茶を淹れる準備をしていた三蔵が、手を止めて聞き返す。
「……トイレ、どこ?」
 我慢していたのだろうか。震える声で悟空はこう告げる。
 次の瞬間、三蔵は思わず悟空の体を横抱きにすると、トイレに向かって駆け出していた。
 悟空をそのままトイレの中に放り込むと、三蔵はほっとため息をつく。そして、少し気持ちを落ち着かせようかとポケットからたばこを取り出して口にくわえた。
「ずいぶんとまじめに面倒を見ているじゃねぇか」
 いったいいつから見ていたのか……菩薩がにやにやと笑いながらこちらを見ていることに三蔵は気がついた。
「仕方ねぇだろう。お漏らしをされたら、あいつだけじゃなくこっちも困るからな」
 そう言いながら、三蔵は視線をそらす。
「まぁ、そう言うことにしておいてやるよ。理由は何であれ、かわいがってくれるのなら、俺も安心だ」
 そんな三蔵に向かって、菩薩が珍しくまじめな口調でこう告げる。
「ババァ?」
「光明には言っておいたが、あの子は保護された施設で虐待されていたんでな。俺としては幸せになってほしいんだよ」
 でねぇと、めっちゃ胸くそ悪いからな……と付け加えた彼女に、
「ガキは幸せになる権利がある……って言うのが父さんの持論だからな」
 何とかするだろうと三蔵は言い返した。
「光明は……そうだな。ただ、俺はお前に頼みたいんだよ」
 菩薩がさらに言葉を三蔵に投げつけてくる。
「俺より適任者はいるぞ」
 八戒は、将来の希望が保父だったはず。性格もマメだし、本当に気に入った相手なら、心底大切にするだろう。悟空の面倒もしっかりと見るのではないか。
 悟浄にしても、あれで意外と世話好きだ。悟空のような身の上の相手なら、親身とは言わなくても――これに関しては本人の思惟とは違うだろうが――ちゃんと相手をしてやるだろう。
 性格的にも、彼らの方が自分より悟空のためになるのではないだろうか、と三蔵は考えた。
「あいつらもあてにはするが……やっぱ、お前でないと駄目なんだよ。正確に言えば、瞳の色でないとな」
 菩薩のこのセリフに、そう言えば初対面のときから、悟空は自分の瞳の色が気になって仕方がないという態度を取っていたことを思いだした。
「だから、何でだよ」
 三蔵が菩薩に詰め寄ったその時である。
「金蝉と同じ……だから」
 トイレから出てきたのだろう。悟空が困ったような口調でこう言ってきた。
「金蝉?」
 誰だそれは……といわれて、悟空は泣きそうな表情を作る。
「その子が施設に収監される前に預かってくれた奴だよ。困ったことに、俺のいとこでもあるんだがな。あの馬鹿が日本にいれば、そのまま何とかしたんだろうが……よりによって、紛争地域に飛ばされちまったんでは、安全の確保ができねぇだろう」
 だから、上司に逆らうな……といったんだが、と付け加えた菩薩の口調から察するに、自分と似たような性格なのではないかと三蔵は思った。
「……だったら、俺のこと、嫌いになる?」
 大きな瞳を潤ませながら、悟空が問いかけてくる。下手な返事を口にすれば、間違いなく泣くだろう。第一、自分と同じ色の瞳の持ち主と重ねられたぐらいで相手――それが恋人ならともかく――を嫌いになるなんて無様なまねをしたくはないと三蔵は思う。
「ば〜か。んなぐらいで、弟を嫌いになれるかよ」
 いつもの口調でこう言いながら、三蔵は悟空の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやった。それだけで悟空はほっとしたような表情を作る。
「よかったな」
 菩薩も優しい微笑みを口元に浮かべた。彼女にもそんな表情ができるのかと三蔵は妙な感心をしてしまう。もっとも、それは一瞬だった。
「というわけで、三蔵。さっさと茶を淹れろ。俺様はのどが渇いた」
 菩薩は自分の要求を口にすると、悟空を連れてさっさと戻っていく。
「ひょっとして、それが言いたかったのか、ババァは」
 だが、このまま無視をすれば菩薩だけではなく光明にも何か言われるだろう。三蔵はそう判断をすると仕方がないという表情でキッチンに戻ったのだった。

 夕方までに、三蔵は悟空の相手をしつつ家の中の説明や、一応決まっているルールらしきものを教えていた。
 本来ならば、それは光明の役目なのかもしれない。
 しかし、彼は菩薩によって連れ出されてしまった。おそらくあの様子では夕食時間帯に帰れるかどうか……というところであろう。
 だが、この状況は悟空にとってはよかったかもしれない。
 三蔵一人であれば、悟空は緊張をすることなく過ごすことができるようなのだ。
「ったく……家には後二人いるんだぞ」
 そんな悟空の態度に、三蔵は思わずこうつぶやいてしまう。それを耳にしたのだろう。悟空はまた不安そうな瞳を三蔵に向けた。
「あぁ、心配すんな。家の連中はみんな似たり寄ったりの身の上だ。テメェのそんな態度も、最初のうちはがまんしてくれるさ」
 もっとも、すぐになれないと駄目だぞ……といいながら、三蔵は悟空へと手を伸ばす。
「……がんばってみる……けど……」
 でも……と悟空が困ったように首をかしげてみせる。
 こればっかりは、本人たちとあってからでないと駄目だろうと三蔵も判断した。
「まぁ、そんときは父さんが何とかしてくれるだろう」
 こいつの世話をしていれば、光明だって無体なまねはしないだろうと三蔵は心の中でほくそ笑む。
「それよりも、家の中のことは大丈夫か? 今教えたことさえ守れるなら、後は少々のことじゃ怒られねぇから安心しろ」
 ともかく、悟空の不安は消しておいてやらないといけないだろうと三蔵は口を開く。
「……施設より、少ないから……」
 それに対する悟空の返事がこれだった。
 どこか恐怖を感じさせるようなその口調に三蔵は言い切れぬものを感じてしまう。
 それほどまでに、施設での暮らしは悟空の心を傷つけたのだろうか。同時に、どんな事情があったのかはわからないが、悟空を放り出す形になってしまった金蝉に少しだけ怒りを感じてしまう。
 それでも、そのことを悟空に告げないだけの分別は三蔵にも残っていた。
「ただいま帰りました」
「新しいのは来ているわけ?」
 どうやら示し合わせて帰ってきたらしい二人の声が玄関から響いてくる。その瞬間、悟空が反射的に体をすくめるのが見えた。
 このままでは、間違いなく二人が顔を出した瞬間、悟空はおびえてしまうだろう。しかし、それを二人に伝えることは難しい。
 さて、どうするか。
 三蔵は思わず悩んでしまう。
「心配しなくていい」
 とりあえずこういうと、悟空を自分の膝の上に抱えた。そうしてやれば、今度は違った意味で緊張している。
 そうしている間にも、二人の足音は次第に近づいてきた。ドアを開け閉めしている音も耳に届いているから、きっと二人を捜しているのだろう。
「あぁ、ここにいたのですか」
 この言葉とともに、八戒が顔を出した。
「ずいぶんとまぁ、仲良くなってること」
 その肩越しに悟浄も顔を出す。
「……って、なんかおびえてねぇ、そいつ?」
 反射的に三蔵の胸にすがりついた悟空を見て、悟浄が心外だという表情を作った。
「テメェらが騒ぐからだろうが。父さんに言われていたろう? こいつは要注意なんだと……」
 だから、少しは遠慮しろと三蔵は付け加える。
「だけどさ、これから一緒に暮らすんだぞ。この程度ぐらいでびびられちゃこれから困るんじゃ……」
 悟浄があくまでも自分の主張をとおそうと言葉を口にしかけた。しかし、それを八戒が止める。
「悟浄。人それぞれでしょう?」
 どうやら、家事一般を受け持っている彼の機嫌を損ねて、今晩の食事がものすごいことになるのだけはさけたいらしい。悟浄は渋々といった様子で口をつぐむ。それを確認してから八戒はいつものあの穏やかな微笑みを浮かべた。
「驚かせて申し訳ありませんでしたね。僕は八戒といいます。こちらは悟浄です。これからよろしくお願いしますね」
 この態度に、悟空もいくらか警戒を緩めたらしい。三蔵の胸から顔を上げると八戒の方へと視線を向けた。これには悟浄だけではなく三蔵も感心してしまう。さすが保父志望というだけのことはあると心の中で拍手まで送ってしまった。
「ところで、お名前を聞いてかまいませんか?」
 優しい口調でこう問いかけられて、悟空はどうしようというような表情を作る。そして、助けを求めるように三蔵を見上げた。
「教えてやらねぇと、とんでもねぇ名前で呼ばれるぞ」
 三蔵がからかうようにこう言えば、悟空は少し小首をかしげてみせる。
「……悟空……」
 そして、小さな声で自分の名を口にした。
「ごくう、ですか……どんな字を書くのかわかりますか?」
 さらに問いかけられて、ごくうは素直に中に自分の名前を指で示す。
「空を悟る……で悟空ですか。いい名前ですね」
 悟空から少しずつとはいえ警戒心を解いていく八戒の手腕を見て、悟浄はただただ感心するだけだ。それでも、悟空はまだ三蔵からは離れようとはしない。
「そいつには愛想よくしておけ。飯を作ってくれるのはそいつだからな」
 三蔵はそんな悟空に仕方がないという表情を作りながら、こう言った。
「悟浄の方は……とりあえずろくなことは教えねぇから、気をつけとけ」
 さらに付け加えられたセリフを耳にして、悟浄はむっとした表情を作る。
「俺が何だって?」
 こう詰め寄った瞬間、悟空が再びおびえたように三蔵にすがりつく。その方を大丈夫だというように抱き返しながら、
「本当のことだろうが」
 と三蔵がにらみつける。
「そうですよね。お父さんに何回警察まで足を運ばせたんだか……」
 悟空をおびえさせたという点がマイナスになったのだろう。八戒もまた悟浄に向かってこういう。
「だからって、初対面の相手に……」
「その初対面の相手をこれ以上おびえさせんじゃねぇ! さっさと部屋に戻って課題でもやってこい!」
 三蔵のこの一言ともに、八戒が悟浄を部屋から放り出した。
「さて、僕も宿題を片づけないといけませんので……あぁ、悟空。夕食に食べたいものはありますか? できるだけご希望に添えるようにしますが」
 訴状の後を追いかけるように立ち上がった八戒が、ドアのところで振り返って微笑んでみせる。そんな彼に、悟空は本当に大丈夫なのかという表情を作った。だが、八戒は悟空の言葉を待つように微笑んでいる。それに促されたのだろう。
「オムライス」
 おずおずといった口調でこう言った。
「オムライスですね。わかりました。任せておいてください」
 大きく頷いてみせると、八戒は部屋を出て行く。
「よかったな」
 それを見送った後三蔵がこう言えば、悟空はこの家に来てから初めて微笑んで見せた。

「しかし、その施設の職員って言うのは、本気で頭に来ますね」
 悟空を寝かしつけた後、今後のことを話し合うために、三蔵たちはリビングで頭をつきあわせていた。
「あの子の体にあった痣は、どう見ても、虐待の痕でしょう。よってたかってあんないたいけな子供を痛めつけられる人間の精神がわかりませんね」
 悟空をお風呂に入れる役目をした八戒が本気で怒りをあらわにしている。それは他の三人に恐怖を感じさせるほどのものだった。
「あの……八戒さん?」
 おそるおそるといった様子で悟浄が声をかける。
「何ですか? あなただって見たでしょう? あの子の体」
 これが怒らずにいられますか……と付け加える八戒の怒りは正しいのだろう。
 手っ取り早く仲良くなれるようにと一緒に風呂に放り込まれた悟浄にしても、悟空の体を見た瞬間は呼吸をすることすら忘れてしまったのだから。
「それはわかっているけど……んなに大声で叫んだら、悟空が目を覚ますんじゃないかと……」
 普段温厚な人間ほど切れると怖いと言うことを地でやっている八戒に、うかつに反論はできないと判断したのだろう。悟浄が小さな声でこう言い返す。
「そうですよ。それに、あの子を虐待した人間にはきっちりと司法の手が伸びているそうですから、安心してください。天蓬君がしっかりと有罪にすると息巻いているそうですから」
 冷静な口調で光明も口を挟んでくる。どうやら、彼が菩薩と出かけてきたのは、そう言った細かい事情をしっかりと確認してくるためだったらしいと三蔵は推測した。
「それに、俺たちがやらなきゃねぇのは、あいつにその記憶をさっさと忘れさせることだろう? でねぇと、いつまでもおびえられるぞ」
 実際、悟空を風呂に入れるまでが大変だったのだ……と三蔵はため息をつく。二人になれていないと言うだけではなく、おそらく自分の体を見られたくなかったのだろう。それでも何とか二人と一緒に風呂に入ったのは、食べ物で懐柔をした八戒がいたからだと三蔵は判断をした。
「そうですねぇ……もう少し他人に対する警戒心を解いてもらわないと、学校にも通わせられませんしねぇ」
 こう言いながら、光明は八戒にお茶を淹れてくれるように頼む。反射的に、差し出された湯飲みを受け取った彼は、それを手にしたままため息をつく。
「すみません。少し熱くなってしまいました」
 言葉とともに、八戒は光明のためにお茶を淹れ始める。
「気持ちはわかりますから。菩薩よりもましですしね」
 意味ありげな微笑みとともに光明がこう口にすれば、
「って、何かやったのか、あのオバハン」
 興味津々といった表情で悟浄が聞き返す。
「乗り込んでいって、施設の事務室を半壊させたそうです」
 さすがですねぇと微笑まれても、それに反応できる強者はさすがにいなかった。
 それにというか、これだけ騒いでいれば当然というか、
「……さんぞ……」
 いきなりドアが開いたかと思うと、目をこすりながら、大きさの合わないパジャマを着た悟空が部屋の中を覗いてくる。
「どうした?」
「起こしてしまいましたか?」
「それとも、トイレか?」
 三蔵たちが口々にこう問いかける。だが、悟空はそれには答えずふらふらとした足取りで三蔵のそばへと歩み寄ってきた。
「ったく……」
 どうしたんだと言いつつ、くわえていたたばこをもみ消す。そんな彼の腕の中に潜り込むと、悟空は安心したようにため息をついた。
「お、おい?」
 次の瞬間、寝息を立て始めた彼に、三蔵があわてて声をかける。しかし、悟空が目を覚ます気配はない。
「ずいぶんとなつかれましたね」
 光明はのほほんとした口調でこういうが、三蔵は思わず頭の中が真っ白になっている。
「まぁ、悟空がここになれるまではあきらめてください。これからもおそらく同じようなことがあるはずですから」
 そんな彼に追い打ちをかけるように光明はこう付け加えた。彼がこういうと言うことは、悟空の心の問題なのかもしれない。
「父さん!」
 だからといって、この状況はあんまりだと三蔵が訴えようとするが、
「ほらほら、そんな大声を出したら、悟空が目を覚ましてしまいますよ」
 この一言で、あっさりと封じられてしまう。

 結局、このまま朝まで三蔵は悟空につきあう羽目になってしまった。