日々是好日・弐
 何時もの様に周囲の僧達の無能さ――と言っても、それはあくまでも三蔵の主観である――にいらつきながら、自室に戻って来た。だが、扉を開けた所で首をかしげる。
 その答えは直ぐに判った。
「いねぇのか……」
 いつもならどこにいても三蔵が戻って来たと判った瞬間飛び出してくる人影が今日はない。
 何か気に入らないという様子で三蔵は懐からたばこを取り出した。そしてライターで火をつけ大きく煙を吸い込む。
「あぁ、そういや連中の所に行ったんだったな……」
 一服した事で脳味噌が活性化されたのだろうか。三蔵の脳裏に忘れかけていた朝の情景が思い出された。
『八戒が手伝ってくれって言っていたから遊びに行ってくる』
 三蔵が執務のために部屋を出る時、悟空がそう声を掛けて来た。
『手伝い? 邪魔をしに行くんじゃねぇのか』
 と半ば呆れながらも
『あんまり迷惑を掛けてくるんじゃねぇぞ』
 こう言って送り出したのは間違いなく自分である。その事実に苦笑するしかなかった。
「しかし、あいつもずいぶんとまた連中になついたもんだ」
 まぁ、それは無理もないだろうと思う。
 悟空の保護者が三蔵である為に表立って追い出せと言うものはいなかった。しかしその姿を見ればあからさまな態度で無視をしたりわざとらしく妖怪の弊害を口にするありさまだ。
 だが、それも三蔵が傍に居る時は決して見られない。あくまでも悟空が一人でいる時にだけ行われている。そして、遠回しに自分から寺院を出ていくように仕向けさせようとしているのが傍目からでも判った。
 だからと言って三蔵は悟空をかばったりしなかった。もし三蔵が悟空をかばったりしたら、彼に対する排他感情がますます強まる事が分かりきっていたからだ……と言うのはあくまでも名目で単に面倒くさかったからというのが真実だろう。
 だから、悟空が出ていったとしても引き止める事もしなかっただろうと三蔵は苦笑を深める。
 それでも悟空は三蔵が此処にいる限り出て行こうとはしなかった。
 子供――もっとも、悟空がその範疇に入るのかかなり疑問ではある。しかし、精神年齢からすれば十分『お子さま』だろうと三蔵は思っていた――が暮らすにはあまりいい環境であるとは言えない。それでも、悟空がここ――正確には三蔵のそば――を『帰る場所』として認識している以上、三蔵は今よりも悟空に対する僧達の対応が悪くならないようにしてやるだけである。
 そんな悟空を初めてごくあたりまえに受け止めてたのが悟浄と八戒だ。
「まぁ、あの馬鹿猿にはそれが嬉しかったんだろうよ」
 自分では決して与えられなかったその環境に三蔵は苛立ちを覚える。だからといって取り上げる様な真似は面倒だからしないさと心の中で呟いたのだった。

「じゃぁ、もらって行くね、八戒! ありがと」
 玄関の外から悟空の必要以上に元気な声が響いてくる。それに眉をひそめながら悟浄はベッドからようやく抜け出した。
「いいえ。手伝ってもらったお礼ですよ。それよりもそれにばっかり気を取られて転ばない様に気をつけて帰ってくださいね」
 ドアの向こうではまだまだ八戒と悟空の会話が続いている。悟浄はその会話をBGMにしながらたばこに火をつけた。そして一服するとようやく全身に活力が沸いてくる様な気がする。
「俺はそんなに馬鹿じゃない」
 八戒の注意をうるさく思ったのだろう。悟空がそう言い返しているのが聞こえて来た。
「……十分『馬鹿』だと思うけどな……」
 少なくとも本能で動いているうちは『馬鹿』と言われても仕方がないだろうというのが悟浄の持論である。だが、それに対して八戒とは認識を別にしていた。彼の場合、元教師であったからかも知れないが。事実、八戒の悟空に対する言動は完全に小さな子供に勉強を教える教師のそれだったりする。
「はいはい。判っていますよ。でも、本当に気をつけるんですよ」
 しつこくも同じ事を繰り返す八戒に、悟空もあきらめたのかそれ以上口答えをすることはしなかった。
 ぱたぱたとかけていく足音が次第に遠ざかっていく。と言う事はこれ以上八戒に何か言われる前に悟空は逃げ出したのかもしれない。
「……本当、最強だねぇ、あいつは……」
 そうか、実力行使に出るより悟空には八戒の様にしつこくも繰り返す方が効果があるのかと口の中で呟きながら、悟浄は短くなったたばこをもみ消す。
「まぁ、あの三蔵様と暮らしているんだったら少々ぶん殴られたくらいじゃ何とも思わないんだろうけどぉ」
 そう呟きながら本日二本目のたばこに火をつけた。
 そこに八戒が顔を出す。風の流れにのって流れていったたばこの煙に一瞬眉をひそめるが、直ぐに何時ものにこやかな表情を作った。
「おそようこざいます。丁度さっきスコーンが焼き上がった所ですけど、食べますか?」
「……そういや、腹が減ってるかな?」
 胃のあたりを押さえながら悟浄は八戒の問いに答える。
「直ぐに食べられますよ。悟空が取って来てくれた木の実が入ったパンケーキと悟空が集めるのを手伝ってくれた木いちごのスコーンとジャムでよければ」
 にこやかな口調で八戒が献立を説明してくれた。しかしその裏に思いっきりいやみがは言っている様に思えたのは悟浄だけであろうか。
「……はいはい、起きなかった俺が悪ぅござんした」
 ともかく、こう言う時はさっさと謝っておくにかぎると知っている悟浄はそう言って見せた。
「謝ってもらわなくてもいいですけどね、別に。あなたの稼ぎが最近減っただなんて少しも思っていませんから」
 こういうセリフは言った本人が笑顔であればあるほど投げつけられた方は衝撃が大きいのではないだろうか。はっきりきっぱり『根に持っている』と言ってもらった方がどれだけ楽かと悟浄は思ってしまう。
「全く……悟空に対する態度とずいぶん差があるじゃねぇかよ……」
「当たり前でしょう? 悟空に意地悪をした場合、保護者様の反応が怖いじゃないですか」
 少しもそう思っていない様な口調で八戒はけろりっと言い放つ。
「第一、彼はどんな時でも正直ですからね。あまりに正直すぎてこちらの方が心配したくなるくらいです。あなたの様にイヤミをイヤミと受け取れない可能性がある相手にそんな事を言う趣味はありませんからね」
 その言葉をどういう意味に取るべきか、悟浄は本気で悩んでしまった。

「三蔵! ただいま!!」
 そう叫びながら悟空が部屋に駆け込んでくる。
「……うるせぇ! そんなに大声ださんでも聞こえる」
 いかにも嫌そうな表情で三蔵はそう言った。同時にばさりっと音をたてて読んでいた新聞を畳む。僧侶達だったらその態度だけでこの場から逃げ出したのではないだろうか。
 しかし、悟空にしてみればこんな三蔵の方が日常なのだ――もしもここで彼が機嫌がいい方が驚いたかもしれない――なので特に気にすることなく手にしていた包みをテーブルの上に置く、三蔵に向かって満面の笑みを向ける。
「これね、八戒が焼いてくれたんだ。まだあったかいから一緒に食べよう」
 自分が食べたいだけだろうと思いつつ、三蔵は悟空に視線を向けた。
「……俺はいい。てめぇだけで食べるんだな」
 三蔵はそう言うと今度は別の新聞を取り上げて広げようとする。
「え〜〜、何で……三蔵と食べてくださいって八戒がわざわざ詰めてくれたのに……」
 三蔵の返答に、悟空は唇をとがらせた。その仕種に三蔵はため息をつくと、面倒くさそうに口を開く。
「俺は今、腹が減っていない。どうせお前は向こうで食って来たんだろう? だったら夕食の時まで我慢しろ」
 それなら付き合ってやれるからと三蔵にしては珍しく譲歩して見せた。もっとも、八戒の料理がうまいという事実と、そろそろ寺院で作られる食事に飽きて来たという理由も有るのだが。
 しかし、悟空の返答は三蔵が予想していないものだった。
「え〜〜! 俺、三蔵と食べようと思って食って来なかったのに……八戒も『三蔵と食べなさい』って言ってたし……」
 傍から見ても自分以上に悟空を猫可愛がりしている八戒が悟空にえさをやらずに追い返すなど普通なら考えられない。と言う事は何か理由があっての事か……と三蔵は考えた。
「その理由は言っていたか?」
 機嫌が悪いという感情を隠さないまま、三蔵は悟空にそう問いかける。もっとも、悟空の記憶力が当てにならない事もよく分かっていたのだが……
「んっと……」
 案の定、悟空は必死に思い出そうとしている。
(……これは後で直接聞きに行った方がいいかもな……)
 ついでに文句の一つも言ってやろうと心の中で三蔵が呟いた時だ。
「えっとね。確か、保護者と一緒に食事をしない子供はぐれるとか何とかって言ってた……」
 思い出せたのが嬉しいのか、それとも覚えていたという事実が嬉しいのか判断は難しいが、悟空は嬉しそうな表情でそう告げる。
「……あの野郎……」
 その言葉の裏に秘められた意味が判ったのだろうか。三蔵は低くうめいた。
「三蔵?」
 いきなり新聞を握りつぶした三蔵に不安そうな表情で悟空は呼びかける。ひょっとして自分は何かまた失敗をしたのだろうかと思ったのだろう。こう言った。
「あぁ、いい……俺にそれを食わせたいなら、いますぐにでもコーヒーか何か用意しやがれ。そうしたら付き合ってやる」
 その瞬間、悟空は本当に嬉しそうな表情でぱたぱたと台所の方に駆け出して行く。
 何度も頭をたたかれた甲斐があってコーヒーぐらいは淹れられるようになったのだ。それが最近の悟空の自慢だったりする。しかし、その味はまだまだ三蔵が納得できるものではない。だから滅多に三蔵は悟空にコーヒーを淹れされる事はなかった。それを悟空が不満に思っていたのも知っていたが、そこまで甘やかす必要はないと思ったのだ。
 おそらく、それを愚痴られたのだろう。八戒がわざわざスコーンだのなんだのを持って帰らせたのは、悟空に自分が飲む為のコーヒーを淹れる機会を与える為ではないか……と三蔵は推測したのだ。
 ため息とともに三蔵は新聞を伸ばし始めた。
「さて、今回の件のお礼を考えておかねぇとな」
 そのまま新聞をきちんと畳みながら三蔵は呟く。
「あいつの事を受け止めてくれるのはいいが、俺達の事まで口を出されるのは大きなお世話だと教えとかねぇと、今後も余計な事をしてくれそうだし……」
 もっとも、今それを悟空に言うつもりはなかった。せっかく楽しそうにしているのに水をさす事は出来ないと思うあたり、自分も悟空に甘いのだという事実を三蔵は気づいていないのかもしれない。
 コーヒーをこぼさない様に慎重にカップを抱えながら戻って来た悟空に憮然とした表情を向けたまま、三蔵はスコーンに手を伸ばしたのだった……