「八戒」
 悟空がまじめな口調で声をかけてくる。その瞬間、名を呼ばれた当人よりも、周囲の人間の方が大きな反応を示していたのはどうしてなのだろうか。
「何ですか?」
 これは、ひょっとして悟空が何を話したいのか二人とも知っているのかもしれない……と思いつつ八戒は微笑みを浮かべる。
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
 悟空はその八戒の表情に安心したようにこう口にした。
「もちろんですよ。何を聞きたいのですか?」
 どうやら、悟空に何かを吹き込んだのは悟浄のようだ。三蔵がものすごい視線で悟浄をにらんでいるし、悟浄はいつでも逃げ出せるようにしている。
 それはいつものことと言えばいつものことなのだが、内容次第では後でお仕置きをしないといけませんね……と八戒は心の中で付け加えた。
「どうして尺八を吹いて貰うと気持ちがよくなるんだ?」
 悟空が無邪気な口調で問いかけた内容に、三蔵と八戒の眉毛がぴくりっと跳ね上がる。
「悟浄! 逃げんじゃねぇ!!」
 やばいと察したのだろうか。悟浄がドアめがけて駆けだした。その悟浄の背に、三蔵が手にしていた湯飲みを投げつける。
「だめですよ、三蔵。宿のものを投げちゃ……後で弁償しないといけなくなるじゃないですか」
 投げるなら、こういうものにしましょう……といいながら八戒が投げつけたのは、手のひらに集めた『気』だった。
「……なんか、俺、まずいこと聞いちゃった?」
 二人とも怖ぇ……と付け加えながら、悟空がつぶやく。
「そう言うことではないのですけどね……」
 しっかりとそのつぶやきを聞き取った八戒が態度を豹変させるとこう口にする。
「こいつが馬鹿なだけだ」
 三蔵も冷たい口調で吐き捨てると、足の下で転がっている悟浄を遠慮なく踏みにじった。既にぼろぼろの悟浄が、ますます悲惨な状況になっていく。
「……尺八って、そもそもなんなわけ?」
 一気に悪化した室内の雰囲気をどうにかしようと思ったのだろうか。悟空は無難そうな疑問を口にした。
「えぇ、そうです。東の方の、海を越えた島国で作られている楽器で、確か竹製の縦笛のようなものだったと思います」
 僕も実物は見たことがないのですが……と八戒が口にしたときである。
「慈英が吹いていたのがそれだろうが。てめぇも聞いたことがあるだろう」
 三蔵が脇から口を挟んできた。
「あの何かぼうっとした感じの音のやつ? でも、あれの音っておもしろいし、曲になるとすげぇけど、気持ちいいって訳じゃなかったよな……」
 ぶつぶつとつぶやくようにした後半のセリフが、また三蔵の怒りを駆り立てたらしい。悟空に意識が向けられた隙に三蔵の足下から逃げ出していた悟浄の尻に思い切りつま先がめり込む。
「いってぇ!」
 かなりまずいところにヒットしたのかもしれない。悟浄は本気で悶絶している。
「ったく……学習能力がねぇところは、ゴキブリ以下だな、てめぇは」
 そんな悟浄に少しも情けをかけるつもりはない三蔵が、冷たい口調でこういった。
「悟浄の頭の中は、ほとんどが自分の煩悩でしめられていますからね」
 困ったものです……と穏やかな口調で言う八戒の瞳の奧には、剣呑な光が見え隠れしている。はっきり言って、それだけで周囲の空気を二三度下げられるのではないだろうかと、悟空は本気で思ってしまう。
「……あのさ……」
 それでも、ここで殺人事件を起こされては困ると悟空は口を挟もうとする。
「ようするに、表だって言えないことの比喩なんですよ。その内容は悟空が知らなくていいことですからね」
 きっぱりと言い切る八戒の迫力に、悟空は思わず頷いてしまう。
「と言うことで、悟空の質問に冠しては終わりにしていいですよね、三蔵?」
 意味ありげな口調で八戒は三蔵に確認を取る。
「あぁ……」
 その言葉の意味がわかったのだろう。三蔵は袂から小銭入れを取り出して悟空へ向かって放り投げた。
「三蔵?」
 いったいどういう意味でこれが自分に渡されたのだろうか……と悟空は小首をかしげながら彼の名前を呼んだ。
「たばこをワンカートン買ってこい。余った金で好きなもん喰ってきていいぞ」
 珍しくも気前のいいセリフに、悟空の瞳が輝く。
「マジ?」
 確認をするような悟空に、
「嫌ならいいんだぞ」
 三蔵はすかさずこういった。
 逝ったことはしっかりと実行に移すのが三蔵だ……と知っている悟空は慌てて行動を開始する。
「行ってきます!」
 ぱたぱたと足音を響かせながら、三蔵達の脇をすり抜けていく。
「あまり遅くならないようにしてくださいね」
 危ないですから……という八戒の注意が悟空の背に投げかけられる。
「わかった!」
 一言校言い残すと、悟空の姿はドアの向こうへと消えた。
「さて……」
「遠慮はいらねぇな」
 その瞬間、部屋の中の温度が一気に氷点下まで下がったような感覚を悟浄は覚える。しかし、だからといって素直に謝ることができないのが彼の性格だった。
「八戒はともかく、なんで三蔵が知ってんだよ……って、ひょっとして経験あり……ってか?」
 これが三蔵の逆鱗に触れたのは言うまでもないだろう。
「テメェ……コロス」
 言葉とともに銃口が悟浄に向けられた。そして、次々と銃弾が発射される。
「……また、修理代を支払わなければならないわけですね……いっそ、悟浄に体で支払わせましょうか」
 その光景を見ながら、低い笑い声とともにこう口にした八戒は、はっきり言って怖い。悟空がこの場にいなくて本当によかったのではないだろうか。

 それから2時間ほど経ってから、悟空は満足そうな表情で戻ってきた。
「あれ? 悟浄は?」
 しかし、どうしたことかそこには三蔵と八戒の姿しか見えない。不審に思ってこう問いかければ、
「あちらこちら壊してくれましたので、その分、労働で支払いに行っています。出発するまでには戻ってきますよ」
 と八戒が答える。にっこりと微笑む彼の表情から、悟空はそれ以上何も問いかけない方がいいだろうと判断をした。
「はい、三蔵。たばことおつり」
 そして、あっさりと思考を切り替えるとこう言いながら三蔵の元へと歩み寄っていく。
「んっ」
 それを三蔵が受け取ると同時に、八戒が悟空の前にお茶を差し出した。
「これを飲み終わったら、一緒にお風呂に行きましょうね」
「わかった」
 八戒の言葉に、悟空が素直に頷く。
 そのまま、穏やかな時間が彼らの上に流れていった。

 翌朝、悟浄がぼろぼろになった状態でジープの上で眠っている。その理由を問いかけても、彼は決して口を開こうとしなかったのは言うまでもないだろう。



ちゃんちゃん