日々是好日・11

「三蔵……」
 本を読んでいたはずの悟空が、ふっとこう呼びかけてきた。
「何だ?」
 言外に『面倒くさい』と付け加えつつ、三蔵はそれでも律儀に視線を手にしていた新聞から悟空へと向けた。
「この人って、何をした人なわけ?」
 それでも三蔵が反応を返してくれた……という事実にうれしそうに笑いながら、悟空は三蔵に見えるようにと開いていたページを彼の方へと向けた。そこには僧侶ならばよく知っている者たちの絵が描かれている。
「……その本、どうしたんだ?」
 少なくとも、自分は与えた覚えはないのだが、と三蔵は言外に付け加えた。自分自身が信じていないものを悟空に押しつける気はないとその瞳が告げている。
「読むもんなくなった……っていったら、じいちゃんが貸してくれた」
 その視線に、悟空は身を縮めながら答えた。
 悟空のセリフに、三蔵は小さくため息をつく。と同時に、自分のうかつさが腹立たしい。
「……三蔵?」
 ひょっとして怒らせたのだろうか。
 これについて聞いたのがまずかったのか。
 悟空はそんな三蔵の様子の意味をはかりかねて固まってしまった。その事実に気がついて、三蔵は小さくため息をつく。
「誰もテメェが悪いなんて言ってねぇだろうが」
「……だって……」
 三蔵が怒っているから……と悟空は小さな声で付け加える。どうしたことか、目の前の小猿は他の僧侶達でも気がつかない三蔵の機嫌を的確に読みとれるのだ。そして、今回の理由も自分にあると判断したのだろう。
「怒ってんのはテメェにじゃねぇ。自分にだよ」
 ますはその誤解を解くか……というように、三蔵は嫌々ながら言葉を口にした。
「忙しかったって言う理由で、買い物に行く約束を伸ばしのばしにしていたからな」
 でなければ、悟空が僧正から本を借りてくる……と言うことなどなかっただろう。
「だって、三蔵のお仕事は大切なんだろう?」
 俺につき合っている時間って、無駄なんだってみんな言ってた……と付け加える悟空の言葉に、三蔵の機嫌はさらに低空飛行へと移行してしまった。
(……そう言うことを言いそうなのは……あいつか? それとも……)
 即座にその顔が思い浮かぶ事実が、三蔵の機嫌の悪さに拍車をかけてしまう。
「……テメェの面倒を見るのも、十分大切だがな……」
 その機嫌の悪さを押し殺しながら、三蔵は口を開く。
「そうなのか?」
 そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。悟空はただでさえ大きな瞳をさらに丸くしている。
「そうなんだよ。少なくとも俺にはな」
 だから、テメェが気にすることはねぇんだよ……と付け加えた。
「わかった」
 三蔵がそう言うのならばそうなのだろう……と悟空はあっさりと納得をする。
「で、これって何をした人?」
 続いて再びその問いを口にした。
「……那托太子か……昔、牛魔王とかって言う馬鹿が暴れ回って困ってたときに退治をした神様だ……っていう話だな」
 三蔵の言葉を耳にした瞬間、悟空の瞳が何かを求めるかのように宙をさまよい出す。
「どうした?」
 しかも、彼の瞳からは光が失われている。
「悟空!」
 三蔵は慌てて彼の側に駆け寄った。そして、頬を軽く叩く。しかし、彼からの反応は返ってこない。
「馬鹿猿!」
 仕方がなく、三蔵は大声で叫ぶと同時に、力一杯悟空の頭にハリセンを振り下ろした。
「……あれ?」
 ようやく正気に戻ったのだろうか。
 悟空は痛む頭を押さえつつ、呆然としたまなざしを三蔵へと向けてくる。
「俺……」
 何したんだっけ……と付け加えられた言葉から悟空が今自分がどのような状態だったのか覚えていないことが伝わってきた。その事実に、三蔵がどうしようか……と思ったときだった。三蔵は悟空の頬に涙が流れ落ちていることに気づく。

「泣いてんじゃねぇよ、馬鹿猿」
 溜め息と共にこう告げれば、悟空は慌てて自分の頬に手を当てた。
「……あれ?」
 その時、悟空も初めて自分が泣いているときがついたらしい。訳がわからないという表情で涙をぬぐっている。
(……キーワードはどっちだ?)
 何かが悟空の封印された記憶を揺さぶったのではないか。だから、こんなにも不安定なのだろう。
 しかし、それを悟空に確認するわけにはいかない。
「俺、何で……」
 そう呟いた瞬間だった。
「ひっ!」
 三蔵の目の前で悟空は頭を抱えてうずくまる。
「猿?」
 いったいどうしたんだ、と三蔵は慌ててその体を抱きかかえた。
「……頭、痛い……」
 悟空は金鈷のあたりを押さえながらこう呟く。
「っ……ちっ!」
 別段、悟空が何かを思い出しそうになれば金鈷が締まると言うわけではないのだろう。だが、それに近いことは起きているのかもしれない。
 あるいは、思い出そうとするとストップがかかるような術をかけられているのか。
 どちらにしても、ろくでもない……と三蔵は小さく吐き出す。
 悟空が天界でどんな罪を犯したかは知らない。
 しかし、その時の記憶も悟空自身のものだろう。
 それを取り上げる権利は天界の『神』といえ、持っていないはずだ。
 三蔵は怒りを押さえきれない。だが、それを目の前の悟空にぶつけることはもちろん、彼の記憶を奪った相手にも告げることはできない。
「寝ろ! ともかく、今日はもう寝ろ」
 そして、思い出しかけたことは全部忘れてしまえ……と言外に三蔵は付け加える。
「……さんぞ……」
 悟空の手が、三蔵の腕を掴む。頭痛が治まったわけではないだろう。だが、そうしているだけで安心できると悟空の瞳が訴えていた。
「寝ろって言ってるだろう」
 口調は変わらないものの、三蔵はそんな悟空の頭を優しく撫でてやる。
「……だ、て……あたま、いたい……」
 そんな三蔵に悟空がこう訴えてきた。先ほどよりも少しだけだが声に力が戻っている。
「ったく……」
 しょうがないなと呟きつつ、三蔵は悟空の体を抱え上げた。そのまま膝の上にその小さな体を乗せてやる。
「こうしといてやるから、寝ろ」
 そのままかつて光明がしてくれたようにぽんぽんと悟空の背を軽く叩いてやった。
「さんぞ、大好き……」
 その三蔵の胸に顔を埋めると、悟空は小さく呟く。そのまま目を閉じれば、やがて意識は眠りの中へと落ちてしまったらしい。それは、三蔵のぬくもりを感じて安堵したようにも、痛みからの逃避のようにも見受けられる。
「……馬鹿猿……」
 それでも穏やかな寝息を耳にして、三蔵はどこかほっとしたような表情で呟く。
「これからが厄介だな」
 何かを思い出しかけるたびにこれではやってられない……と三蔵がため息をついたときだった。
「500年も経てば、術だって効力を失うのさ」
 その瞬間、聞き覚えのない声が三蔵の耳に届く。慌てて振り返れば、どう考えても悟空以上に『寺院』にそぐわない格好をした女が窓枠に腰掛けているのが見えた。
「てめぇは……」
 いつもであれば、言葉よりも先に発砲していただろう。だが、悟空を抱えた今の状況ではそれは不可能だと言っていい。だから、三蔵は相手を苦々しい思いで睨み付けるだけにした。
「そいつの記憶を封じた奴の関係者だ」
 言外に、その女は『神』だと告げる。
「……何をしにきた?」
 だが、相手が誰であろうと三蔵には関係ない。不快感をあらわにしながら近づいてくる相手に問いかけた。
「封印のほころびを直すのさ」
「やめろ!」
 悟空の頭へと伸ばされた手を、三蔵はたたき落とす。
「……やめてもいいが……その場合、小猿が狂っても責任、とらねぇぞ」
「どういうことだ?」
 まじめな口調で投げかけられた言葉に、三蔵は眉をひそめる。
「そいつの記憶は、今のそいつに受け止められるようなもんじゃねぇ。だから、封じた。いつか――そんな日が来るのかどうか知らねぇがな――そいつ自身が受け入れられるようになるまでな。それは罰であると同時に救いでもあるんだよ、そいつの」
 だからすべての歴史から悟空が犯した『大罪』の内容を消し去ったのだ、と女は付け加える。
「どうする? それでも放っておけというのであれば、俺は帰るが?」
 ここまで言われてしまっては、三蔵としても相手を帰してしまうわけにはいかない。
「……気にいらねぇが……妥協してやる。やるならさっさとやれ」
 悟空が起きる前にさっさと消えろ……と言外に付け加える三蔵に、女はさらに笑みを深める。
「本当、可愛いよ、お前らは」
 小さく呟かれた言葉に、三蔵がその真意を確かめようかと視線を上げた。
 だが、それよりも一瞬早く、彼女の手が悟空の神へと優しく触れる。同時に、周囲をまばゆい光が包み込んだ。
「っ!」
 その光に痛みすら感じて、三蔵は目を閉じる。
 まぶたを閉じていてもそのまばゆさは確認できた。
 ようやくそれが消えたことを知って、三蔵は瞳を開く。
「……逃げやがったか……」
 姿を見せたのも唐突であれば、姿を消すのまでそうかと三蔵は舌打ちをする。もしこの場にいたなら、文句の一つや二つぐらいぶつけてやれたのに、とも思う。
 だが、悟空の寝息が穏やかになっているのを耳にして、三蔵はあっさりとその思いを投げ捨てた。
「まぁ、いいか」
 ともかく、もう二度とあんな悟空を見るのはごめんだ……と呟きつつ、三蔵は彼を抱えたまま立ち上がる。そして、腕の中の小さな体をベッドの上へと放り出した。それでも悟空は目を覚ます様子を見せない。
 そんな悟空に苦笑を浮かべると、三蔵もまた眠るために着替え始める。
 月だけが、その痕の光景を見つめ続けていた……