「……三蔵……」 珍しくも音を立てないように扉を開けるとその隙間から顔を出した悟空が彼の名を呼んだ。 三蔵は、一瞬だけ視線を向けて悟空の呼びかけに答える。 その表情を見て、悟空はほっとしたような表情を作った。体が通り抜けられ位扉を開くと、三蔵の側へと歩み寄っていく。 「聞きたいことがあるんだけど、いい?」 そして、三蔵が使っている机から少し離れたところに立つと、小首をかしげながらこう問いかけてきた。 「何だ?」 話を聞き終わらないうちはきっと私室に戻れと言っても戻らないだろう。そのことをよく知っている三蔵は、小さくため息をつくと、署名をする手を止めた。一休みをするのに丁度いい頃合いだろうし……と心の中で呟いた言葉が、あくまでも口実であることもわかっている。 「……人を好きになるって……いけないことなのか?」 そんな三蔵の微妙な態度の違いに気がついたのだろう。悟空は疑問の言葉を口にした。しかし、ある意味それは予想もしていなかったセリフだといっていい。 「なんでだ?」 そんなことはないと言外に含ませながら、三蔵は悟空に聞き返す。 「……だって……」 悟空はなんと言えばいいのかわからないという表情を作る。その表情から、三蔵はおそらく誰かが悟空に何かを言ったのだろうと判断した。 「ったく……」 ろくでもないことばかりしやがって……と三蔵は心の中でぼやく。 「誰かが誰かを好きになることなんて、誰も禁止できねぇし、悪いことじゃねぇ」 そんなことは、当然のことだ……と三蔵は付け加えながら悟空の顔を覗き込む。 「俺が、人間じゃなくても?」 三蔵の瞳をまっすぐに受け止めながら、悟空がさらに質問の言葉を口にした。 「当たり前だろうが。人間であろうと無かろうと、感情があるだろうが。それを消させることは誰にもできねぇ」 そんなことができる者がいたら、真っ先に自分の感情を消しに来るだろうと三蔵は心の中で付け加える。だが、師である光明三蔵を殺された事に関するすべての感情を消された場合、自分は自分ではなくなるだろうとも思う。 ここまで考えたときだった。 三蔵は悟空がすべての記憶を『失っている』という事実を思い出す。しかし、感情までは消せなかったらしいことも彼は知っていた。 その事実に、本人が苦しんでいるだろう事も三蔵はわかっている。だが、それに触れることができない。それに三蔵はもどかしい思いを抱いていた。 「まぁ、その気持ちを相手に無理矢理押しつけたら、迷惑かもしれねぇがな」 それを隠すようにして、三蔵はこう付け加える。その瞬間、悟空が思いきり目を見開く。やがて、その顔からは血の気が引いていく。 「猿?」 いったいどうしたのか、と三蔵が声をかければ、 「……やっぱ、俺が、三蔵を好きなのは迷惑なのか?」 と悟空が言葉を絞り出す。 「何でそうなるんだ」 三蔵は訳がわからないと言うようにため息をつく。 「だって……俺が三蔵を好きだから、三蔵の機嫌が悪いんだって……」 完全に混乱しているのだろう。悟空は隠そうとしていたことまであっさりと口にしてしまった。 その内容に、三蔵の機嫌は別の意味で悪くなる。 「テメェに好かれて、どうして俺の機嫌が悪くなるんだ? てめぇも、んな馬鹿なセリフを信じるんじゃねぇ、この馬鹿猿!」 俺が好かれて迷惑だと思う相手を側に置いておくと思っているのか、と付け加えられて、悟空もようやく納得したようだ。 「じゃ、俺が三蔵を好きでもいいのか?」 それでもまだ不安なのだろう。確認するようにこう問いかけてる。 「それはテメェの感情だ。テメェの好きにしろ」 別段、迷惑とも思わねぇしな……と付け加えられて、悟空はようやくほっとした表情を作った。 「他にも、ジジィなら迷惑だといわねぇはずだぞ」 そんな悟空に、もう一人の見方の存在を思い出させようとするかのように、三蔵はこういった。 「じいちゃんも?」 三蔵の言葉に悟空は頷きかけてやめる。どうやら、彼の言葉だけでは不安らしい。もっとも、それは本人の口から聞いていないと言うことが問題だけであって、三蔵の言葉を信用していないと言うことではないらしい。 「気になるなら、聞いてこい」 ついでに、これを持っていって渡してこい、と付け加えつつ三蔵は手元にあった書類を数枚、悟空の方へと差し出す。 「わかった」 それが、自分に僧正の元へと向かう口実を与えてくれるためだ、とわかったのだろう。悟空は三蔵に笑いかける。そして、書類を受け取るとそのまま部屋の外へと出て行った。彼の足取りは、ここに入ってきたときのものとまったく違っている。 「……どこが、慈愛の精神の持ち主なんだよ」 その事実に三蔵はどこかほっとしながらも、こうぼやかずにはいられない。 本当は、ここは悟空の成長にはよい場所ではないのだ。だが、自分がここにいる以上悟空を追い出すことはできないであろう。今となっては、自分も悟空を手放すことはできないと三蔵も自覚している。 ならば、少しでも悟空の居心地をよくしてやらなければならない。そのためにはどうしたらいいのか、と三蔵は考える。 「ジジィが味方な分、有利だがな」 でなければ、いくら三蔵が『最高僧』とは言え、悟空はとっくに追い出されていただろう。そうされないのは、僧正が悟空をかわいがっているという個人的な事情と、斜陽殿から伝えられた天界の意向によりものだと言うことも三蔵にはわかっていた。 「第一、好きだと思う気持ちはテメェでも止められねぇって言うのに、他人がどうこうできるもんじゃねぇだろうが」 それをできると思っている奴らは、ただの馬鹿なのだと三蔵は結論付ける。だから、悟空をいつまで経っても認められないのだろう。こう考えれば、ほんのわずかだが三蔵の気持ちは軽くなった。 「……猿が戻ってくる前に仕事を終わらせとくか」 どうせ、僧正の元からなんだかんだと貰ってくるに決まっている。そうすれば、仕事どころではないことは目に見えていた。 「ったく……あいつらも無視してくれりゃいいものを……」 再び視線を書類に戻しつつ、三蔵はこう呟く。 同時に、それが無理だろうとも思う。 悟空が身にまとっている輝きは、意識から追い出すにはまぶしすぎる。 だから、あきらめて退かれていく自分を認めるか、それとも無理矢理拒絶するかのどちらかになるのだ。 自分や僧正は前者を選び、他の僧侶達は後者を選んだだけのこと。 「……実は、猿を好きなのか、あいつら」 ふっと妙な考えが三蔵の中に浮かび上がる。それはすぐに認められないものだったのだが、その可能性は否定できない。 「だとしたら、笑えるんだがな」 さらに気分がよくなった三蔵は、てきぱきと書類を片づけ始める。 三蔵の気分を反映するかのように、それは次々と決裁済みの山へと移動されていく。もう少しで今日の分が終わると思ったとき、悟空の足音が廊下から響いてきた。 「三蔵、じいちゃんからおやつ貰った!」 悟空から書類を避難させるために机の上を片づけ始めると同時に、扉が勢いよく開かれる。 「扉は、静かに開けろって何度言えば覚えるんだ、てめぇは!」 当然のごとく三蔵のハリセンが悟空の頭に振り下ろされた。それはねらいを違うことなく悟空の頭のへとヒットする。 小気味よい音が周囲に響き渡った…… ちゃんちゃん
|