「三蔵」 自分の顔を見上げるようにして声を掛けてくる悟空に、仕方がなく三蔵は視線を合わせてやる。 「何だ?」 面倒な質問だったら八戒のところに行けと言おうと思いつつ、一応聞き返してやった。生活に最低限必要な事柄についてはたたき込んだが、お子さまにはまだまだ不思議な事が多いらしい。こうして不意に何かを聞いてくる事はよくある事だった。もっとも、八戒達と知り合ってからは面倒な事を押しつける相手ができてかなり楽になったのも事実だが。 「これって、手に乗せても溶けないけど、雪なのか?」 そう言いながら、悟空が掌をゆっくりと三蔵の前に差し出した。そこには真っ白い花びらが一つ乗っている。 「この……」 馬鹿猿と怒鳴りつけようとした。しかし、それよりも一瞬早く悟空が口を開く。 「去年も一昨年も聞こうと思ってたんだけど、三蔵、忙しそうだったから」 こう言われてしまえば、さすがの三蔵も怒鳴る事ができない。 確かにこの時期は毎年何やかにやと忙しく、朝晩悟空の顔を見ながら一緒に食事をすることすら難しい事が多かった。自分以外に悟空の質問に答えてやる人間もいる事はいるのだが、やはり同じように多忙な一日を過ごしている。ついでに言えば、この寺院内にはこの花は植えられていない。ひょっとしたら、これが咲いている所を間近で見た事がないのかもしれないと三蔵はため息をついてしまった。 (そう言えば、この馬鹿猿は『雪』も知らなかったんだったな) と言ってもその現象を知らなかったわけではない。空から降ってくる小さな氷の結晶が『雪』と言う名前だという事を知らなかっただけなのだが。 「……それは雪じゃねぇ。桜の花びらだ」 くだらねぇことを思い出してしまったと眉をしかめながら、三蔵はそう教えてやる。 「桜? 嘘だろ」 しかし、悟空の反応はこうだった。 「何が嘘なんだよ、この馬鹿猿!」 反射的にハリセンを取り出すと、その頭に振り下ろす。次の瞬間、小気味よい音が周囲に響きわたった。 「だって、桜って言ったら薄いピンクの綿菓子みたいな花だろう? こっちは白いじゃないか」 痛みのためか、目尻に涙を浮かべながらも悟空がそう言い返す。 「……遠目に見るとピンクでも、花びら一つ一つはこの色なんだよ」 どうやらどこらどこかの山まで咲いているのを遠目で見た事はあるらしい。ついでに、それが桜だという認識はあるようだと言う事を三蔵は今のセリフで掴み取った。 しかし、いつまでもこのままでは後々困るだろう。実際、三蔵のこのセリフにも悟空は納得している様子を見せない。 (……何とか時間をやり繰りして、実物を見せる必要がありそうだな……) だが、この季節だ。桜の下で宴会をしている人間も多いだろう。それを見てこの子猿がおとなしくしているとは閻魔さまでも思わないに決まっている。だからといって、悟空の好きなだけ買い食いなどさせたら三蔵の財布が一遍で空になってしまうのは目に見えている。かといって、寺の賄い方が花見弁当など作ってくれるわけがないだろう。 (こうなったら、あいつらも巻き込むか) どうした理由か判らないが、悟空を可愛がっている八戒なら材料費を出すと言えば花見弁当位作ってくれるのではないだろうか。ついでに、酒の一つでも用意すれば家主という名の赤ゴキブリも釣れるかもしれない。騒ぐのと子猿の面倒を押しつけるのには十分だろう。 (たまには息抜きをするもいいか) 一番問題なのは、寺院の僧達である。しかし、さっさと仕事を終えてしまえば文句も言われないだろう。と言うか、文句を言わせないに決まっている。 口元に小さく苦笑を浮かべると、三蔵は机へと戻る。 「三蔵?」 いったいどうしたんだろうと思いつつ、悟空が彼の名を読んだ。仕事が終わって戻って来たばかりなのにどうしたんだろうという気持ちがその表情からは読み取れる。 「今から書く手紙を持って、明日、八戒達のところへ行ってこい。詳しい話は連中から返事をもらって来てからだ」 机の中から紙を取り出すと、三蔵は流れるような筆遣いでその上に文字を綴っていく。だが、悟空には『仕事ではない』と言う事の方が重要だったようだ。そのセリフに安心したような表情を作る。 「判った」 そして、三蔵の言葉に大きく頷いて見せた。 桜の下には既に大勢の花見客がそれぞれ陣取っていた。その間を三蔵に首根っこを掴まれたまま悟空が歩いていく。理由は簡単。誰かの弁当の中身を見る度に 「あ〜〜! あれ、うまそう!!」 とお約束の行動をとってくれるのだ。 (いくらなんでも、人さまの口元から食いもんをかすめ取る真似はしねぇとは思うが……) 放っておくとどこに行くか判らなくて怖くて野放しにできないだけである。早く八戒達を見つけなければ……と三蔵は内心焦るが、こう人が多くてはそれも難しい。こうなったら相手に見つけてもらうのが楽だとまで思ってしまう始末である。 「二人とも、ここですよ」 そんな三蔵の気持ちを読み取ったわけではないだろう。だが、絶妙のタイミングで八戒の声が二人の耳に届いた。 反射的に視線を向ければ、微笑みながら手を振っている八戒と既に飲んでいるらしい悟浄の姿が視界に飛び込んでくる。 それ以上に悟空の注意を引いたのは、八戒の足元に置かれている大きなバスケットだった。その中にはきっと食べ物が詰まっているに違いないと判断した悟空は、早くたどり着きたいという感情であふれていた。三蔵はそれを感じ取ると苦笑を浮かべながら襟元を掴んでいた手を離してやる。 脱兎の如く八戒達のいる場所に駆け寄っていく悟空に、悟浄が何やらろれつが回っていないような口調で話しかけているのが三蔵の耳に届く。 「ったく……あのば河童は……」 もう出来上がっているわけじゃねぇだろうなと呟きながら三蔵も悟空の後を追いかける。 三蔵が三人の元にたどり着いた時には、悟空はもうバスケットの中を覗き込んでいた。その視線に苦笑を浮かべながら八戒が中から料理を取り出して並べている。 「ずいぶんと張り込んだな。足りたのか?」 「えぇ。ご心配なく」 本当なのかそれとも違うのか、三蔵でも判断できない笑顔で八戒が頷いて見せた。 「なぁ、八戒! これ、食ってもいいか?」 そんな事関係ないとばかりに、悟空が口を挟んでくる。 「いいですよ」 もう待ちきれないという悟空の表情を見ては誰も『ダメだ』と言う事もできないであろう。八戒が頷くと同時に悟空は早速料理に手を伸ばそうとする。しかし、今にも悟空が掴もうとした取りのから揚げを脇からかっさらっていく手があった。 「悟浄! それ、俺が食べようと思ってたのに、脇から取るんじゃねぇ!!」 「こう言うのは早い者勝ちって決まっているんだよ」 そう言ってせせら笑う悟浄はどう見ても悟空より年上だとは思えない。 「何だよ、それぇ」 信じらんねぇと言いながら、悟空は手を伸ばして悟浄の手からから揚げを取り返そうとしていた。それを悟浄が振り回すようにして避けている。 「悟空、から揚げはまだありますから……悟浄も散々つまみ食いしたでしょう?」 この程度なら未だしも、いつものおふざけにまで発展してしまっては周囲の人々に迷惑が掛かってしまう。慌てて八戒が二人の間に割って入った。 「あれが一番でかかったんだよ」 さすがにここでハリセンを持っては来なかったらしい。そう言い返す悟空の頭に三蔵の拳が落ちてくる。 「お前はここに飯を食いに来たのか? 花を見るのが一番の目的だろうが」 「そんな事言ったって……」 八戒の料理がうまそうなんだもん……と付け加える悟空に悪気はまったくないだろう。 「猿にそんな高尚な事求めても無理だって」 ようやく悟空をからかうのに飽きたのか、から揚げにかぶりつきながら悟浄が口を挟んで来た。 「動物の三大欲求は食欲、睡眠欲、性欲だろう? まだムけてないお子さまには食欲が一番なんだもんな」 けらけらと笑っている悟浄の姿は酔っぱらい以外の何者でもないように思える。しかし、セリフの内容がまずかった。 「ムけるって何がだ?」 バナナがあったっけ? と料理に視線を向ける悟空を尻目に残りの二人は呆れたような視線を向ける。 「猿に余計な事を教えるんじゃねぇ、この紅ゴキブリ!」 「……今のは教育的指導が入りますよ……」 一瞬後にそれぞれの口から注意の言葉が飛んだ。 「深窓のお坊っちゃまって訳じゃあるまいし……こういう知識は早めに教えておいた方がいいんじゃねぇの?」 アルコールの作用で気が大きくなっているのだろう。悟浄はそんな二人に対し、無謀にも言い返してくる。その内容に、三蔵がコロスと僧侶にあるまじきセリフを唇に乗せた時だった。 「あ〜〜っ!」 バナナバナナと呟いていた悟空がいきなり大声をあげる。 「どうしたんです、悟空?」 何かおかしなものでもあったのだろうかと八戒が悟空の手元を肩ごしに覗き込んだ。しかし、そこには料理が並んでいるだけである。だが、悟空には悟空なりの理由がちゃんとあったわけで…… 「三蔵、これ、あれだよな」 他人が聞いたら何を言っているのか判らないようなセリフとともに、悟空は三蔵の前に自分の手を差し出す。その上には今散ったばかりの桜の花びらがいくつか乗せられていた。それを見てようやくこの前、三蔵と交わした会話を思い出したのだろう。 「だから、お前はここに何のために来たと思っていたんだ?」 さすがの三蔵も悟空のこの行動には毒気を抜かれてしまったらしい。ため息とともに上の方を指さす。 「よく観察しろ。同じだろうが……近くで見るのと遠くで見るのと、姿が違うんだよ」 三蔵の指の動きに釣られるように悟空は桜の樹を見上げた。そして、その花をよく観察しようとするが、風で揺れているせいでさすがの悟空でも細かい所までは見られないらしい。焦れたのか、立ち上がって枝を一つ掴もうとする。しかし、今度は背が足りない。必死に伸び上がるが、後僅かな所で指先が届かないのだ。 「悟空」 見かねた八戒が手を伸ばして枝を引き寄せた。その姿勢のまま、悟空を手招く。 「本当だ……」 手の中の花びらとまだ咲いている花を何度も何度も見比べて悟空はようやく納得したという表情を作った。 「しかし、腐っても三蔵さまだな。さりげないセリフの中にそれなりに説法らしきモンが入るあたり」 感心しているのか、それともからかっているのか、今一つ判断が着きかねる口調で言いながら、悟浄は三蔵を見つめる。 「下らん……仕事ならともかく、何で俺が猿のためにそんな事をしなきゃないんだ」 ふんと視線をそらすと、三蔵はたばこを取り出した。そして一本口にするとすかさず火をつける。だけならまだしも、わざわざ煙を悟浄の顔に吹き掛けるあたり、嫌がらせとしかいいようがないだろう。 当然のように、悟浄はムッとした表情を作った。 「だから、無意識にしてしまう位、日常になっているって事でしょう」 何やら仕返しをしようと腰を浮かしかける悟浄を手で抑えながら、八戒が二人をなだめに掛かる。 それとよく似た光景を悟空はどこかで見たような気がした。でも、自分の記憶の中をいくら引っ繰り返しても、これが初めての花見のはずだった。第一、悟浄達とであってまだ一年程でしかない。しかも、彼らとであった時にはもう桜は散っていたはず…… それなのに、どうしてこう胸が押しつぶされそうなくらい悲しいのだろうか…… いや、これは本当に悲しいという感情なのだろうかと悟空は自問自答してしまう。 困ったものですねと苦笑を浮かべながら悟空に視線を向けた八戒が、次の瞬間、不審な表情を作った。 「……悟空?」 どうしたんですかと言いながら差し伸べる指に、悟空は自分が泣いている事に気づく。 「……わかんねぇ……」 小さく悟空が呟いた瞬間、一陣の風が彼らの脇を駆け抜けていった。それは大きく枝を揺さぶり、その先から遠慮なく花びらをもぎ取っていく。 花びらのスクリーンが、その場にいたすべて者から一瞬視界を奪った。 だが、その瞬間、悟空は別の誰かをその場に見た様な気がする。三蔵達によく似た、それでいて彼らではない誰かの姿を…… 「まったく……腹が減った位で泣くんじゃねぇ!」 しかし、それも三蔵のこのセリフで霧散してしまった。 「ほら。さっさと食え。でないとこのまま帰る羽目になるぞ」 ついでにこの脅しで、悟空の中から食欲以外の感情が押し出されてしまう。慌てたように料理に手を伸ばす悟空を見て、 「これじゃねぇと、猿じゃねえよな」 悟浄が呆れたような口調で感想をもらす。 「うるさい! 毎日八戒の飯を食っている奴にそんな事言われたくねぇ」 「って、寺の飯ってそんなにまずいの?」 「まずいんじゃなくて、生物が出ないだけだ。精進料理が基本だからな」 「まぁまぁ」 ようやく和んで来た場に、日常が戻って来たらしい。軽口を叩きながら、それぞれが好みの料理に手を伸ばしはじめた。 宴はこれからが本番だった。 終
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