日々是好日・八

 空が茜色から紫へと変わっていく。まだ遊び足りないと思うのだが、それ以上に腹が空腹を訴えている。
「仕方がねぇ、帰るか……鐘が鳴るまでに部屋ん中にいねぇと、三蔵に夕飯抜かれるもんな」
 ため息とともに悟空は今まで遊んでいた森の中から寺に向かって駆け出した。だが、いくらも行かないうちに、その足が止まる。
「じーさん、どうかしたのか?」
 道の脇で、一人の老人が座り込んでいるのが目に入ったからだ。
「いや、一寸疲れたのでの、休んでおるのじゃが……」
 そう言いながら、老人は顔を上げる。そして、悟空の顔――正確にはその額にはまった金鈷――を見た瞬間、彼に判らないように微かに眉をあげた。しかし、直ぐに穏やかな表情に戻る。
「そうじゃ。坊や、『玄奘三蔵』さまがおられる寺院に行くには、この道で良いのかの?」
「何だ、じーさん……寺に用があるのか?」
 そう言われて、悟空は改めて老人をよく見た。日除けのためらしい頭巾をかぶっていたせいで最初は気づかなかったのだが、確かに僧形をしている。その事実に気づいた瞬間、悟空は思いっきりいやそうな表情を作った。それも無理はないだろう。悟空にとって『僧侶』と言うのは三蔵以外意地悪と言うのと同意語なのだ。
「あると言えば有るし、ないと言えばないかもしれんのぉ」
 そんな悟空の不信感を煽るかのように老人はこんなセリフを口にする。それは時々三蔵が口にする訳の判らない問答とよく似ていた。喰う寝る遊ぶだけでそのほとんどを使い果たしている悟空の脳味噌では、その答えを見つけ出す前に考える事自体あきらめてしまったらしい。
「……寺なら、確かにこの先だけど……早く行かないと門が閉められると思う……」
 悟空の足でならまだ余裕だが、老人の足ではどうだろうか。はっきりとは判らないが、かなりやばい様な気がする悟空だった。だからといって、この老人を見捨てた場合、万が一でも三蔵の耳にはいったらどんな目にあわされるか判らない。よくてハリセンで殴られる程度だろうし、最悪の場合飯抜きと言う可能性も考えられる。かといって、僧侶というものに積極的に係わりたくないとも思ってしまう。
 それも無理はないだろう。五行山から寺へとやって来てまだ一月も経っていないというのに、もう両手の指では数えきれない程の嫌がらせを受けていたのだ。その中には悟空が犯人でないのに、これ幸いと嫌疑を押しつけてくる事も一度や二度ではない。その度に三蔵がかばってくれるからいいようなものの、でなければ、とっくの昔に追い出されてしまっていたのではないだろうか。
 この老人を寺に連れて行った場合、そんな僧侶達がどんな反応を示すか分からない。
 どうしたらいいのか、判らないまま、悟空は老人の前に立っていた。
「それは困ったの……と言っても、この荷物を抱えてはそう早く歩けまいし……」
 老人は老人で何やら考え込んでいるようだった。
「そうじゃ。坊や、済まないが荷物を運んでもらえんかのぉ。ついたらお駄賃をあげようほどに」
 やがてにこやかな表情を作ると、老人は悟空にこう話しかけてくる。しかし、悟空はそれに即答する事はできなかった。
 お駄賃は魅力的なのだが、目的地が寺というのが問題なのだ。
 確かに、今からそこに帰るのだが、老人を連れて行くとなったら当然正門に回らなければならないだろう。そこでどんな目にあわされるか、悟空は知っている。
「……お駄賃要らない。寺の途中まででいいなら荷物持ってもいいよ」
 しばらく考えこんなのち、悟空はようやくそう口にした。どうやら、今の悟空ではそれが精一杯の妥協範囲らしい。
「坊やの家は寺まで行かないのか……確かにそれでは寺まで送ってもらうのは申し訳ないの。途中まででもお駄賃はちゃんとあげるから心配せんでもかまわぬて」
 好々爺という表情で老人はそう言うと、今まで座っていた場所から腰を浮かし掛ける。反射的に悟空はそれを手助けしようと手を差し出した。
「坊やは良い子じゃの」
 顔のしわをさらに深く刻んで老人は笑みを深くする。
「……そんな事言われたの、初めてだ……」
 ぼそっと呟きながら、悟空は老人の荷物を受け取った。
「そうなのかの」
 老人は悪い事を言ったかのと付け加えながら、悟空の肩に手を置く。それに首を横に振って否定すると、悟空は老人の前をゆっくりと歩きはじめた。
「わしは坊やはいい子だと思うがのぉ……本当に誰も言ってくれなかったのかの?」
 老人が悟空の肩ごしに再びそう問い駆けてくる。
「うん……三蔵も俺の顔を見ると馬鹿としか言ってくれないし……他の連中は俺の事追い出したくて仕方がないみたいだし……」
 何故こんな事を見ず知らずの老人に語ってしまうのかしまうのか判らないまま悟空は言葉を綴った。あるいは、見も知らぬ相手だからこそ話せたのかもしれない。少なくとも、彼からは悟空に対する偏見が感じられなかったのだ。
「三蔵?」
「俺を拾ってくれた人……」
 本当はもっと違う表現をしたかったのだが、悟空の語彙ではそれ以上言い言葉を見付けることができない。
「坊やはどうしてそのお人が好きなのかの? 馬鹿としか言ってくれぬのであろう?」
「だって……三蔵は俺が必要でなくなったら俺を殺してくれるって言ったんだもん」
 悟空のその言葉に老人はそれ以上何も言うことができなかったのだろうか。ただ、黙々と後をついてくるだけだった。

 老人と寺の正門が見える場所で別れた後、悟空はいつものように塀を乗り越えて三蔵の部屋へと帰って来た。
 門を通った方が楽なのは判っているのだが、正門だけでなく裏門からも僧侶達は悟空を通してくれないのだ。仕方がないので、塀を乗り越えるという手段を取っている訳だったりする。
「……三蔵、怒ってるだろうな……」
 ついでとばかりに、今は最上階にある三蔵の部屋まで壁をよじ登っていた。悟空の場合中を通っていくよりその方が早いのだ。それもこれも、すべて夕食抜きを回避しようとする涙ぐましい努力の一つだったりする。だが、ようやくたどり着いた三蔵の部屋の窓枠に片足を掛けながら中に視線を向けた瞬間、悟空は目を見張ってしまう。
「あれ?」
 どうした事か、いるだろうと思っていた人物が部屋の中にいないのである。
「……まだ、仕事終わんねぇのかなぁ……」
 それはそれで、晩飯抜きは間逃れられるので嬉しいのだが、三蔵が部屋に帰ってくるのが遅くなるという事実は悟空には面白くなかったりする。部屋の中に滑り込むと、そのまま、窓のそばにあった椅子に腰を下ろす。
「三蔵……早く帰ってこねぇかな……」
 小さくつぶやく声は自分以外の誰の耳にも届かなかった。
「腹減ったァ……」
 こう言う時に小腹を満たせるようなものを確保しておいてくれる程三蔵は優しくない。ぎゅるるるるっと泣き出した腹の虫を何とかする方法を悟空は真剣に考えはじめた。

 その頃の三蔵はと言うと、いきなり降って来た騒動に巻き込まれていたりする。どうやら、それに関して僧都達では対応ができなかったらしい。部屋に戻ろうとしていた三蔵まで引きずり出される羽目になったのだ。
「ったく……俺の管轄じゃねぇだろう……」
 自分を呼びに来た僧侶に聞こえないようにそうぼやく。それを面と向かって吐き出せないのは、相手が自分よりも年上のせいなのだろうか。その代わりというように、大きなため息をつく。
(猿が腹すかせて暴れてなきゃいいんだが……)
 暴れるだけならまだ我慢できるが、その結果部屋の中の調度が破壊されるのは厄介だ。それを本人に片づけさせるのは当然だが、新しい調度を手配するのは三蔵なのだ。その度にイヤミを言われる事を考えると、頭が痛くなる。自分が相手に向かってイヤミを言うのはよくても他人から言われるのは我慢できないらしい。
(まったく……タイミングが悪いったらありゃしねぇ……せめて昼間のうちにやって来いよな)
 そうすればこんな風に大騒ぎにならなかっただろうにと三蔵は考える。
 しかし、本当の騒ぎの原因はそれではなかったと三蔵が知るのはそれからしばらくたっての事だった。

「腹減った〜〜〜! いつまで待たせるんだよ、三蔵の馬鹿ァ!!」
 どう見ても室内を台風が過ぎ去ったという表現がぴったりと来るような部屋の中で、悟空は床に座り込むとそう怒鳴る。どう考えてもいい方法が見つからず、かんしゃくを破裂させたのだが、逆にさらに空腹を覚える結果となってしまった。それがさらに悟空の怒りをかき立てる。再び手近にあった書物を壁に向かって投げつけた。
「飯、食わせろ!!」
 そして、悟空がそう叫んだ時の事である。
「馬鹿はてめぇだろう!」
 その声と同時にハリセンが悟空の頭に襲いかかった。悟空は反射的にこれ以上叩かれないようにと両手で頭を抱えると、恨めしそうに三蔵を見上げる。
「誰が片づけるんだ、この部屋は」
 何も知らない人間が見たら、十中八九同情しそうな悟空のその仕種も、三蔵は何の感慨も覚えなかったらしい。冷たい声でそう言い捨てる。
「飯、食わしてくれないのが悪いんじゃん」
 それに対する悟空の反論がこれだった。
 拾った時は、悟空がこれ程『食べる』事に関して執着していたとは三蔵にも判らなかった。しかし、次第に『自由』と『食べ物が有る』生活に慣れて来た悟空は、周囲が呆れる程の食欲を見せたのだ。と言うより、餓鬼のように四六時中腹をすかせていたといってもいい。だが、逆に言えば食べ物を与えていれば悟空はおとなしい。それが判った僧侶達は、あきらめて好きなだけ悟空に食べ物を与えていた。もっとも、それに関して三蔵にかなり嫌味を言ったものもいたが、返り討ちに遭ったのは言うまでもないだろう。
「俺、ずぅっと待ってたのに、三蔵、戻って来なかったじゃん……俺、腹減ってたのにさ……」
 だから、暴れたのだと悟空は訴える。
「だからといって、三十分も待てねぇのか、てめぇは」
 三蔵はそう怒鳴ると同時に、もう一発叩こうと言うようにハリセンを振り上げた。
「玄奘さま、お待ち下さい」
 その時入口の方から聞こえて来た声が三蔵の動きを止める。その声の主は、この寺院の中にいる僧侶ではない事は悟空にも判った。
(あれ?)
 しかし、どこかで聞き覚えがある。
 そう感じた悟空は三蔵を刺激しないようにそうっと視線を向けた。
「あ〜〜〜〜〜っ!」
 次の瞬間、思わず大声を出してしまう。その声量にすぐ傍に居た三蔵が思わず顔をしかめてしまった程である。だが、それすら悟空は気がつかなかった。というより、それだけ驚いていたといった方がいいのだろうか。反射的に悟空を殴りつけようと三蔵はハリセンを握り直した。
「何でじーさんがここにいるんだよ!!」
 老人を指さしながらそう付け加える悟空に、三蔵は動きを止め眉をひそめる。
「猿、知っているのか?」
 その問い掛けに、悟空は素直にうなずいた。
「さっき、会った。門のとこまで案内したし……」
 そしてそれだけでは三蔵が納得しないだろうとこう付け加える。
「って言う事は、あんたはこの馬鹿猿を知っていたって事か……」
 視線を悟空から老人に移すと、三蔵は呆れたような口調でこう言った。
「誰も顔も知らぬとは申しておりませぬぞ。ただ、詳しくは知らぬと申し上げただけだったはずですが?」
 からかうような口調で老人は三蔵に言い返してくる。それを耳にした瞬間、三蔵はますます苦虫を噛みつぶしたような表情になっていった。
「……三蔵?」
 ひょっとして、自分はいけない事をしたのだろうかと不安になった悟空が、そうっと三蔵に呼びかける。
「ったく……あんたはいきなり行方不明になってくれるは、猿はしっかりと手なずけてくれるは……やっぱ、食えねぇよな」
 そんな悟空には答えずに、三蔵はため息まじりにそう吐き出した。
「何を仰る。すべては身仏の御心に導かれての出来事でしょう。私がその子に出会ったのも」
 そう言いながら老人は室内へと入ってくる。そして悟空の前で立ち止まると優しく微笑んで見せた。
「そう言えば、お駄賃をあげるといってまだあげておらなかったの。お金は玄奘さまがダメだと仰るので、これで我慢して下さいよ」
 言葉とともに悟空の前に大きなあんまんが差し出される。
「食いもんだぁ!」
 もう本能的に悟空の手がそれに伸ばされた。
「この馬鹿猿! 簡単に餌づけされるんじゃねぇ!!」
 その手があんまんを掴むよりも早く、三蔵のハリセンが悟空の頭にヒットする。
「ダメですよ、玄奘さま。そうポンポン殴っては馬鹿になりますから」
「大丈夫だ。こいつはこれ以上馬鹿になりようがねぇ」
「あ〜〜! ひでぇ……そんな事ねーぞ!!」
 そう訴える悟空の声に被さるように老人の楽しげな笑い声が響いた。

 老人が、この寺で一番偉い『僧正』と言う地位についていると悟空が知ったのはそれからしばらくしてからの事だった。何でも、三蔵が悟空を拾った日に別の寺院まで用事で出掛けていって様やっと帰って来たのだという……
 もっとも、悟空にはそんな事どうでもよかった。初めて会った日と変わらぬ態度で接してくれる老人――僧正に親しみを覚えていた。その理由は……言わなくても判るであろう。
「この馬鹿猿! 餌づけされるんじゃねぇって言ったじゃねぇか!!」
 悟空の手にあるおやつを見た瞬間、怒鳴る三蔵の姿がそれからしばしば観察されるようになったのだった。