東の空が白々と開けて来たという頃。酒場から出てくる人影があった。ドアが閉まる瞬間、酒場の中の明かりが彼の髪をさらに赤く燃えさせる。 「さて、懐も温かくなった事だし、帰って寝るか」 ポケットからたばこを取り出しながらそう呟いたのは悟浄だった。そのまま唇に一本加えると、ライターで火をつける。深々と最初の一口を吸い込むと、ゆっくりと自宅へ向かって歩き出した。 はっきり言って、一般の人間とは昼夜逆転している生活だという自覚は悟浄にもある。同居人である八戒にも毎回皮肉を言われていた。それでも、身体の奥底まで染みついた生活態度というのはそう簡単に変えられるものではないだろうと開き直っていたりもする。 「おや?」 視線の先に見知った顔を見つけて悟浄は不審そうに声を上げる。 「何であいつらがこんな時間にこんな所をうろついているんだ?」 そう呟きながらも、無意識のうちに悟浄の足はその二人の方向に向かって歩きはじめていた。 どうやらその気配を敏感に察したらしい。二人連れの片方がもう片方に何やら声を掛けている。そして、そのまま悟浄の方に駆け寄って来た。 「悟浄! 何でここにいるんだ?」 そう言いながら飛びついて来たのは頭の中身が軽い代わりに元気と食欲だけは人の十倍以上あるのではないかという子猿さんだった。その後をいつもの不機嫌そうな表情を崩さない美人の飼い主がついてくる。 「それはこっちのセリフだって。俺は今からお家に帰る所だけどさ。そう言うお前らはどうなんだ?」 身体ごとぶつかって来た悟空の体重を何とか受け止めて悟浄が逆に聞き返した。しかし、悟空がそれに答える前に 「相変わらず、昼夜逆転の生活を送っているようだな」 三蔵のこのセリフが悟浄の耳に届く。 「そうそう。身についた生活リズムは簡単に変えられないのよ。そう言うお前らこそ変な時間に出歩いているじゃねぇか」 「残念だがな。寺の生活は朝が早いと決まっている。一応朝の勤行は済ませてから出て来たぞ」 お前と一緒にするなと言う表情で言い返して来た三蔵のセリフに、悟浄は思わず目を丸くした。目の前の相手が『最高僧』の称号を持つ人間だとは知っていたが、まさか真面目に日課をこなしているとは思わなかったのだ。 「はぁ、そうですか……で?」 何でこんな所にいるわけ? ともう一度問い掛け直す。 「今から悟浄の家、行く所だったんだよ」 悟浄の肩の上から三蔵の隣へと移動しながら悟空が答える。 「はぁっ?」 予想もしていなかったそのセリフに、悟浄は唇に挟んでいたたばこを落としてしまった。 「何だ、八戒から聞いていないのか?」 呆れたように三蔵が口を開く。 「今日一日、悟空を預かってくれと頼んでおいたんだがな。八戒からはOKと言う連絡が来ていたが」 まぁ、八戒がいいといったのならかまわないだろうと三蔵は付け加える。 「家主は俺なんだけど」 「寝る為にしか帰らないくせにか?」 ため息とともに吐き出したセリフを三蔵が一笑した。 「悟空、そう言う事だから後は悟浄と一緒に行け。迎えに行くまでは帰ってくるなよ」 そして視線を脇にいる悟空に向けると、こう言う。 「今日中に来るよな?」 そんな三蔵を不安そうな瞳で見上げると悟空はこう問いかけた。 「日付が変わらねぇ前には行けると思うが……まぁ、忘れずに迎えに行ってやるから、安心しろ。あぁ、八戒には迷惑をかけねぇようにな」 そう言うと、三蔵は悟空の頭に手をおいて髪をクシャクシャとかき回す。見るものが見れば微笑ましいとしか言いようがない光景ではある。だが、 「……俺はいいのか、俺は……」 家主は俺だとあくまでもこだわってしまう悟浄だった。 「ほとんどいつかねぇくせに。じゃぁ、頼んだぞ」 それだけ言い残すと、三蔵は踵を返して歩きはじめる。その後ろ姿に向かって悟空が手を振っていた。自分も含めてまるで保育園に子供を預けていく父親の図じゃねぇかと悟浄は呆れてしまう。 「ったく……こうなったらさっさと保父さんに押しつけて俺は寝るぞ……」 それが一番いいだろうと自分に言い聞かせるように呟く悟浄だった。 自宅に帰って、朝食の支度をしていた八戒に悟空を押しつけると、悟浄はさっさとベッドの中にもぐり込んだ。そのまま眠りの淵に落ちて行く。 目が覚めたのは、すっかり日が高くなってからの事である。 「はよ〜……何か喰うもんあるか?」 まだ寝足りないが、腹が減ったので起きて来たと言う悟空の事を笑えない表情で悟浄が台所に顔を出した。そこから甘い言い匂いが漂って来ていたので、きっと八戒がいるだろうと考えての行動である。 「こんにちはの時間だと思いますけどね」 穏やかな微笑みを浮かべて、八戒が視線を向けた。 「ぼたもちでいいですか? 悟空が食べたいって言うので作ってみたんですけど」 「何でもいい。ともかく腹に入れたい」 ぼたもちって何だっけと思いつつ、悟浄はテーブルに座る。すかさず八戒が彼の前に皿を置いた。それにはあんこがたっぷりつけられたぼたもちが乗っている。しかし、それを見た悟浄の口から一言、 「これ、おはぎだよな?」 と言う疑問がこぼれ落ちる。確か、菓子屋ではそういう名称で売っていたはず……と悟浄は記憶していたのだ。 「えぇ。ですからぼたもちです」 そう言いながら、八戒は悟浄の前にお茶が入った湯飲みを差し出す。いったいいつの間に入手して来たのか、中身はしっかりと緑茶だった。 「だから、おはぎだろう?」 湯飲みを取り上げようとして、その熱さに瞳をすがめながら悟浄はそう言う。それでも中身で二日酔いの喉の渇きを落ちつかせると、皿の上のぼたもちへと手を伸ばす。 「でも、この時期はぼたもちって言うんですよね。どうしてかは知りませんけど」 そう言いながらも、八戒は悟浄の向かい側の席に腰を下ろした。 「わけわかんねぇけど、うまいからいいとするか」 二個目に手を伸ばしながら悟浄はそう口にする。その時だ。悟浄はふっとある事に気がついた。 「ところで、お預かりもののお猿さんはどこに行ったんだ?」 食い物の気配がすれば当然出てくるだろうと思っていたのに、いつまでも現れる気配がない。かといって、三蔵が迎えに来た様子もない。と言う事はこの家のどこかにいるはずなのだが…… 「悟空なら、ちょっとお使いを頼みましたので……そろそろ帰ってくると思いますけど」 まるでタイミングを見計らっていたかのように玄関のドアが開かれた。 「腹減ったァ! 八戒、何か喰うもんある?」 その叫びとともにぱたぱたとかけてくる足音が二人の方に近づいてくる。それに微苦笑を浮かべながら、 「ぼたもちがありますよ」 と答えながら八戒は椅子から腰を浮かせた。そしてぼたもちを入れてあるらしいタッパーへと歩み寄っていく。彼がそれを完全にお皿に乗せる前に勢いよく扉が開いた。そして、片手で身体と同じくらいの太さがある紙袋を抱えた悟空が転がるようにして飛び込んでくる。 「八戒、頼まれてたもの、これでいいのか? あと、本屋のおじさんが八戒に頼まれてた本が入っていたから持って行けって」 そう説明しながら、悟空はテーブルの上に荷物を置いた。もっとも、よく前が見えていなかったようで悟浄の湯飲みを倒しかけたが、その位はご愛嬌というものだろう。 「おつかれさまでした」 そう言うと、八戒は空いている場所に山盛りのぼたもちを乗せたお皿を置く。そして悟空に座るように手で示した。 「これ、何?」 素直にその指示に従いながら、悟空が無邪気に問いかけてくる。 「何ってぼたもちですよ。お使いを頼む前に、食べた言っていったんでしょう?」 どうしてそんな事を言うのだろうかと不審に思いながらも、八戒は袋の中身を確かめはじめた。だが、次に悟空の口から出たセリフで思わずその手を止めてしまう。 「嘘だァ。だって、今まで食べた事があるのはこんなに小さくなかったもん」 悟空はこう言ったが、八戒が作ったぼたもちは十分な大きさを持っていると悟浄は思う。しかし、悟空の口調からは嘘をついているようには感じられない。 (って言うか、この子猿さん、嘘のつき方知っているのか?) 飼い主さんの方は間違いなく知っているだろうけどと悟浄は心の中で付け加える。 「小さくなかったって……じゃぁ、どれくらいの大きさだったんですか?」 どうやら八戒も同じような考えに行き着いたらしい。困ったような笑みを浮かべながらも事実を確認する為にそう問いかけた。 「このくらいだったかな?」 その言葉ともに悟空が指し示した『ぼたもち』の大きさは、少なく見積もってもラクビーボール位の大きさがあるのではないだろうか。 (それ以前に、そんなんよく食えるなぁ……) その大きさのぼたもちを自分が食べる羽目になったら……と考えるだけで胸焼けがしてくる悟浄だった。 「別に、寺でも俺達が食っているのは普通の大きさだぞ」 夕方――というよりはもう夜半といった方が正しい時間だろう――悟空を迎えに来た三蔵がケロリとした口調でそう言う。 「じゃぁ、何で子猿さんの知っているぼたもちはでかいわけ?」 「簡単な理由だ。あの馬鹿がおとなしく一か所にいるのは寝ている時か飯を食っている時だけだからな。今日みたいに寺にたくさんの人間が来る時には山盛りの食いもんを与えられているって言うだけだ」 言われてみれば納得と言える理由かもしれない。だが、ここで新たな疑問が生じてくるのは仕方がないだろう。 「わざわざ悟空のためだけに作るんですか?」 答えてもらえるとは思わずに八戒はその疑問を口に出す。 「あれはお供え用だ。一応今日は灌仏会だったからな。仏像の前にお供えする分としてあの馬鹿が来る前からあの大きさのを作っていたらしいぞ」 それを底無しの胃袋の悟空用に流用したわけかと、悟浄も八戒も苦笑を浮かべた。 「しかし、そのせいで悟空に妙な先入観がついてしまったのは困りものですよねぇ」 「まぁ、それに関しては飼い主さんに訂正してもらうしかねぇんじゃねぇの」 結局自分達はただの友人であり、悟空の保護者は目の前の鬼畜生臭坊主なのだと言外に付け加える。 「無理だな」 それに対して、三蔵はきっぱりと否定した。 「何でまた?」 悟浄が方眉を持ち上げながらそう問いかけると 「そんな面倒な事、する気にならねぇからだ」 仕方が無さそうに三蔵がこう答えた。その内容があまりに三蔵らしくて二人とも苦笑を深めてしまう。 「……はいはい、野暮な事をお聞きしました」 こうなるとそれ以外言う事がないとばかりに悟浄はたばこに救いを求めていた。 「で? 猿はどうしたんだ?」 ここについて直ぐに二人にリビングに連れ込まれてしまったせいで、三蔵はまだ悟空の顔を見ていなかったりする。連れて帰る必要上、居場所を確認しないわけに行かないのだろう。 「悟空にしては頑張って起きていたんですけどね。さすがに限界だったのか、もう寝ていますよ」 三蔵の前にさりげなくお酒の入ったグラスを差し出しながら、八戒が説明をした。 それに関して三蔵の口からは文句の一つも出ない。夜明けとともに起きて日が沈むとともに寝るという悟空の生活をよく知っているせいだろう。だが、それはそれで面倒な事になったと珍しくも顔に現れている。 「いっその事、三蔵も泊まっていったらどうです? 悟空をおぶって帰るって言うなら止めませんけどね。あの様子じゃ朝まで起きないと思いますよ」 そのセリフに三蔵は一瞬考え込むような表情になった。自分の地位とそれに付随してくる義務と、八戒の申し出を天秤にかけているのだろう。 「もしこのまま悟空を置いて帰ったら、家は全壊するかもな」 そんな三蔵の背中を押すように悟浄も口を挟んでくる。 「何でだ?」 「飼い主さんが迎えに来なかった事に切れた猿が、八つ当たりついでに破壊活動に勤しんでくれるからに決まっているじゃん」 ケロリとした口調で悟浄が説明をした。普段の悟空の行動からするとその可能性も十分にあるかもしれない。だが、八戒と悟浄が一緒にいて止められないわけがないと三蔵は思った。 「まぁ、たまにはいいか」 しかし、悟空を背負って帰るのは真っ平だ。だったら、八戒達の言葉に甘えた方がいいだろう。そう判断した三蔵はこう口にした。 「というわけで、いい機会だし、飲むか」 悟浄がどうしたわけかうきうきとした口調で提案をする。もっとも、それに反対する理由は残りの二人にはなかった。 翌日、誰が二日酔いになって誰が平然としていたか。ともかく、悟空が少しでも口を開こうとすると三蔵のハリセンと悟浄の不満そうなセリフが飛んで行った事だけは事実だった。 終
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