|
「……三蔵……」 仕事の邪魔になるからこれでも呼んでいろと三蔵に押しつけられた本をおとなしく読んでいた悟空が、不意に三蔵の名を呼んだ。しかし、三蔵は目の前の書類から顔を上げようともしない。ついでに、その背には『うるさい』『邪魔したらコロス』の二言も見える。 「なぁ、三蔵ってばァ……」 だが、そんなもの悟空に判るわけがない。何とかして三蔵の意識を自分の方に向けようとさらに彼の名を口にする。 (……全く……この馬鹿猿はァ……) 次第に三蔵の額に血管が浮き上がってきた。それでも三蔵は必死に悟空を無視して書類に意識を集中させている。しかし、それが悟空には面白くなかったらしい。 「三蔵、三蔵ってばァ!」 三蔵に歩み寄ってきた……と思った次の瞬間、彼の肩を掴むとがしがしと揺すりはじめた。声だけならいくらでも無視できるが、実力行使に出られてはさすがの三蔵も無視をすることはできない。おまけに、署名しようとして筆に含ませていた墨が書類の上に落ちたとなれば、堪忍袋の緒が切れたとしても仕方があるまい。 「えぇぃ! 仕事の邪魔をするなと何時も言っているだろうが、この馬鹿猿!!」 怒声とともに、ハリセンが悟空の頭にヒットする。 「何すんだよ、三蔵!」 一体、そのハリセンを三蔵がどこに隠してあるのだろうかと悟空は毎回不思議に思う。だが、それについて質問した所で答えてくれるわけがない事も判っていた。それでも、恨み言を言わずにおられないのは仕方がない反応であろう。 「ほう……どの口からそんなセリフが出てくるんだ?」 そう言いながら、三蔵は悟空の頬を掴んで左右に引っ張る。 「ふぁっふぇ、ふぁんふふぉうふぁぁ……」 だが、傷みに顔をしかめながらも悟空は何かを訴えている。このまま放っておけえば、いつまででも叫びつづけるのではないだろうか。 (……それよりも、さっさと言いたい事を言わせて仕事に戻った方がいいかもしれねぇな……) さすがの三蔵も、目の前の悟空の態度に根負けをしてしまう。 (それにしても、この猿がこんなに興味を持つ事って何なんだ?) 少なくとも、悟空が呼んでいた本には食い物の話は載っていなかったはずだが……と三蔵は内容を思い出していた。しかし、いくら考えても見当がつかない。こうなったら本人に言わせるのが一番楽かと判断した三蔵はそのまま悟空の頬を掴んでいた手から力を抜いた。 半分以上、三蔵の手で支えられていたような体制になっていた悟空は、いきなり手を離されて床にしりもちをついてしまう。 「いきなり、何をすんだよ! 三蔵の馬鹿!!」 目尻になみだをためながら頬をさすっている悟空が、ふてくされたようにそう悪態をついた。 「馬鹿はテメェだろうが……何回同じ事やってはたかれれば気が済むんだ」 そんな悟空を立ったまま見下ろしながら、三蔵は言葉を続ける。 「で、何のようなんだ? 人の仕事を邪魔したんだ。それなりの理由なんだろうな」 三蔵のその言葉で、悟空はようやく自分が彼に何かを言おうとしていた事実を思い出した。思い出したのだが…… 「あれ? 何だったっけ……」 今の一連の出来事で悟空の頭の中から追い出されてしまったらしい。 「ったく……本当にお前の記憶力はどうなっているんだ……」 無駄な時間を過ごしてしまったと付け加えると、三蔵は机に戻ろうとする。 「思い出した!」 必死に思い出そうと考え込んでいた悟空が、その背に向かってそう叫んだ。仕方がないというように振り向く三蔵に、悟空は嬉しそうな表情を作る。 「あのさ。どうして豆まきの時に『福は内、鬼は外』って言うんだ? 鬼って地獄の管理人なんだろう? そんな事をしたら死んだ後に困るじゃないのか」 そして三蔵がまた怒鳴り出す前にと思ったのか、一気にそうまくし立てる。 (こいつにしてはずいぶんとまともな疑問だな……) 食い物と遊ぶ事以外にも興味があったのか……と三蔵は妙な事で感心してしまう。とは言うものの、どう説明すればいいのだろう。 「……最初に言っておくぞ。豆まきは仏教の行事じゃねぇからな」 ため息とともにとりあえずそう言ってみる。悟空の事だ。でなければ今後も『鬼』が出てくる話はすべて仏教関係の事柄だと認識しかねないからである。 「そうなのか?」 きょとんとした表情で問い返してくる悟空を見て、三蔵は自分の考えが間違っていなかった事を知った。 「そうだ。この場合の『鬼』は病気や不幸をもたらす存在という意味で使われている。別段、地獄で金棒を持って悪人をこらしめているような存在でもなければ妖怪でもないから、安心しろ」 最後の方のセリフは別段深い意味を持って付け加えたわけではない。だが、その一言で悟空の表情が明るくなったのを見て、どうやらそれが一番聞きたかった疑問らしいと三蔵は判断した。 「そうなんだ」 三蔵の言葉を反芻するように何度も頷いている悟空に背を向けると、三蔵は今度こそ仕事に戻ろうとする。だが、直ぐにまた悟空の声が三蔵の背中を叩いた。 「まだなんかあるのか?」 いい加減にしろと言いたくなるのを我慢して三蔵はそう言う。 「じゃぁ、俺も豆まきの豆、食っていいんだよな」 そんな三蔵の気持ちを悟空が読み取ってくれるわけがない。それどころか、三蔵の機嫌が下り坂だという事すらも理解していないのではないだろうか。真顔でそんなセリフを口にした。 「……食いたきゃ、勝手に食えばいいだろうが……」 次に変な質問を口にしたら、遠慮なくぶん殴ると決意しながら三蔵は悟空を睨み付ける。もっとも、悟空はそんな三蔵の態度などなれきっているから、気にするわけがない。 「じゃぁ、俺、何個食っていいんだ? 三蔵が前に言ってたろう? 俺が五行山に閉じ込められたって言うのは五百年位前だって……だったら、五百個食っていいのか?」 無邪気なそのセリフは三蔵の堪忍袋を叩き切るのに十分だった。 次の瞬間、室内に乾いた音が響きわたる。 「豆食い過ぎて、へそから吹き出させろ!」 三蔵のよく通る声が寺院内に響きわたったのだった。 ちゃんちゃん |