日々是好日・四
「お正月、お正月。お正月といったらやっぱ、お節料理だよなァ」
 鼻唄まじりにそう言いながら、悟空はうきうきとテーブルについた。
「その前に年越しそばでしょう」
 そう言いながら年越しそばが入ったお碗――どう見ても丼に見えるのだが……――を悟空の前に置いてやったのはもちろん八戒だ。
「うわぁい。八戒、ありがとう」
 その中身を見て悟空が感嘆の声を上げる。
「……まったく……少しは遠慮しろって……」
 悟空の声がうるさいと抗議をする様に悟浄は指で耳を塞いでいる。普段は人目――もちろん、女性限定だ――を気にしてさっぱり身だしなみを整えている彼だが、出掛けても女の子と出会えない事が判っているこの時期は髭を剃るのも面倒とばかりに無精髭を生やしている。
「いいじゃないですか。せっかくの年越しなんですから」
 悟空が本格的に悟浄にいじめられる前に八戒が割って入った。同時に彼の前にも年越しそばのお碗を置く。その瞬間、遠くから除夜の鐘が響いて来た。

 正月行事で忙しい三蔵から大晦日から三が日の間だけでいいから預かってくれと言われたのは二日程前の事だ。
「この時期になると他の連中が殺気だって来てな……あいつはほとんど軟禁状態になるんだよ」
 八戒がその理由を聞き返す前に三蔵が苦笑まじりにそう説明する。
「……ようするに、神聖な寺院の新年行事に不浄の者は参加しては困ると言うわけですか」
 確認しているのだろうが、どこか皮肉に聞こえるのは三蔵の気のせいだろうか。目の前の青年が見かけや物腰しの柔らかさとは裏腹にかなりきつい性格をしているのは良く知っていた。だが、それが気に入っている三蔵は彼に文句を言うつもりはない。それに彼らに向けられる寺院の僧侶達の態度を見ていると
(まぁ、そう思われてもしかたがねぇか)
 とも思ってしまう。
「まぁ、飯を食わせられるのも忘れられている事があるんでな。お前らの所ならそれはないだろう? 食費は持たせる。あいつの場合質より量だ。適当に食わせていてくれ」
 それについて説明するとなると、愚痴も混じりかねないと言う事が判っていたので、あえて八戒のセリフには答えず三蔵はそう言った。
「悟空が泊まりに来るのはかまいませんよ。食費の方はそうして頂けるとありがたいですね。最近、悟浄が負けこんでいて生活が苦しいんです」
 八戒もそんな三蔵の心情が判っているのか、先程のセリフはなかった様にこう答えてくる。
「ふん……いい加減定職につけと言っておけ」
 そんな八戒の気遣いがありがたいと思いつつ、素直にそう口を出す事が出来ない三蔵だった。

 そんなこんなで今こうして悟空が悟浄達の家に来ているわけなのだが……
「すっげ〜〜! この年越しそばにえび天が入っている〜〜」
 いただきますの挨拶をし、早速年越しそばに箸を伸ばした悟空が、いきなり大声でそう叫ぶ。
「何言っているんだ……そばといったらえび天じゃねぇか」
 そのえび天にかぶりつみながら悟浄が呆れた様な声を出した。それだけではない。悟空のお碗の中にある分にまで箸を伸ばす。
「だって、俺、天ぷらに海老だのキスだのがあるって八戒が作ってくるまで知らなかったんだもん……」
 必死にえび天を死守しながら悟空は悟浄にそう言い返した。
「あぁ、それは仕方がないですよ。寺院の食事は精進料理が一応基本ですから。なまぐさである肉や魚介類は献立から除かれてしまいますからねぇ」
 しつこく悟空のえび天を狙う悟浄の手を叩きながら八戒が説明をする。
「そうなの?」
「そうなんですよ。だから、寺院でのご飯にはあんまんは出ても肉まんは出ないでしょう?」
 説明になっているのかいないのか、よく分からないセリフを八戒は微笑みとともに悟空に投げかけた。
「……そういえば……三蔵のお土産以外で肉とかなんか食べた事ないや、俺……」
 だが、悟空には一番分かりやすい例えだったらしい。納得できたという晴れやかな表情で再び箸を動かし始める。
「……本当、甘やかしているなぁ、三蔵様……」
 ようやく悟空のえび天を狙うのをあきらめたのか、悟浄はそう言うと自分の分をすすり始めた。
「悟空。おそばはまだありますからね」
 八戒もそう言うと自分のお碗の中身を空にする為に箸を動かす。もっとも、それを食べ終わる前に悟空が『お代わり』の催促を始めたのだが、彼は嫌な顔をせずに腰を上げた。
「まったく、お前の食欲だけは世界最後の日が来ても無くならねぇだろうよ」
 食後の一服とばかりにたばこに手を伸ばしながら悟浄がそう言う。
「そう言う悟浄の煩悩は除夜の鐘を百年分ついても無くならないんじゃないのか」
「およっ」
 思っても見なかった悟空の仕返しに、悟浄は思わず手にしていたたばこを取り落としてしまった。まさかキスの意味も知らないであろう『お子さま』悟空の口からそんなセリフが出るとは思わなかったのだ。
「悟空、そのセリフ、誰から聞きました?」
 固まっている悟浄を尻目に、年越しそばのお代わりを持って来た八戒が悟空にそう問いかけた。
「三蔵」
 待ちきれないという様にお碗に手を伸ばしながら悟空が答える。
「やっぱりね」
「何教えているんだ、あの鬼畜坊主は……」
 おそらくここに来る直前にそういう会話を交わしたのだろう。それを悟空が珍しくきちんと覚えていただけなのだ。その事実が買った瞬間、悟浄は訳も判らないまま安堵に胸をなでおろしてしまった。
 だが、それはまだ早かったといっていい。
「でも、真実でしょう?」
 微笑みを浮かべて悟空の食べっぷりを見ていた八戒がさりげない口調で悟浄にとどめを指してくれたのだ。
「八戒、お前なぁ……」
「食欲と性欲と睡眠欲は生き物の三大欲求ですからね。無くそうとしても無理でしょうし。もっとも、それをコントロールする事は可能ですけどね。悟浄の場合、コントロールする気はないのでしょう?」
 辛辣なセリフをさらりっと言えるのが八戒の強い所であろう。三蔵と彼の会話を聞いているとついつい胃が痛くなってしまうのは悟浄だけではあるまい。もっとも、悟空はそれを平気で聞いていられる様だが、それは彼が二人の会話の裏に隠れている意味を理解できないからだけに違いないのだ……と悟浄は思っていた。
「って事は何だ? 俺も悟空と同じレベルだって言いたいのか?」
 しかし、幸か不幸か彼らのセリフの裏に隠されている意味を読み取れるぐらいの人生経験を悟浄は積んでいる。なので、墓穴を掘るとは判っていてもついついそう聞き返してしまった。
「それについてはノーコメントとしておきましょう。あなたのプライドのためにもね」
 しかし、八戒の方はあえてその答えをはぐらかす。はっきりしない分、余計に気にかかるんだよと悟浄は心の中で呟くがそれを聞き届けてくれる者など誰一人いなかった。
「悟空? 眠いならベッドに行ってもいいんですよ?」
 八戒の意識は既に、箸を握ったままこっくりこっくり舟をこぎ始めた悟空の方に移っている。
「大丈夫、まだ食べるぅ……」
 八戒の声に悟空はそう言うとまたお碗の中身に箸を付けた。だが、直ぐにまた舟をこぎ始める。
「……まぁ、今年も平和に始まったって事か……」
 既に除夜の鐘は鳴り終わり、時計の針も新しい日付に変わっていた。完全に沈没してしまった悟空を苦笑しながら八戒がベッドに運んでいく。それを横目で見ながら、悟浄は小さくつぶやいたのだった……

終わり